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06 触れてはならぬ場所

 過ごすうちに分かってきたことがある。

 どうやらこの国の者たちは、宮廷道化師という存在そのものへの馴染みが薄かったらしい。

 

 大国においては、「宮廷道化師」は決して珍しい存在ではない。

 王家に仕え、風刺と滑稽をもって権力を嗤い、時に芸を通じて王を諫め、民の声を届ける――それが彼らの役割だ。

 だが、この国では、そのような存在もただの"物珍しい余興"としか映らなかったらしい。

 道化師の芸に声を荒らげる者も少なくなかったが、次第に貴族たちも――その姿に慣れ始めていった。


 あるいは、皮肉と風刺という毒にようやく理解が追いついてきたのかもしれない。

 夜会に集う貴族たちはわざとらしいほどに寛容さを装い、笑いどころでは取り繕うように声をあげるようになった。

 ――ひとりだけ無表情ではいられまい、と互いに顔色を伺い合い、ぎこちなく漏らす笑い。

 その様はまさに、滑稽そのものだった。


 毎夜のように繰り広げられる宴席はというと、飽食の極みにあった。

 黄金の酒と、宝石のような料理。民の苦しみなど、ここでは存在しないもののように浪費されていく。飢えた民草の顔など、彼らの視界には最初から映っていないのだ。


 ただひとり、女王だけが沈黙のままその有様を見つめていた。

 咎めるでもなく、諫めるでもなく、ただ静かに――まるで、この光景をどこか遠くから眺めているかのように。

 それは、無関心とも諦観ともつかぬ、深い静けさだった。


 ――貴族院の傀儡。


 なるほど。

 そのように評されるのも無理はあるまい。今この場面だけを切り取れば、誰もがそう断じるだろう。


 だが、道化師は思うのだ。

 この国で最も高貴であるはずの御方が、なぜこれほどまでに孤独なのか、と。

 

 夜はと言えば、道化師は女王の寝台に共にありながら、ただ無言の時間を過ごしていた。

 夜伽を命じられるわけでもなく、芸を披露するでもない。ただ隣り合い、何事もなく夜を越すだけ。


 ある晩、とうとう堪えきれず、道化師は意を決して口を開いた。


「……陛下。よろしければ、蒙昧たるわたくしめに、その高貴なる頭の中を垣間見せてはいただけませぬか?」


 反応は薄かった。女王は分厚い本に視線を落としたまま、まるで無関心を装うように沈黙を保つ。

 だが、今夜ばかりは退かぬつもりだった。道化師は、あえて食い下がる。


「お付きの方より、貴女さまをお慰めするよう命じられております。このままではわたくし、ただ飯食らいとなってしまいます」

「……それで良いではないか。何もせず飯が食えるなど、民にしてみれば夢のような話だろう」

「いえ、わたくしにも多少なりとも矜持がございます。犬畜生でも芸の一つはしてみせるものでしょう?」


 冗談めかした口ぶりの裏には、紛れもない本音があった。犬畜生とは言ったものの、乳や卵を産むだけでも役に立つ畜生の方がよほどましと言えるだろう。

 

