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05 愚者、宮廷を歩く

 宮廷道化師としての、望まぬ生活が始まった。


 とはいえ、基本的には女王の居室に控えるばかり。たまに夜会や他国の使節との会談に呼び出される程度で、その時ばかりは水を得た魚のように芸を振るうものの、日々は驚くほど単調だった。

 

 つまりは――時間を持て余しているということだ。

 だが、奇妙なことにそれは女王も同じことのようだった。

 王という立場でありながら、彼女が公の場に姿を見せるのは、わずかな会合か会食の場くらいなもの。食事も隣室の小間で黙々と済ませ、あとは己の居室にひとり籠もりきり。


 同じ空間にいることを余儀なくされているというのに、「騒ぐな」と命じられた道化師は、息を潜めるような生活を強いられていた。


「……陛下。芸の肥やしとするためにも、この城のあれこれを知っておきたく思います。御用のない時に限り、外へ出ても構いませんでしょうか?」

 

 朝餉を終えた折、意を決して問いかければ――女王はいつものように、乾いた声音で応じた。


「好きにしろ」


 興味も感情も滲まない、たったの一言だけ。その無機質な反応に、道化師は苦笑を返すしかない。


「ありがたき幸せ。……では、何か、城で過ごすうえで注意すべきことはございますか?」

「特にはない。……お前の目に、この国がどう映るのか楽しみなものだな」


 意味深にそう告げると、彼女は寝台へと移動する。まるで儀式のように静かに横たわり、またあの厚い書物の頁を捲り始めた。


 ――この部屋に追いやられているのか。それとも、自ら望んで籠もっているのか。


 それを見極めるためにも、道化師は手早く支度に取り掛かる。

 鏡台を借り、白粉と紅で仮面を作る。筆を額にあてた瞬間、背後から――衣擦れの音が、ごく微かに響いた。


「……その白粉。鉛は使われているものか」

「鉛、でございますか? さて……馴染みの店で仕入れているものでして。何が使われているかまでは……」

「その鏡台の下の段に胡粉(ごふん)がある。勝手に使え」

「ごふん……?」


 言われるがままに鏡台の引き出しを開くと、小ぶりな白磁の壺が置かれていた。

 蓋を開ければ、内には月の粉にも似た白が、息を潜めるようにひっそりと沈んでいる。


 親指と人差し指で摘まみとる。使い方はいつものものと変わらなそうだ。混ぜ皿に適量をすくい、水を含ませる。混ぜ棒をそっと回せば、白い粒子がゆっくりと溶け、淡く光を帯びていく。

 まるで月光をすり潰したような、柔らかな艶が混ぜ皿の底に広がっていった。


 指先に取り、そっと額に伸ばす。生暖かく、滑らかな胡粉が薄く肌に馴染む。

 頬、顎、鼻筋……指が通るたびに道化の仮面が形を成し、やがて、顔の輪郭が白の中へと溶けていく。


 時間と共に水分が引き、肌の上に薄い殻が張る。

 ひとつの儀式が完了した。


「……これはとても良いものですね。扱いは少々難しそうでありますが……。それに、とんでもなくお高いのでは?」

「知らん。だが好きに使うといい。足りなくなれば、侍女に申し伝えろ」

「侍女殿、でございますか?」

「お前たちに接触してきた女がいただろう。あれのことだ」


 ――なるほど。あの女は、女王付きの侍女であったか。

 どこか只者ではない気配を纏っていたが、どこか得心がいった。


「かしこまりました。……ちなみに、鉛が使われていると何か問題でも?」

「……無知は罪だ。自分で調べろ」


 素っ気ない一言に、道化師は素直に「なるほど」と頷いた。実に女王らしい返しである。


 最後に紅を唇に塗りたくり、顔の下半分に笑みを象る。

 仮面が整ったことを確認し、道化師はそっと扉へと向かった。不興を買わぬうちに退出するのが賢明だと判断して。


 

 

