31 誰がための芝居か
――何やら、騒ぎ立てる声が聞こえる。
微睡みと覚醒を繰り返していた道化師が、ゆっくりと目を開ける。
視界にぼんやりと映ったのは――昨日、女王に暴言を浴びせていた男たちの姿だった。
鉄格子のすぐ向こう。彼らは興奮を隠す様子もなく、牢の前にたむろしている。
その中には、彼らと似たような格好に扮装した曲芸師の姿も混じっていた。
「ハッ、女王様は藁の上でなんて寝られなかったご様子だぜ。道化師は呑気に寝こけてるってのにな」
「さあ出てきやがれ! 下々の皆様が、あんたの最期を一目見ようと広場に集まってるんだよ!」
乱暴に扉が開け放たれる音が響き、道化師は飛びあがる。目にしたのは、髪を掴まれ、引きずられるようにして連れ出される女王の姿だった。
思わず格子に縋りつき彼女へと手を伸ばす。――が、曲芸師にその手を払い落とされた。
薄ら笑いを浮かべながら、鉄格子越しに顔を寄せてくる。演技だと分かっていても焦燥は募るばかりだ。
「お前も女王のことが憎いんだろ? とびきりの舞台を飾るのがお前の最後の役目だ。感謝しな」
曲芸師の背後。
男たちに囲まれて亜麻色の髪を振り乱した女王と、一瞬だけ視線が交わる。
「――ああ、それはなんたる僥倖! 陛下! 女王としての貴女さまの最期を飾るこの大舞台、楽しみにしております!」
――端から聞けば、ただの恨み言にしか聞こえないだろう。
だが、女王は応じるように小さく頷くと、自分の足で歩き出す。
彼女の背が階段の先へと消える頃、曲芸師が小声で耳打ちしてきた。
「……このあと入れ替えを行う。侍女殿があの方を外へ連れ出す段取りだ。俺はまだひと仕事残ってるが……お前は先に城下へ行って、いつも以上に派手にやれ。火刑の時に歌姫から視線を逸らすのがお前の仕事だ。分かったな?」
「分かってる……!」
失敗は許されない。震える指先を握りしめる。
地下牢の扉は開け放たれ、道化師は迷わず女王の居室へと向かった。
――宮中は既に荒れ果てていた。
使用人や兵士たちの姿はなく、絵画も、絨毯すらも奪い去られている。
王家の誇りは剥ぎ取られ、壁に残る燭台だけが寂しげに残されていた。
近衛兵の姿も無い。きっと女王の危機を前に歯を食いしばりながら、己に与えられた役目を忠実に果たしているのだろう。
それは自分も同じこと。しまい込んだままの鍵を使い、道化師は居室の扉を押し開ける。
「――良かった。無事だったか」
懐かしい香りに包まれた室内。
部屋の片隅には鳥籠があり、鳩が羽をばさりと鳴らした。中にはりんごの欠片も残されており、女王がきちんと世話をしていたことがわかる。
「お前も最後の大舞台だ。俺と一緒に来てくれるな?」
鳩は応じるように、喉を鳴らした。
化粧道具も部屋にそのまま残っている。
剥げ落ちた顔を入念に塗り直し、口元は真紅に染め上げた。
服は薄汚れていたが、それすらも終幕に相応しい衣装だった。
すべての準備を整えた道化師は、鼓笛隊が歪んだ音楽を響かせる城下へと、迷いなく駆け出した。
男らの言っていた通り、城下には民衆がひしめき合い、熱気と罵声が渦を巻いていた。
調子外れの笛と、破れた太鼓。
貴族に雇われたまま取り残された鼓笛隊が、不格好な行進曲を無理やり奏でさせられる中――。
近衛騎士団に捕らえられたかつての高官たちが、裸足で石畳を引きずられるように歩いていた。
「あんなに肥え太りやがって。自分たちだけ助かるつもりだったんだろうが、世の中そんなに甘かねえさ」
