07 踊る愚者に笑う賢者
ひとは慣れる生き物だというが、全く持ってその通りだと思う。
女王と同じ褥に身を横たえることにも、いつしか慣れてしまった道化師。
ふと目を覚ますと、隣のぬくもりはすでに消えかけていた。
ひと一人分の空隙を挟んだ先。女王は上半身を起こし、薄暗い室内で何やら紙に目を通している。光を宿さぬ瞳が、静かに文字を追っていた。
「……朝から熱心でございますね」
「……なんだ、起きたのか」
「わたくし、朝は早い方でして」
「そうか。……ときに。お前は、他国で蝗害を目にしたことはあるか?」
起き抜け早々となる唐突な問いかけ。面喰らいながらも、道化師はこれまで巡ってきた国々の記憶を手繰る。
直接巻き込まれたことはなかったが……飛蝗が通り過ぎたあとの村を目にしたことはあった。
農作物や家畜の飼料だけでなく、民家の藁屋根も齧られ、小舟の帆布まで食い破られて、漁に出ることすらかなわない――。
もはや人の住める土地ではなく、残っていたのは土地にしがみつくものか、立ち退けぬ老人たちばかり。一座もそこに長居することはできず、次の村を目指して早々に立ち去った。
そんな荒れ果てた光景は今なお鮮明に残っている。
「……飛蝗が去った後の村であれば。暗澹たる有様でございました」
「そうか。この国ではこれまで被害はなかったのだがな」
「……兆しが、あるのですか?」
「外れの村に、ではあるがな。しかも報告があったのは先月とのことだ。よもや今になって、予算書と共についでのように報告を上げてくるとはな……」
小さく溜息を漏らし、女王はその紙を道化師へと渡してきた。
小難しい言葉が並んでいるが、要するに――辺境の村で小規模な飛蝗群が確認された、という内容であった。
「この件について臨時の会合を設定した。お前も来い」
「わたくしも、ですか? さすがに場違いなのでは……」
「芸を披露しろとは言っていない。事態を重く見ずに舐め腐った連中に、蝗害とは何かを教えてやれ」
「それは……ずいぶんと無茶を仰いますね……」
あの貴族どもが道化の話をまともに聞くとは思えない。それでも、女王直々の命令など、そうあるものではなかった。
――ならば、応えたいと思ってしまうのも、無理はない。
刻限が迫ると、道化師は女王の一歩後ろを歩き、臨時の会合が行われるという議会場へと足を踏み入れた。
貴族院を集められた議会場。
中央にある大きな円卓に既に着席していた貴族たちは、女王に続いて入ってきた道化師の姿を見て、あからさまに眉をひそめた。
「……陛下。本日は臨時会合と伺いましたが、そのような者を招き入れるとは、一体どういうことでしょうか」
貴族院の中でも一際仕立ての良い服に身を固めた男が、厳めしい顔をして道化師を睨みつける。
他の貴族たちもその男の言葉に頷き、あからさまな不快感を示した。
「この者には今後、外交の場に立ってもらうこともある。せっかくだから今のうちに空気に慣れさせておこうと思ってな」
「道化が外交を? ……いったい何をお考えなのやら」
鼻で笑うような声がそこかしこで上がる中、女王は静かに議場奥へ進み、円卓から外れた見てくれだけは豪奢な椅子へと腰を下ろした。
円卓の上座には先ほどの傲慢な男が座る。彼が貴族院の頂点である議長なのだろう。列席する十数名の貴族たちは、儀礼的に頭を下げるものの、女王に目を向けるものは誰ひとりとしていなかった。
「……此度集まって貰ったのは他でもない。東地区の農村で確認された飛蝗の群れについてだが――」
「畏れながら、陛下が気になさる話ではございません。いつものように、我々にお任せいただきますよう」
議長の横に座る肥えた男が、にやけた顔で周囲を見渡す。すぐさま別の貴族が応じ、「陛下は御療養中と心得ておりますゆえ」と、まるで気遣うような口ぶりで言い添えた。
――完全に、侮られている。
道化師ですらそう思うのだから、当の女王の胸中は察するに余りある。
やがて、取り留めのない雑談からようやく議題が蝗害へと移ると、女王が緩やかに顔を上げた。
「……この者が目にしたという、被害の様子を語らせる」
場が一瞬、静まり返る。
その沈黙を破ったのは、押し殺したような失笑だった。
