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道化師は泣き、女王は笑う  作者: Mel


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08 届かぬ声

 行儀が悪いとは思いつつも、非常時なのだから仕方がない。鈴のついた足先で医務室の扉を押し開けると、薬の乾いた匂いが鼻をついた。


 散策の折に何度か足を踏み入れたことのあるこの部屋。名目こそ医務室だが、実態は女王や一部の貴族のみが利用を許された、特別な療養室である。

 目当ての寝台に抱きかかえていた女王を慎重に横たえると、騒ぎを聞きつけたのだろう、奥の小部屋から年老いた女医が慌てた様子で現れた。


「まあまあ……! これはいったい、どうしたことなのです?」

「陛下のお加減が優れません。呼吸は荒く、手先は冷たいというのに、額には汗が滲んでおいでです」

「陛下、おわかりになりますか? ……返事を。指先だけでも、動かせますか?」


 運ぶ途中で意識を手放したのか、女王の反応はどこか鈍い。女医がそっと頬を叩くと、彼女は煩わしげに眉をひそめたが、薄く開いた唇から言葉がこぼれることはなかった。


「ごめんなさい、身体を横向きにしてくれる?」


 女医の声に従い、道化師が女王の身体をそっと抱え起こして横向きに整える。その間に女医は奥へと引っ込み――入れ替わるように、あの馬車の中で密命を授けた侍女が、血相を変えて駆け寄ってきた。


「陛下、いかがされたのですか」

「……そろいもそろって煩い……少し、声を落としてくれないか」


 ようやく漏れた声は、いつになく弱々しい。


「お手に触れますよ。……まったく、最近はこのような発作は出ていなかったはずですのに、何があったのです」

「……王としての責務とやらを、果たそうとしただけだ……」

「実に健気なことではございますが、お控えくださいと、常々申し上げておりますでしょう。貴女は――ただ、ご自身の身を案じておいで下さいませ」


 侍女が彼女の手を取り、ぐっと力を込めて揉み込む。その間も、低く抑えた声で滔々と説教めいた言葉を続けるのを、女王は心底鬱陶しげに視線を逸らしながら受け流していた。

 

「……人払いをしていてよかったわ。あなた、鍵をかけてくれないかしら」


 布と桶を手に戻ってきた女医が、道化師に再び指示を出す。促されるまま扉の鍵をかけると、女医と侍女は手早く女王の汗を拭い、水を含ませた布を唇にあてがい、毛布でその身を包み込んだ。


 次第に女王の呼吸は落ち着きを取り戻し、容態もわずかに快方へと向かっているようだった。ほっと胸を撫で下ろしていると、侍女が女王の身体をそっと支え起こし、女医が湯呑を差し出す。中身を見て、女王が顔をしかめた。


「……また、これか」

「それが陛下のお身体にはよく効きますから。お飲みになったら、少しお休みくださいませ」

「あまり好かぬ味なのだがな……」

「我儘を言ってはなりません。こんな状態になるまで無理をした、貴女が悪うございます」


 侍女の容赦ない物言いに女王は眉をひそめたが、それ以上の反論はせず、渋々といった様子で少しずつ飲み干す。そして再び横になると、眩しげに目を閉じた。さきほどより、額に寄っていた皺は幾分和らいでいるように見えた。


「……落ち着かれたようですね。私たちも席を外しましょう。あなたも、ありがとう。お茶を用意するから休んでいって頂戴」

「それは嬉しいお誘いでございます。では、遠慮なく」

「私は仕事があるので、これで失礼します。……ここに連れてきたのは正解でした。その調子で、今後とも頼みますよ」


 すれ違いざま、侍女は道化師の肩を軽く叩き、ちらと女王を一瞥してから部屋を後にした。


 残された道化師は、女医に促されて奥の小部屋へと招かれる。かねてより散策の途中で立ち寄ったことのある場所で、備品の保管と女医の私的な休憩に使われている部屋だ。


 丸椅子に腰を下ろすと、四角い机の上に湯気を立てる湯呑が一つ、ことりと置かれる。薬草のような匂いが鼻先を掠め、思わず女医の方を見ると、「さっき陛下がお飲みになったものと同じよ」と、悪戯な笑みが返ってきた。


 恐る恐る口をつけてみる。――なるほど、独特といえば独特、変わっているといえば変わっている。少なくとも、美味とは言いがたい。口直しに出された茶菓子をかじると、優しい甘味が口いっぱいに広がった。


「陛下が嫌がられるのも、少し分かる気がします。これは、何か特別な効能が?」

「神経を鎮める薬草を煎じたものよ。美味しいものが身体にいいとは限らないってこと」

「なるほど。お医者様の言葉だと思うと、妙に説得力がありますね」

「本当はこれを飲まずに済むのが一番なんだけどね。――あんな発作、久しぶりだったから、正直、少し焦ったわ」


 女医はほうっと頬に手を添え、深く息を吐く。その仕草は、ただの職務とは別に、心から女王を案じていることを物語っていた。

 

