04 白塗りを落とす夜
翌日の昼。いつも通りに化粧を施し、赤・黄・青の縞模様が鮮やかな衣装に袖を通した道化師は、指定された時刻に城門へと足を運んだ。
謎めいた女の言葉どおり衛兵にはすでに話が通っていた。
すんなりと城内へ案内され、通されたのは想像以上に立派な一室だった。
椅子や机、絨毯に至るまで、目に映るすべてが贅を凝らしている。王城という場所を思えば当然なのだろうが――それでも、流れ者の旅芸人にはあまりにも場違いな厚遇だ。
冗談のような話だが、どうやらこの部屋は今日から道化師のものらしい。疑念は増えるばかりだが、今さら逃げ出す気にもなれない。
王城を訪れたのは、どうやら道化師ひとりだけのようだ。ほかの仲間たちは城下や近隣の村へと散っていったらしい。
果たして自分は「当たり」だったのか、それとも「外れ」だったのか。
いったいどんな仕事を仰せつかるのか。
やきもきしながら上等な寝台の上に腰を下ろして指示を待ったは良いものの、日が暮れ、夕餉の時刻をとうに過ぎても何の呼び出しもない。
仕方なく持ち込んだ鳥籠の白鳩と戯れつつ、ひとり寂しく簡素な食事をつつくうち、不安がじわじわと胸を満たしていく。
……もしかして、忘れられているのでは……。
窓の外の景色はすっかり暗闇に沈み、欠伸をひとつ、ふたつと漏らした頃。唐突に扉が二度叩かれ、道化師はびくりと肩を震わせた。
「女王陛下がお呼びでございます」
ようやく声がかかった。
ただ、時間も時間である。これから夜会の類があるとは考えられない。
道化師の胸に、あらぬ予感が忍び寄る。
――まさか『慰め』とは、そうした意味なのではあるまいな……。
不安を抱きつつ年若い女中に案内されたのは、まさしく女王陛下の私室。
扉の前に立つやたら体躯の良い近衛兵は、化粧を施した道化師を一目見るなりあからさまに目を見張ったが、すぐに咳払いをして顎で中へ入れと促した。
念のために控えめなノックをするも、中から応じる声はない。
僅かに躊躇いながらも、そっとドアノブに手をかける。冷えた金属と鍵の感覚だけが手元に残った。
振り返って近衛兵を見やるも、彼は何も言わず、我関せずと言わんばかりに視線を伏せたままだ。
――そういえば。
あの女が手渡してきた、小さな鍵を思い出す。
半信半疑のままそれを鍵穴に差し込めば、軽やかな金属音が響いた。
ゆっくりと扉を押し開けると、重々しい音が静謐な空間へと溶けていく。
広々とした室内に、女王の姿は見当たらない。
緊張を滲ませながら一歩を踏み入れ、奥へと視線を巡らせる。
部屋の最奥、天井から下ろされた薄布の帳が風もないのにふわりと揺れる。その奥に、確かに人の気配があった。
道化師はひとつ深く息を吸い込み、いつものように道化の笑みを顔に張りつける。
「失礼いたします! お呼びとあらば、何処であろうとも馳せ参じるのが道化の務め! ――まずは軽く一席、笑いでも――」
「よい」
低く、冷たい声がその口上を遮った。思わず笑みが凍る。出鼻を挫かれるとはまさにこのことだ。
冷ややかな視線も、無愛想なあしらいも、道化という生業にあれば日常のこと。
――だが、今宵の演目は何もかもが違っていた。
舞台は広々とした居室の最奥。
観客はたったひとり。
出囃子も無ければ前説も無い。
どうしたものかと逡巡したが、まずは敵意が無いことを示すように両手を広げて一礼した。
「……御姿を、拝見しても宜しゅうございますか」
「許す」
本来であれば帳の奥を覗くことなど許されるはずもない。
けれど女王は、それを当然のように許した。
――その言葉の裏にある意味を量りかねたまま、道化師は一歩、帳の奥へと足を踏み入れる。
微かに木の香が鼻をくすぐった。
その香の中に、彼女はいた。
豪奢な寝台に身を横たえ、分厚い本を一冊、手に取っている。
ゆったりとした夜着に身を包み、長い髪をほどいて背に垂らすその姿は、夜会で見た威厳を纏う女王とはまるで別人。
言葉を呑むほどに静謐で――そして、あまりに無防備だった。
「……お前の私物は、明日にでもこの部屋に運ばせよう。今宵は化粧を落として休むといい」
あまりに唐突な言葉に、道化師は返す言葉を失った。まさか今後はここで過ごせというのだろうか。それに……休めと言われても、ではどこで?
