30 仮面を外す夜
まさか女王がこんな地下牢に追いやられることになろうとは――。
隣の牢に収監された女王は、ひと言も発さず、ただ静かに座しているようだった。
姿を盗み見ようにも壁が邪魔をして窺えない。
すぐにでも声をかけたかったが、女王ともなれば道化師とは違って牢番も一人では済まないらしい。道化師の牢のすぐそばまで興奮に顔を紅潮させた男たちが押しかけ、飽きることなく――いや、むしろ快楽を覚えるように、女王を罵倒し続けていた。
「どうだよ、下賤の民と見下していた連中に、こうして叩き落とされる気分はよ!」
「騎士共もあんたのことなんか見向きもしねぇんだもんな。貴族連中を捕まえるのに夢中だなんて、近衛の肩書きが泣いてるぜ」
「こんな女が偉そうに玉座でふんぞり返っていたと思うと、腹が立って仕方ねぇな!」
一度は牢に叩き込んだくせに、今やまた鍵をこじ開けんばかりの勢いだ。
体躯のいい男が下卑た笑みを浮かべながら、周囲へと呼びかける。
「なあ、どうせ明日には処刑されるんだろ? だったら、その前に俺たちの相手をしてもらうのもいいんじゃねぇか?」
道化師の心臓が跳ね上がる。考えるより先に、「あの!」と声が飛び出していた。
「あん? ……なんだ、とっ捕まってた道化師じゃねぇか。城の連中はほとんどが逃げてったのに、取り残されて間抜けなやつだな」
「逃げときゃよかったのによ。やっぱり男妾って噂は本当だったのか?」
どうやら道化師のことなど眼中にもなく、今ようやく存在に気付いたらしい。関心を引けたことに安堵しつつ、道化師は芝居がかった声でまくし立てる。
「ええ、ええ、さようでございます! わたくし、陛下の夜のお慰みも務めさせていただきましたが――こう見えてわたくし、かなり好きものですから」
「まじかよ、女王陛下ともあろう御方が、本当にこんな奴に抱かれていたなんてな!」
「なんだ、それなら俺たちのお相手なんてむしろご褒美になっちまうんじゃねぇか?」
ギャハハと下品な笑い声が響く中、威圧するように鉄格子を揺らす音まで聞こえてきた。道化師は慌てて、さらに声を張り上げる。
「なのでですね! わたくし、素敵な病気をたくさん持っているともっぱらの噂なんですよ! ほら陛下もすっかりおやつれになられているでしょう? いやはや、貰っていただけるなんてなんとも慈悲深い!」
「…………」
道化師の言わんとすることを男たちも察したらしい。興が冷めたような苛立ちを露わにしながら、道化師の鉄格子に蹴りを浴びせてきた。
「チッ、余計なことしやがって」
「いいじゃねえか。病気持ちの女王様なんてこっちから願い下げだろ。だからお世継ぎもできなかったんじゃねぇか?」
「それでも腹の一発、いや二発は殴らねぇと気が済まねぇけどな」
――お前らに、陛下が何をしたというのだ……!
叫び出したい衝動を必死に抑えていると、鍵束を手にした男の姿が目に入った。このままでは、嬲られてしまうかもしれない。
またしても考えるより先に「あの!」と声を上げた――ちょうどその時、地下室につながる扉が乱暴に開かれた。
「おい、お前ら! こんなとこで遊んでる場合じゃねぇぞ! 財宝庫の場所がわかった! 急がねぇと、全部ほかの連中に取られちまう!」
「はあ?! 糞がっ! 山分けだって話だったろ!」
「ほら見ろよ。俺はもうたんまり手に入れたぜ!」
興奮気味に、男は指や腕にはめた装飾品をじゃらじゃらと鳴らしてみせる。
喉を鳴らす連中は、もはや女王のことなど眼中になく、我先にと地下室から飛び出していった。
静けさが戻った牢に、トン、トン、と軽やかな足音が響く。
階段を降りてきたのは、暴徒と同じような格好をしていたが――見間違えるはずもない。曲芸師だった。
「……醜いもんだね。革命だの王制打倒だの綺麗事を並べ立てたところで、目の前の財宝には抗えねぇんだから」
「お前……どうしてここに?」
「あいつらの扇動が俺の仕事だからさ。馬鹿の相手をするだけでも疲れるのに、信用を得るために農作業までさせられて……。ったく、ハズレくじもいいとこだ」
曲芸師は昔と変わらぬ軽口を叩きながら、女王の牢の前に立ち、恭しく頭を下げた。
「本日はこのような場所に押し留めてしまい、申し訳ありません。ですが、明日には必ずお救けいたします。……侍女殿からの伝言です。『万事抜かり無し』と」
「……そうか。大義であったな」
――久方ぶりに耳にした女王の声は、まだ矜持を失っていなかった。
曲芸師の口振りから察するに、座長や侍女の指示の下、彼らは女王救出のため忠実に役目を果たしているらしい。
それならば、明日には必ず解放されるのだ。火刑台に引き立てられる前に、歌姫と入れ替わる形で――。
「……積もる話もあるだろ? 同じ部屋ってわけにはいかねぇが、俺は外で見張ってる。ま、あの様子じゃしばらくは戻って来ねぇよ」
軽く手を振ると、曲芸師は跳ねるように階段を上がり、重たい扉が閉められた。
揺れる松明の明かりだけが残された牢で、道化師は女王に向け、そっと声をかける。
「……陛下は人が悪うございます。わたくし、本当に見捨てられたのかと思いました」
「……逃げ出せば良かったものを、馬鹿な奴だ。だが……残った以上は、役目を果たしてもらおうか」
「人遣いの荒いお方だ。これ以上、わたくしに何をしろと?」
「生涯をかける大仕事だ。そのための金は、座長に預けてある」
――生涯?