「……もともと精神的に脆い方なのよ。自衛なさっていたはずだけれど……今日は、どうされたのかしら?」

「ええと……議会場でお貴族様方と、少しやり合いまして」

「あらまあ。いつもは適当に受け流していらしたのに、何かあったの?」


 道化師は、先の議会場での苛立たしいやり取りを思い返しながら、事の顛末をかいつまんで語った。女医の表情に、うっすらと陰が差す。


「……そう。蝗害の兆し、ね……」

「この国では前例が無いそうでして。円卓を囲む方々には、笑って一蹴されてしまいました」

「過去に無かったからといって、未来にも起こらないなんて道理はないのにね。洪水だって……周期的にはそろそろのはずだからって、先代様はちゃんと備えていらしたのに」


 女医は憂いを含んだ面持ちで薬茶を口にし、「……私もこの味、あまり好きじゃないのよね」と言って、舌をぺろりと出した。「余っちゃったから」と悪びれもせずに笑うその姿は、偽りに満ちたこの城内において、まるで最後の良心のようにすら思えてくる。


「せっかく出来上がったものを壊そうだなんて、それこそ無駄にもほどがあるわ。備えあれば憂いなしって言葉も知らないのかしら? 蝗害も心配だけど……その議会の様子じゃ対応は後手に回りそうね。あの人たちは、自分の膝元にまで被害が及ばない限り腰を上げないんだから」


 あまりにも遠慮のない物言いに、道化師はつい吹き出した。


「お聞き入れいただけなかったのなら……あとは身をもって知っていただくしかないですね。巻き添えを食う民には、申し訳ないのですが」

「ええ。結局、犠牲になるのは彼ら。――でもね、私は、その民のこともあまり好きじゃないの」

「ほう。それはまた、どういった理由で?」


 流れのままに軽い調子で問いかけると、にこにこと笑っていた女医の表情が、不意に凪いだ。


「……内緒よ。私の口から言うべきことではないもの」


 それ以上は語る気がないらしい。道化師は咄嗟に話題を切り替えた。


「……そういえば、先日陛下から胡粉なるものを賜りました。鉛白粉を使うなというお達しでしたが、何かご事情が?」

「ああ、あれね。――昔、陛下もお使いになっていたの。でもどうにも体質に合わなかったのか、たびたび具合を悪くされていてね。実際、女中にも体調を崩す子が多かったから使用は禁止されたのよ」


 女医の説明を聞いて、なるほどと頷く。きっと使われているものの中に悪いものが含まれているのだろう。


「でもね。安くて伸びもいいもんだからこっそり使い続ける子もいてね。中には『女王は女中が着飾るのを妬んでるんだ』なんて、馬鹿なことを言う子までいたのよ」


 そこで一度、女医は言葉を切ると、静かに吐息を漏らす。


「……本当に、気の毒な御方よ。何をしても悪意に結びつけられてしまうのだから」


 道化師に与えられた胡粉は、どう見ても高価な代物だった。精製にも手間がかかるのだろう。女中たちには手が届くはずもなく、いきなり禁じられても納得できぬ者が現れるのも無理はない。

 実際に道化師とて、女王から頂戴しなければいつもの白粉を使い続ける他なかった。……どちらの気持ちも分かりはするが、気遣いが悪意で返されては報われまい。


「……ただね、ちょっと安心したの。あなたが来てから、この城の空気が少し変わった気がするのよ。議長あたりは面白く思っていないかもしれないから……気をつけて。身の回りには、特にね」

「はてさて、こんな道化が相手にされるものでしょうか?」

「されるのよ。あの人たちは、陛下の味方が増えることを何より嫌うの。勢力を拡大されたら困るから。……むかしね、見せしめみたいに徹底的に潰された人がいて……それからは、陛下に味方する人がほとんどいなくなってしまったのよ」


 女医はそう言って少し視線を落とした。沈黙ののち、言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。


「だから……あなたには少しだけ期待してるの。どうか、陛下の力になってあげてね」


 ――言われるまでもない。


 そう即座に思った自分自身に、道化師は内心驚いた。


 肩入れする理由なんて何一つないはずなのに。

 金のためか。あるいは、白粉を分け与えられた恩義か。

 それとも……もっと別の、得体の知れない感情が芽吹いているとでもいうのか?


 ――馬鹿馬鹿しい、と頭を振る。

 そんなはずはない。ただ――あまりにも、哀れな人なのだ。

 それだけのこと。ただの同情。それ以上ではない。



 夜更け、ようやく目を覚ました女王は、何事もなかったように無言のまま寝台を降り、自室へと戻っていった。


 ――民は。貴族どもは。

 この背中を見ても、何も感じないのだろうか。


 その後ろを、ただ黙って歩きながら。

 道化師は、あまりにも細く頼りない背をずっと見つめ続けていた。

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