「議長様は――ああ、あそこだ。真っ先に捕まったらしい。一族郎党連れてるあたり、騎士団も本気だったんだな」
かつて円卓を囲んでいた者たちが、今ではまるで罪人の葬列のように、うなだれながら重い足取りで列をなしていた。
その背に続くのは、怯えた色を浮かべる令嬢たち。中には、まだあどけなさの残る子どもの姿さえ混じっている。
――「王城の貴き人々」と「下賤の者」と、線を引いたのはどちらだったか。
まるでそう言わんばかりに、民衆の向けるまなざしに容赦というものはない。
倫理も分別もそこにはない。罵声が飛ぶ。石が飛ぶ。
理性のタガなどとうに外れ、群衆は熱狂に浮かされたように囃し立てていた。
――議長も、そこにいた。かつて円卓の頂点に座していた男が、今は泥に塗れ、声を振り絞っている。
「我々は命じられていただけだ! すべては、女王陛下の御心に従ったまでなんだ!」
「散々甘い汁を吸っておいて何をいまさら! 女王も死ぬ! お前らも死ぬ! この国に貴き御方なんて、もう一人も要らねぇんだよ!」
怒号の中にあって、女王を傀儡としていた議長の姿はもはや見る影もなかった。
白目を剥き、道理の通らぬ言葉を喚き散らしながらふらふらとさまようその様は、もはや別人そのものだった。
騎士の棒で無造作に小突かれ、泥の中へと崩れ落ちるその姿に、民衆の歓声が湧き起こる。
喝采のような、あるいは嘲笑のような――四方から飛び交う怒声が止むことはなかった。
かつて民を見下していた者たちが、今やその民に容赦なく見下されている、なんとも皮肉な光景。
だが――道化師の胸に去来したのは、そんな痛快さではなかった。
まさか、陛下も……この道を歩かされるのでは――。
いや、入れ替わりが行われているはずだ。だが、そうであったとしても、こんな地獄のような道を歌姫に歩かせるわけには――。
ひとり焦りを募らせる中で、無邪気な子どもの声が耳に飛び込んだ。
「ねえ、女王様はいつここに来るの?」
「あの女は直接広場に運ばれるんだって。こんな道じゃ、途中で殺されかねないからね」
「ふぅん、つまんないの」
ぞわり、と背筋を冷たいものが走る。穏やかならざる親子の会話だったが、今の城下では誰もそれを咎めない。
溜め込みすぎた鬱憤と憎悪が熱を帯び、狂気そのものがこの場を支配している。
空砲が一発、また一発と鳴り響き、御座車が着いた合図を告げていた。
広場に急がねばならない。道化師は踊るように鼓笛隊の隙間を縫い、足早に向かう。
誰も道化師を止めなかった。むしろ、声援を送る者までいる始末だ。
かつて女王の愛妾と噂されたはずの道化師は、もはや王家の被害者の一人と見なされている。あのパレードの一件が、すべてを塗り替えてしまったのだ。
やがて視界の先に、舞台が見えた。
その上に――襤褸を纏い、腕を掴まれて引き上げられる女の姿があった。
あれが――歌姫か?
確かにもともと雰囲気も顔立ちも似ているものがあったし、彼女は化粧が上手だ。年上に見せることなど造作もないことだろう。
だが、民衆を静かに見下ろす、その鋭く凛とした瞳は――どう見ても女王陛下その人ではないのか――?
あってはならない光景に、胸が締め付けられる。
計画は失敗したのか。あるいは、まだここから入れ替えを試みるつもりなのか?
思わず周囲を見渡すも、見知った顔は何処にもない。座長の姿も、曲芸師の姿も見当たらない。彼女を救け出すために今日を迎えたはずなのに、救いの手を差し伸べる人の姿がどこにもない――!
