32 道化師は泣き、女王は笑う
城門へ向かって進軍する軍勢。
あれこそが座長の言っていた聖国の軍なのだろうが――それにしても、あまりにも遅い、遅すぎる。
だって女王の身を焼く焔は、既に足元にまで及んでいるのだ。離れた位置にいる道化師でさえ、熱気と煙に咽せ返りそうだった。
このままでは、本当に彼女の身体が、劫火に呑まれてしまう。
謎の軍勢に動揺の色は広がっていたが、気付かぬ様子の最前列からは、火に包まれつつある女王を嘲る声のほうが大きく響いていた。
舞台の上で踊り狂っていた道化師の足が、ぴたりと止まる。
――駄目だ。もう待ってはいられない。
もはや計画などどうでもよかった。たとえ自分ひとりでも、この手で彼女を救わねば――!
そう決意しかけたその瞬間。
頭上から、無情な声が降ってきた。
「――止まるな」
声は、どこまでも冷酷だった。
すでに周囲には誰もいない。人々は遠巻きにして、女王が焼け死ぬ瞬間だけを待っている。
道化師はたまらず、女王へと叫んだ。
「陛下! 今すぐお救いします……!」
「ならん。お前は、お前の役割を果たせ」
「ですが――このままでは、貴女さまが本当に死んでしまう!」
もはや悲痛な叫びだった。目の前で愛する女が焼け死のうとしているのに、歓喜し囃し立てる民衆の前で、なお芝居を続けるなど――できるはずもない!
「間もなく救いが来るはずです! どうか、それまで……!」
下半身は、もう駄目かもしれない。だが今なら――今ならまだ、命だけは助かる。
けれど、女王は再び「ならん」と首を横に振った。その声には意地など微塵もなく、確かな意志と矜持だけが宿っていた。
「……奴らは、来ない」
「……え?」
間抜けな顔を晒す道化師に、女王は淡々と言葉を続ける。
「この黒煙が消えるまで、彼らは待っている。女王が暴徒により無残にも焼き殺された――その惨劇がなければ、国に介入する正当な理由がないからだ」
「そんな馬鹿な……! それならば近衛騎士団は……! 貴女さまをお守りすべき彼らはどこにいるのですか!」
「逃げた貴族を追っている。それが彼らの役割だ。私は道化の奇術で逃げられるから安心せよと伝えている。……まったく。かつての団長に似て、とても純粋な連中なことだ」
全てを知っていたかのような声色に、道化師の血の気が引いた。
――彼女は最初から、すべて分かっていたんだ。
すべて分かっていてなお、ここで誰よりも惨たらしく焼かれ、死ぬことを選んだのだ。
「嫌だ! あんたを死なせはしない!」
「さあ、道化よ。我が死を――未来永劫、語り継ぐがいい。それがお前の、生涯をかけて果たすべき役割だ!」
「ふざけるな……! こんな……こんなことを俺にさせないでくれ……!」
観衆の視線は、ただ女王の焔に注がれていた。
黒煙の向こう側の舞台上で言い争う二人の姿など、もはや誰の目にも映っていない。ただ罵り合い、騒ぎ立てている――その程度にしか思われていないのだろう。
女王の衣服に火の粉が燃え移る。
だが、彼女は顔色一つ変えず、何かを待つように前を見据えていた。
つられて、道化師もその視線を追う。
――遥か遠く。
蒼河を隔てる堤防の端が、崩れ始めていた。
それを見た誰かが指をさし、笑い、手を叩いて喜ぶ姿すら見えた。
女王の瞳が見開かれる。
そして、ぽろぽろと涙がこぼれたかと思うと――口元を大きく歪め、笑い出した。
「フフ……アハハハハ……!」
「陛下……?」
「見よ、道化よ! 愚か者たちが……自らの手で、盾を崩しているぞ! こんなに愉快なことがあるか!」
女王の言葉どおり、堤防は群がる人々の手によって徐々に壊されていく。
一点を突き抜けた先で、蒼河のきらめきが見えた気がした。
「なんということを……!」
あれこそが、彼女が王たる理由――その最たるものだったはずなのに。
いまや瓦解していく堤防を、女王はまっすぐに見つめ続けていた。これこそがこの国の終焉であることを知っていたかのように。
「――ああ、父よ、見ていますか! 貴方の悲願はいま――貴方が命を賭して守ろうとした民草の手で、こうして打ち砕かれたのですよ!」
虚ろだったはずの瞳が、今は焔に照らされ、燦然と熱を宿している。
後ろ手が千切れそうなほどに身を乗り出し、彼女は――ただ、嗤っていた。
「アハハハハッ! 死ね、みんな死んでしまえ……! こんな国、河に呑まれて滅びてしまえ!!」
その嗤いは、道化師が夢にまで見た柔らかな微笑みなどではなかった。
それはただ――心が完全に壊れた女の、どうしようもなく痛ましい絶叫だった。
道化師は、ようやく思い至る。
――自分では、力不足だったのだ。
彼女の深い孤独に触れ、その痛みを真に癒すことなど……最初からできやしなかったのだ。
哀しみと絶望の只中で、道化師はそっと二股帽子を脱いだ。
中にいたのは――一羽の、白い鳩。
煙に追い立てられるようにして、鳩は空へと舞い上がる。
女王の前をゆるやかに旋回し、その存在に気づいた彼女は、狂気の笑みを止め、食い入るようにその小さな姿を見つめていた。