「……はは、これは失礼。まさか道化殿には農政の才までおありとは」
「いっそ、害虫相手に踊りでも披露していただいたらどうだ? 一笑すれば、飛蝗も退散するやもしれんぞ」
どっと笑いが広がる。
だが、女王の背後に控えていた道化師はゆっくりと前に歩を進めると、女王に一礼し、円卓に向かい立った。
「皆々様、ご安心を。わたくし、最近は害虫とは馴染み深いようでして。……なにせ飛蝗もまた、集い、群れ、そして物を食い尽くす性質でございますゆえ」
ぴくりと、数人の貴族の眉が動く。
それが自分たちへの皮肉だと気づいた者だけが、わざとらしく鼻を鳴らす。
「我らが旅の途上で目にした村の姿、それは皆様の想像を遥かに超えておりました。飛蝗は麦を食い、葉を食い、藁を食い……挙げ句には家の屋根をも、帆布も、衣服までも喰らい尽くします。わずかに残されたのは、骨のように干からびた村人と、打ち捨てられた家畜の骸ばかり――」
滔々と語りながら、道化師は真摯に耳を傾ける女王と視線を交わした。
女王だけが、道化師の言葉を真正面から受け止めていた。
「……笑えるのは今のうちにございます。飛蝗は、ただの虫ではありません。群れとなれば雲を裂き、陽を隠す。倉に隠したところで防げる災いではございません」
「――ふむ。御託はその辺にしてもらおうか」
椅子を揺らしながら、先ほど嘲笑していた貴族のひとりが口を開いた。
「ならば我々がなすべきことはなんだ? 虫網でも持って、飛蝗を捕まえろとでも?」
「それらをお考えくださるのが、皆々様のお仕事では? なにせ、わたくしはただの道化にございますので。ですが……そうですね。孵化する前に卵を焼くか、鳥を放つと良いと聞いた覚えがございます」
「下らん知識を披露する暇があるならその醜い口を閉じていることだな。そもそもこの地に飛蝗が及んだことなどない。ほんの少し虫が湧いただけで騒ぐとは、まったく愚かしい」
「議長殿の仰る通り。……陛下は、どうやら道化の言葉に惑わされておいでのようだ。やはりご療養が必要かと存じます。どうか、もうお休みください。我々は貴族院の再編と税の配分について論じねばなりませんので」
道化師のみならず女王まで排斥しようとする貴族たちを前に、道化師は、議長を見つめた。老獪な雰囲気を漂わせた男。――あの男が、議会の場を操作しているようだった。
「……踊る愚者に笑う賢者、という諺がございますが――」
道化師は、あくまで穏やかな口調で呟いた。
「この国には、踊りに目を向けることもなく、ただ机上で論じるだけの賢者が揃っておられるようで」
「貴様……! 我々を侮辱するか……!」
「……よい」
二人の応酬を制するように、女王が静かに立ち上がる。
声量こそ小さくとも、その言葉は場の空気を切り裂くには充分だった。
「貴公らの意見はよくわかった。どうやら、私の考えすぎであったようだ。……気分がすぐれぬ。これにて、下がらせてもらおう」
裾を翻し、女王は議場をあとにした。
残された道化師もまた、冷笑の余韻を背に、彼女の後を追う。
「陛下……! どうか、お待ちくださいませ!」
しかし、女王は振り向かない。
無言のまま角を曲がり――そしてその場で、ふらりと壁に身を預けた。
息が上がり、細い肩がわずかに震えている。驚いた道化師は、慌てて駆け寄った。
「いかがされましたか。本当に……お加減が優れないのですか?」
「少し、眩暈がしただけだ。……声が頭に響く。騒ぎ立てるな」
その言葉に道化師は眉を寄せたが、彼女の蒼白な顔と、額に浮かぶ玉の汗を見ては、黙っていられるはずもなかった。
「医務室が近くにございます。少し休まれた方が……。……御身に触れることを、お許しいただけますか?」
道化師の問いかけに女王は声を発する余裕もないのか、微かに、しかし確かに頷いた。
「では――失礼いたします」
背負うには裾が邪魔になる。道化師は慎重にその身を横抱きに抱え上げたが――あまりにも軽い身体に、思わず言葉を失った。
余興の一環で歌姫を抱き上げたこともあるが、それとは比べ物にならない。
この人は――軽すぎる。まるで、魂の重ささえ削ぎ落としてしまったかのように。
荒い息を吐く彼女の姿にただならぬ不安を覚えながら、道化師は足早に医務室へと向かった。