改めて室内を見渡す。王の寝台、小卓、椅子、鏡台。――それだけだ。客人用の寝具もなければ、召使いが控える部屋も見当たらない。下賤の身など、床の上で寝ろということか?
たしかに壁があり、屋根があり、ふかふかと厚みのある絨毯が敷かれている。下手な野宿に比べればずいぶんと贅沢な寝所であることは確かだが……。
貴き身の方は何を考えているのか分からない。どう動くべきかも分からずにただ立ち尽くす道化師を前に、女王は緩慢な動作で身じろぎ、傍らに人ひとり分の空隙を作った。
まさか。……まさか?
――やはり、夜伽を求められているのだろうか?
そういったことを命じられる宮廷道化師がいるという話も、決して珍しいものではない。
だからといって、それが自分の身に降りかかろうとは想像すらしていなかった。
小卓に置かれた油灯が、翳りを帯びた黒い瞳を照らす。
年齢は自分よりやや上か。今宵は化粧を施していないためか、公の場で目にしたときよりも幾分も弱々しく見える。白い肌には青い血管が浮き、痩けた頬には影が落ちていた。
その姿はどこか痛ましく、女王というよりは、疲弊しきったひとりの女。その姿に、道化師は言い知れぬ不安を覚えずにはいられない。
思わず無言のまま凝視してしまったのが気に障ったのか、女王はわずかに眉をひそめた。
「……いつまでもそこに立たれては目障りだ。早くしろ」
「は、はあ……しかし、このような格好では寝具を汚してしまいます」
「ならば、そこにある服にでも着替えろ。この部屋にいる限り好きに過ごしてよい」
「いえ、ですが……。わたくしなどが、そのような……」
道化師の迷いを、女王の鋭い声が断ち切る。
「私が『よい』と言った。……我が言葉に逆らう気か?」
じろり、と射抜くような視線。
それだけで、道化師はあっさりと白旗を上げた。
逃げるように部屋の隅へ移動し、慌てて派手な衣装を脱ぎ捨てる。
代わりに用意されていた上質な長衣に袖を通し、ついでに片隅にあった湯桶と布で顔を拭った。
観客の前で白塗りを落とすなど、道化師としては本来ならば考えられぬこと。だが、ここで逆らっても良いことはなさそうだ。
顔に残る水滴を全て拭い取り、やがて準備は整った。
あとは覚悟を決めるだけだ。
意を決し、女王のもとへと歩み寄る。
そっと身を滑らせるようにして寝台の端に腰を下ろすが、女王はといえば、道化師に一匙の関心も示さなかった。
「あ、あの……わたくしは、いったい何をすれば良いのでしょうか?」
「静かにしていろ。眠たければ、寝ていて構わぬ」
「えっ……」
まさか、まさかの放置宣言。拍子抜けしたと言うべきか、困惑と言うべきか。この女王がいったい何を考えているのか、道化師には全く見当がつかない。
女王はそんな道化師の戸惑いを意に介することもなく、手にしていた書物をぱたりと閉じ、無造作にテーブルへと放り投げた。
そして何の前触れもなく灯りを落とし、無言のまま眠りにつこうとする。
本当に、ただ眠れということなのだろうか。
暗闇に包まれた室内で、思わず問いかけそうになる衝動を道化師は必死に呑み込んだ。
仕方なく、控えめに掛け物を手繰り寄せ、自らも身を横たえる。
これまでにも幾度となく、思いがけぬ舞台や予期せぬ事態に遭遇することはあった。
そのたびに柔軟に立ち回り、最悪を笑いに変えてきた自負もある。
――だというのに。
肌を撫でる寝具の柔らかさも、微かに漂う香の気配も、すべてがあまりに非日常で。
まるで夢のなかに放り込まれたような心地がして、どうにも落ち着かない。
――簡単に眠れるほど、己の神経は図太くできてはいなかったようだ。
静けさのなか、寝具の衣擦れだけが、やけに耳についた。