鳩はさらに天高く――煙と炎の上を越え、やがて空の白い雲と溶け合うようにして、消えていった。
その瞬間。
女王は、ふと力を抜くようにして――柔らかに微笑んだ。
劫火は容赦なくすべてを焼き尽くす。
耳には、火が空気を焼く轟音を。
鼻には、肉と煙の焦げた匂いを。
目には、業火に呑まれゆく女王の姿を。
五感のすべてに、愛しい人の最期を刻みつけて。
道化師は舞台の上で再び舞い始めた。
煙は容赦なく道化師をも包み込み、あふれる涙が止まらない。
それでも芝居は終わらない。
終わらせてはいけなかった。
「さあさあ、皆々様! ご覧あれ! 悪しき女王もこの通り! 悪政の象徴である堤防も――皆様の手で崩れ落ちておりますぞ! ああ、なんとめでたき日だ! しかとその目に焼き付けよ!」
絶叫は歓声と混じり合い、狂乱の渦へと消えていった。
焔に包まれた気高き女王は、最期まで一言も発さなかった。
皮膚は焼け落ち、指は炭と化し、瞳は熱に白く濁っていく。
――痛みを感じぬ身体であったことが、今となっては、唯一の救いだったのかもしれない。
彼女は身じろぎひとつせず、ただ黙って空を見上げていた。
命を焼き尽くした後も、焔はなお貪欲だった。
すでに魂の去った肉体を、それでも執拗に舐め尽くす。
舞台そのものが焼け落ちようとする中、道化師はようやく足を止めた。
――ともに、果てよう。
王として死んだ彼女の隣で、宮廷道化師として、炎に呑まれよう。
熱風が頬を撫でる中、空を仰いだ、その瞬間――頬に、冷たい雫が落ちた。
雲ひとつない空に、太陽はあった。
だというのに。天は気まぐれな帳を垂らすように、大粒の雨を降らせた。
雨は焔を削ぎ、黒煙を鎮め、道化師の全身を濡らしていく。
「――ハハッ! やっぱり天にも見放されたんだ、あの女は!」
誰かが嘲るように笑った。
火は鎮まり、煙も霧散したあとに残されたのは、女王の形を象った黒炭の亡骸だけだった。
そして、頃合いを見計らったかのように――外に控えていた軍勢が、城下へと進軍した。
名目は「王を失い混乱した民を鎮めるため」。
実際にその姿を目にしただけで、民衆は冷水を浴びせられたように熱を失った。
ややあって近衛騎士団も駆けつけ、民衆を散らした。
しかし、すでに手遅れだった。
……いや、彼らは命じられた役割を、忠実に果たしたにすぎない。
舞台にただひとり立ち尽くす道化師の元へ、近衛兵が歩み寄った。
「よくぞ最後まで演じ切ったな。……これで、あの御方は救われたのだろう?」
「――左様でございますね。……きっと、救われたのだと思います」
「壮絶だったな。あれが脱出劇だと見抜けず、助けに走ろうとした者もいたくらいだ。……で、陛下はどこへ? すでに聖国へ渡られたのか?」
――ああ、なるほど。そういうことだったのか。
だから密命を授かったとき、あれほどまでに「他言無用」と釘を刺されたのだ。
密かに動いていた者たちは、皆、女王を救うために力を尽くしていたはずだった。
だってまさか、彼女自身が死を望んでいたなどと――誰が思うだろうか。
もしその真意が知られていれば、誰ひとりとして協力などしなかったに違いない。
だから、誰にもすべては語られなかった。
点と点は、意図的に繋がらないようにばらまかれていた。
――最初から、女王だけがすべてを知っていたのだ。
「……ご苦労されたのだ。女王としての立場から解き放たれた今、心穏やかに過ごしていただきたい。……許されるのであれば、お傍でお仕えできれば良いのだがな」
女王は彼らを「純粋な連中」と評した。道化師も、今ならその言葉の意味がよく分かる。
こんな何の仕掛けもない舞台の上で。
脱出の余地などあるはずもなかろうに。
それでも彼らは信じている。いや、信じさせられている。
女王は聖国へと渡り、一人の女として穏やかな日々を送るのだと。
自分たちもいずれその後を追い、今度こそ正しく忠誠を捧げ、真に守り抜くのだと――。
それは、女王が悪意を持って遺した夢。
遅かれ早かれ気づくだろうが、それは彼らに与えられた、ささやかな罰だ。
「……それはまさか、本物の遺体を使ったのか? 藁人形ではないようだが……」
焼け崩れた支柱の傍に、女王の亡骸は静かに残されていた。
道化師は、そっとその身を抱き上げる。
雨が降りしきる中でも、なお熱を宿した身体は、道化師の腕を焼くかのようだった。
だがその熱が、道化師にとって――唯一の救いだった。
「……こちらは、わたくしのものです。……どうか、舞台下に転がるお貴族様方の片づけを」
「……ああ。悪しき家々の者だけを奴らに引き渡したが……あの者らの末路もまた、皮肉なものだったな」
近衛兵の声ももはや遠く、道化師はただ、彼女の頬に手を添える。
冷え始めたその肌に自分の体温を押しあてるようにして、ずっと心の奥に秘めていた言葉を、そっと落とした。
「共にありましょう。……もう、あなたは王ではないのだから」
道化師は、燃え残る舞台の陰へと身を隠した。
――託された密命を果たすために。
最後の幕が下りる、その時まで。