 この城に来てからというもの、夜会の舞台となる大広間か、要人との会談が行われる貴賓室くらいしか訪れる機会がなかった。

 だからだろう。目に映るすべてがどこか新鮮に思える。

 ましてやこうしてひとり気ままに歩くのは久しぶりのこと。軽やかな足取りに合わせて、つま先の鈴まで楽しげに鳴っていた。


 回廊を進めば、すれ違う者たちの視線が痛いほど突き刺さる。道化師という存在が珍しいのであれば、奇異の目を向けられるのも遠巻きにされるのも仕方のないことなのだろう。


 ――とはいえ、すべてが排他的というわけではなかった。


 裏庭の洗濯場で出会ったのは年若い女中。彼女は屈託のない笑顔を向けてくれた数少ない一人である。


「――わあ、道化師さんなんて初めて見ました!」

「お初にお目にかかります。……せっかくですので、ご挨拶代わりに」


 にこやかに一礼しつつ、小さな花を取り出す手品をひとつ。

 驚きに目を丸くし口元を手で押さえる女中は、恐る恐る花を受け取って「すごい……」と感嘆の息を漏らした。


「どういう仕掛けなんですか?」

「それは秘密とさせてくださいませ。……皆様はここで、洗濯を?」

「ええ。道化師さんのその衣装も、いずれ私たちが――」

「こらっ、新入り! 喋ってないで手ぇ動かしな!」


 先輩からと思しき叱責の声に肩を跳ねさせた彼女は、慌てて道化師にぺこりと頭を下げ、籠を抱えて小走りに戻っていった。


 陽の下で、楽しげに洗濯物を紐に干していく女中たち。

 それを眺めていると、心まで洗われるような気さえしてくる。

 何しろこれまでこの城で目にしてきたのは、酒と奢りに酔い、己の欲望に忠実なる面々ばかりだったから。



 気ままな散策は続くも、特に目的地があるわけではない。ただ、どこに何があるのか、この城をひと通り見ておきたかった。


 ――と、次なる場所では思いがけぬ声が飛んできた。


「なんだぁ!? 不審者が入り込んでやがんのか!?」


 美味しそうな匂いに誘われて辿り着いた先は、厨房だった。

 料理人たちも、道化師の姿を目にするのは初めてだったのだろう。鍋をかき混ぜていた若い料理人が、訝しげな目で道化師を睨み、手にしていたお玉をずいと突き出してくる。


「いやいや、どうか落ち着いてくださいませ。わたくしはただの道化師でございます」

「道化師、だぁ? ……ああ、最近入ったって奴か。こんなイカれた格好してるとは思わなかったぜ」


 あんまりな第一声であるが、それも無理はないかもしれない。自分としては見慣れた化粧だが、やはり他人から見れば不気味に映るのだろう。

 敵意がないことを示すように深々と一礼すると、料理人はどこか安堵したようにお玉を下ろした。


「こちらでお食事を用意されているのですね。わたくし、あまりの美味しさに頬が落ちたままでございます」

「そりゃどーも。ってことは陛下用の食事が二人前になったのはお前のせいか。……いいか、使ってるのは超一級品なんだ。深く、心して味わえよ? ……肝心の陛下は相変わらず食が細いがな。いや、最近はパンを口にするようになったか?」


 女王とは数度食事を共にしたこともある。とはいっても一口、二口をつまんだらあっさりと箸を置いてしまい、道化師が食事中であろうと構わずに口元を押さえて立ち上がってしまう。

 手がつけられずに寂しげにしていたパンを、密かに自分の腹の中に迎えることもあったが――。


「……申し訳ございません。それは、わたくしの胃袋にございます」

「お前なぁ……! こっちは陛下の食事量も気にしてるんだから、勝手なことしてんじゃねぇ!」

「残すのは勿体ないかと……お詫びに、この通り腹を切ってお詫び申し上げましょう!」

「は? いや、そこまでは――」


 小道具の短刀を懐から取り出し、芝居がかった動きで腹に突き立ててみせる。

 料理人は「ぎゃああああ!」と間抜けな悲鳴をあげて飛びのいた。


「ちょっ、誰か医者呼べ! こいつ刺したぞ!」

「……許して……いただけますか……?」

「バカかお前は! こんなことで死なれたら笑い話にもなんねぇよ!」

「それならようございました。食事量につきましては、わたくしが紙にて記録を残すことにしましょうか。……なにぶん、美味なる料理を無駄にするのは忍びなくて」


 けろりとした顔で、何の傷もない腹をぺたりと見せる。

 無言でお玉が振り上げられたのを見て、ひょいと身を引けば、鼻先をかすめて通り過ぎた。


「……いい度胸してんな……! ま、面白い奴が入ってくる分には悪くないが……次やったら本気でぶん殴るからな。それと、今のは絶対に陛下や侍女の姉さんの前でやるんじゃねぇぞ」

「おや、それはまたどうして?」

「昔、短刀で喉突いて死んだ奴がいたんだよ。……思い出すだろ」


 口調は荒っぽいが、その語尾には確かな気遣いが滲んでいる。


 ああ、なるほど――この城にも、こういう気遣いのできる者がいるのだ。やはり出歩いて正解だった、と道化師は小さく頷いた。

 

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