 不自由はしていない。日中は城内を散歩して顔見知りを増やしている。

 だが、ただ食って寝るばかりの生活は、道化師にとって耐え難いものであった。


 本に目を落としていた女王の手が、ふと止まる。

 淀みきった漆黒の瞳が、初めて真正面から道化師を捉えた――そんな気がした。


「……矜持、か。嘲笑われ、虚仮にされるだけの分際で、よくもそんな言葉を口にできたものだ」

「皆々様に笑みを届けるのが、わたくしの務めでございます。……もちろん、貴女さまも例外ではございません」


 女王は微かに唇を歪めた。それを笑みと呼ぶにはあまりに薄く、ひどく痛々しいものだった。

 戦後の町並みで見かけた孤児のものよりも、砲撃で手足を失った新兵のものよりも、なお仄暗い。

 ――深い闇が、この御方を覆い隠している。


 それでも道化師には自信があった。

 どれほど曇りきった空であっても、わずかな隙間から光は差し込むものだ。これまでにだって幾度も、絶望に沈んだ人々から笑顔を引き出してきたのだから。


 道化師は寝台の上で静かに姿勢を正し、深々と頭を下げる。


「どうか、この愚か者に機会をお与えくださいませ」

「機会……とな」

「ほんのひとときで構いません。毎夜、眠りにつく前に、わたくしの拙き芸を慰めものとして頂ければ――」


 それは道化師としての意地でもあった。ただ飼われているだけの自分に、少なからず嫌気が差していたのも事実だ。

 ただそれ以上に――毎日死んだように眠る女王に、僅かでも彩りを与えたかった。


「……それで、お前は満足するのか」

「無論にございます。さらに欲を申せば――貴女さまが少しでも微笑んでくださるならば、これ以上の栄誉はございません!」


 胸を張る道化師の言葉に、女王は呆れたように眉をひそめる。


「……お前の考えは、まるで理解できぬ。私に媚びを売って何になろう。何の益もないと、もう分かっているはずだ」

「売れるものは売れるうちに売る。それがわたくしの信条でございます。売り時を見誤った媚びなど、いずれ腐り果ててしまいましょう?」

「……勝手にしろ」


 そう言い捨て、女王は再び本に視線を戻した。


 それは拒絶ではない。むしろ、「好きにしろ」といういつもの投げやりな許し。

 ほんのわずかであるが、彼女の心の扉が軋んだ音を立てた気がした。


「では早速――まずはわたくしの美声を!」

「……うるさいのは却下だ」

「そんなぁ!」

 

 軽口はあっさりと退けられる。

 だが、今のやりとり自体がこれまでにはない反応であることに、道化師は小さくほくそ笑んだ。


 女王は本を閉じると、寝台脇の小卓に手を伸ばす。そこには、油灯の小さな炎が、かすかに揺らめいていた。

 指先がその火を落とすための蓋に伸びた――その瞬間、不意に本を取り落とし、女王の動きが乱れる。

 彼女の指先が、熱を帯びた金属にかすかに触れたのが見えた。


「陛下!」


 咄嗟に声をあげた。しかし、間に合わなかった。肉の焼けるような音が静寂に小さく響いた気さえする。


 すぐさま女王の手を取ったものの、彼女はまったく動じる様子もない。道化師の手を煩わしげに払いのけると、拾い上げた本を元の位置に戻し、淡々と蓋を落とした。


 部屋は瞬く間に闇に沈む。

 その無言の仕草が、かえって事態の異常さを際立たせていた。


「お待ちください、陛下。火傷を……早く手当をしませんと、痕が残ってしまいます。すぐに侍医を――」


 慌てて言葉を継ごうとした道化師を、女王の低い声が制した。


「不要だ」

「ですが――」

「よいと言っている。取るに足らぬことだ。騒ぐな」


 女王の声音は冷ややかで、どこか遠い。まるで自分の身体のことなど意に介していないかのようだった。


 ――取るに足らぬ? まさか、貴き身の方は熱を感じないとでもいうのだろうか?

 いや、そんな馬鹿な話はない。王族とて人間なのだから。

 

 否応なく脳裏に浮かぶのは、まるで死人のように青白く横たわる、あの寝姿。


「これ以上騒ぎ立てるなら、追い出す」


 淡々とした、けれど確かな重みを帯びたその一言に、道化師は言葉を呑んだ。脅しではないだろう。……いま、追い出されるわけにはいかない。


 やがて、静かな寝息が聞こえ始める。

 すっかり闇に閉ざされた部屋の中、道化師はそっと身を起こした。


 彼は音を立てぬよう慎重に、小卓へと歩み寄る。

 恐る恐る指先を伸ばし、先ほど女王の触れた金属へと指を乗せた瞬間――。


「……っ!」


 反射的に手を引く。そこには確かに熱が宿っていた。何気なく触れれば、容易に火傷を負うほどの熱が。


 ――あの指は今、どのような痛みに晒されているのだろう。

 確認しようにも、その指先に触れる権利を、道化師はまだ持ち合わせていなかった。

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