「なんだ、道化師のお出ましか。折角だ。この間の続きを見せてくれよ。あの時は傑作だったな!」
舞台上に横たわる白い磔台。女王を跪かせ、括り付ける男が舞台上からそう呼びかけてきた。道化師は、にんまりと笑う。――いや、笑うしかなかった。
ここで暴れたところでどうにもならない。この場にいるすべてが敵なのだ。彼らの手には石や鍬が握られている。女王を奪って逃げられる場所など、どこにもない。
――今は、時間を稼ぐしかない。芝居を続けるしかない。
道化師は己にそう言い聞かせた。
来るはずなのだ。聖国が、約束通り救けに。
そのために、散々支援をしてきたはずなのだから――。
「おお、我が愛しの女王陛下! ご機嫌はいかがでございましょうか? 貴女さまの晴れ舞台を一目見ようと、これほど多くのお客様が集まっておいでですよ!」
磔台に後ろ手を縛られた女王が、緩慢な動作で道化師を見上げた。
その顔は――やはり、間違いなく道化師が愛したその人だった。
「……ああ、お前か。さぞかし愉快な光景であろう? どれ、最期に余興を披露するといい。私を楽しませてくれるのだろう?」
「口だけは達者な女王様だな。ほら、皆にもその姿を拝んでもらいな!」
巨漢たちが縄を引き、磔台が引き起こされる。
女王の姿が空へと晒された瞬間、広場は割れんばかりの歓声に包まれた。
――来るはずだ。必ず、救けが来るはずなのだ。
だが、現実は無情だった。
磔台の下に乾いた薪が山積みにされ、火刑の準備が整い始める。
斬首でも絞首でもない。よりにもよって、長い苦痛を伴う火刑だなんて――。
いつの間にか、舞台の下では捕らえられた貴族たちが並ばされ、許しを乞うていた。
しかし、返ってくるのは当然のように、嘲笑と石ばかり。
彼らは倒れ伏してもなお容赦なく打ち据えられ、その石は、舞台上の女王へ、そして道化師にまでも飛び交った。
「……ねえ母さん、こわいよ。女王様ってそんなに悪いことをしたの?」
怒号の合間に、そんな声が漏れ聞こえてくる。
ほんの一瞬、ためらうように、問われた女の手が止まった。けれど――それでも黙って、石を振りかぶる。
「わわ! おやめください、わたくしにまで当たっているではありませんか!」
「ハハハッ! お前も捨てられるまでは良い思いをしてたんだろう? 少しくらいは痛い目に遭ってもバチは当たらないさ!」
もはや道化師の声など届かない。
民衆の狂気と憎悪が、広場を覆い尽くしていた。
ひとり、またひとりと貴族たちが倒れても誰も満足しない。死体を鞭打つように、石が肉を抉っている。
――救けが来るなら、彼らが的当てを楽しんでいる今しかない。早く、早く――!
祈るような想いで辺りを見渡す。
すると、はるか後方――群衆の奥に、座長の姿があった。傍らには面紗を被った女。羽交い絞めにされた彼女は何かを叫んでいるが、狂乱の声にかき消されて聞こえない。
無情にも舞台袖で松明が掲げられる。
そして――火が、薪に投じられた。
「我らを長年虐げてきた王族に、火の裁きを!」
「神が許せば恵みの雨でも降らせてくれるだろう! さあ、祈るといい!」
火はパチパチと音を立てて燃え上がり、煙が磔台を包み始める。
「ほら、お前もボサッとしてないで餞別でもくれてやれ!」
――早く……! 頼むから、早く!
火の勢いは次第に増し、黒煙が空を覆っていく。
煙を嫌った火刑人たちは早々に舞台を降り、そこに残されたのは――磔にされた女王と、逃げることなくまだ舞い続ける道化師だけだった。
見上げれば、女王の足先に、焔がじわじわと迫っていた。
――このまま、磔台を倒してしまうか?
そんな衝動が脳裏をかすめた、その時――。
「――おい! 軍勢が押し寄せてきたぞ!」
誰かの叫びが、広場を揺るがせた。
ざわめきが一斉に波のように広がっていく。
雨は降らなかった。だが――確かに、救いは来た。
道化師は思わず女王を仰ぎ見る。
彼女はただ、無表情のまま、黒煙の向こう側を見つめていた。