思いがけない言葉に、道化師はぱちぱちと瞬きをした。
夜は更け、どこからか吹き込む隙間風が肌を刺す。女王もまた、襤褸をまとわされ震えているに違いない。
あの方の指先は、いつも早朝の湧き水のように冷たかった――。
壁越しに身を寄せ、二人はぽつり、ぽつりと語り合う。
「……妹殿が、貴女さまをお救けすると息巻いておりました。全容をお聞かせ願えませんか」
「それはならん。どこに耳があるかも分からないからな。……あれも、どうしようもなく愚かな娘だ。せっかく別の世界で生きていたというのに――まさか、またこんな国へ舞い戻ってくるとはな」
「それでは……陛下のご指示では、なかったのですか?」
「まさか。あの男に紹介されるまで、その存在すら知らなかった。どうやら父が密かに逃がしていたようだが……。その詫びだとでも思っているのか、自ら私の身代わりになろうとしている。ただ血が繋がっているというだけで命を張るなど……馬鹿げた話だ」
確かに、遠目であれば誤魔化せるかもしれない。
歌姫が女王として扱われている間に、本物の女王を密かに逃がすつもりなのだろう。
その時に聖国が動くのか。それとも、密かに忠誠を誓う近衛騎士団を使って救わせる算段なのか。
――だが、この計画の全容はいまだ掴みきれない。
それでも「お救けする」と言った以上、きっと彼らはやり遂げるはずだった。
「お逃げになった後はどうされるおつもりですか? 聖国の保護下に?」
「……さあな。あの国が私をどう扱うかなど、わかるものか。必要とされていた堤防の設計書は、すでにすべて渡してしまった。それに……今は、何も考えられん」
沈んだ声だった。疲れもあるのだろう。
だからこそ、道化師はいつもの調子であえて軽く言葉を重ねた。
「それなら、我々と共に世界を巡りませんか? 貴女さまの心を慰めるのが、わたくしに与えられた使命でございましょう。どうかもう少しだけ――お付き合いください」
「……安心しろ。お前はもう、十分すぎるほど役目を果たしている。……ああ、そうだ。お前が捕らえられていた間も鳥の世話はしておいた。私の部屋も鍵がなければ入れないようにしてある。……明日にはお前も自由だ。迎えに行ってやれ」
「その時は、貴女も一緒に……だろ?」
――もう、取り繕う必要なんてない。
この人の前では、仮面が音を立てて剥がれていく。
飾らない声が、するりと胸の奥からこぼれてしまう。
「俺は、貴女を諦めていない。この世界は貴女が思うほど濁ってなんかいない。もっと澄んだ輝きもあると知って欲しいんだ。……あの蒼河のように」
息を呑む気配があったが、女王は何も返さなかった。
「……まだ俺は、貴女を笑わせていない。どうか、俺にその機会を与えて欲しい」
縋るような言葉だった。男としては情けないものに違いない。
けれど、間抜けな姿を散々見せてきた道化師にとって、今さら恥を上塗りしたところでなんてこともなかった。
「……そうだな。私はまだ、笑っていなかったか」
女王はそれ以上何も言わなかった。
ただ静謐な時間が地下室を満たしていく――。
うたた寝を繰り返していた道化師は、やがて夢を見た。
――あまりにも穏やかすぎる夢だった。
風が心地よく吹き抜ける小さな野原。
格子のない空を、女王が愛した白い鳩が自由に飛び回っている。
その下で、道化師は楽器を奏で、子どもたちや村人たちに芸を披露していた。
地位も、豪奢な衣もない。ただ笑い声と拍手だけが満ちていた。
そして、その輪の中に――。
粗末な布をまといながら、屈託なく笑う女王の姿があった。
彼女は誰よりも自然に、誰よりも楽しそうに、柔らかく微笑んでいた。
「……ああ、ようやく、笑ってくれた」
夢の中の自分は、心から嬉しそうにそう呟いていた。




