02 夜風が連れてきたもの
旅の芸人如きに嘲られたと受け取ったのか、広間には剣呑な空気が立ち込めはじめていた。
その沈黙を破ったのは――玉座の上から響く、ひときわ静かな声だった。
「……面白いではないか」
玉座に肘をついたまま、女王はそう呟いた。
淡々とした声色ながらも、確かに、女王自身の言葉だった。
ざわめきが広間を満たす。
驚きの眼差しが玉座へと向けられる中、道化師はゆっくりと杖を腰へ戻し、恭しく一礼を捧げた。
「いや、しかしですな。我らを嘲るような振る舞いは度し難く……」
「なんだ、それでは道化の言葉が図星だったと認めるようなものではないか」
女王の言葉に滲む皮肉。不敬を咎めた貴族は、気まずげに口をつぐむ。
女王は意に介する様子もなく、さらに言葉を重ねた。
「たかが道化の戯言に目くじらを立てるとは、なんと情けないことか。この者たちが他国で我らの醜態を語れば――笑いものになるのは、誰でもない、貴公ら自身なのだぞ」
その指摘に、赤面した貴族たちは声を失った。
女王はつまらなそうに彼らを一瞥したのち、再び道化師に目を向ける。
――女王の評判は散々だった。
城下で耳にしたのは、愚鈍、冷酷、暗愚という言葉ばかり。
だが、今しがた目にした女王の姿は、それらのどれにも当てはまらない。
静謐で、理知的で――ただ、どこか虚ろだった。
覇気はなく、黒く沈んだ瞳はまるで、生きることそのものに興味を失っているかのようだった。
「……ふむ、悪くはなかった。夜会も楽しみにしている」
女王はそれだけを残し、重たげな足取りで広間を後にする。
残されたのは、一座と気まずそうな貴族たちだけ。
追い立てられるようにして、一行は控室へと通された。
*
案内の兵士が退出し、ほっと息をついた控室。
ようやく気を緩めた吟遊詩人が、椅子に身を投げ出しながら毒づいた。
「……いやはや、胸糞の悪い連中だったね」
旅の一座は、道化であれ、曲芸であれ、吟遊であれ、それぞれが己の芸に誇りを持っている。
見世物には違いないが、挨拶もしないうちからいきなり芸をしろと言われれば、ぞんざいな扱いに対する怒りは決して小さくはない。
「でもよ、女王陛下は噂とはずいぶん違ったじゃねえか。……なんつーか、お前に似てなかったか?」
曲芸師が隣に座る歌姫に、ひょいと軽口を叩く。
確かに。あの女王の顔立ちと亜麻色の髪は、不思議と歌姫によく似ていた。
「あら、それなら影武者にでも雇ってもらおうかしら。――あたし、嫌いじゃないわよ、ああいう人」
肩を竦める歌姫は冗談めかして笑う。
だが、酸いも甘いも嚙み分けた彼女が、初対面の相手にこうして好意を覗かせるのも珍しいことだった。
「国民の評判もあてにはならないってことか」
「それより気になったのはあの顔色よ。もしかしたら病気でもしているんじゃないかしら?」
「そうだったかな? 僕には普通に見えたけど」
「化粧で誤魔化してたのよ。あたしの目は誤魔化せないけどね」
歌姫が得意げに片目を瞬かす。
彼女が自信を持っていうのならば、そうなのだろう。なにせ道化師に化粧の手ほどきをしたのは、他ならぬ彼女なのだから。
「……まあ、まずは今日の夜会を無事に終わらせることだな」
沈黙を保っていた座長が、パンと手を叩き、場を引き締めた。
結局のところ、すべては金のため――。
どれほど気に入らない相手でも、金払いが良ければ尻尾を振るのが旅芸人の流儀というものだった。
夜会は、華やかに、賑やかに。しかしどこか乾いた空気のまま幕を開けた。
吟遊詩人の指先は滑らかに竪琴の弦を弾き、面紗を被った歌姫は澄んだ声で夜会の空気を満たす。
貴族たちは二人の腰帯や胸元に収まりきらぬほどの紙幣を押し込んでは、享楽に酔いしれていく。
曲芸師と道化師も各卓を巡り、手品や軽妙な口上で貴族の子弟たちを喜ばせた。
天井から吊り下げる灯が黄金色の酒と豪奢な料理を艶やかに照らし出す。
城下町で目にした荒んだ景色は、今や遠い幻のよう。
この広間だけが、現実から切り離された楽園のように存在している。
そして、その楽園の最奥。
主賓席には、ただひとり女王が座していた。
芸に笑うでもなく、酒に酔うでもなく、誰と語らうわけでもない。
ただ凪いだ目で、芸人たちを――いや、世界そのものを見下ろすような視線を向けている。
この招聘は女王自らの希望だったと聞く。
だがこの様子では、彼女自身が本当に楽しんでいるのか甚だ疑わしい。
夜会自体は昼間のような無粋な横槍もなく、滞りなく終わりを迎えた。
盛況ではあったが、女王の意図は最後まで霧の中だった。
*
「おい、そっちをもっと引っ張れ!」
「わかってるって。……兄貴も手を貸せよ!」
夜が更け、城を後にした一座は、城下を抜けた平原で野営の支度を進めていた。
草を踏み、支柱を立て、幕を張る。馬を繋ぎ、焚火を起こし、乾いた藁を敷いて腰を下ろす――。
どれもが各地を渡り歩いてきた彼らにとっては手慣れた作業だった。
「――はい、お疲れさん。なんだか今日はやけに疲れたな」
焚火を囲む輪の中で、曲芸師が酒を煽りながら気の抜けた声を上げる。
その言葉に、吟遊詩人が頷いた。
「金払いはいいけどさ……元を辿れば、あの金も民から絞り取ったものなんだろう? なんだか使う気にもならないよ」
「あはは。たしかにね。だったら、城下の酒場でパーッと使って還元してあげましょうか?」
歌姫の冗談に、座の空気がほんの少し和らぐ。焚火の音に紛れながら、話題は尽きることなく続いていた。
「僕は王族なんて初めてお目にかかったけど……なんていうか、浮き世離れした方だったね」
「殆ど何も食べてなかったし、病気を患っているのかもしれないな」
「なんだか寂しそうに見えたわ。あんなに人はたくさんいたのに、ひとりぼっちだったもの」
話題の中心は自然と女王へと移っていく。噂に聞くような悪辣さは感じられなかったが、それ以上に、凍てつくような空気が彼女を取り巻いていた。
「僕も最初は君に似ていると思ったけど、あらためて見れば別人だよね。君があんなふうに黙って座ってるなんて、ちょっと想像できないし」
「あら、失礼ね。あたしにだって、大人の色気をまとえばあのくらいの威厳は出るわよ。……たぶん」
「お前からは色気よりも食い気の匂いしかしねぇけどな」
弟分の曲芸師がからかうように笑うと、皆もつられて笑い合う。一仕事を終えたあとの夜にだけ許された、気の抜けた笑顔だった。
「――で、親父さん。次はどこへ向かうつもりなんだ?」
曲芸師の問いに、座長は焚火を見つめたまま、曖昧に返す。
「……そうだな。どこへでも。金の鳴るほうへ気の向くままに、いつも通りだ」
そうは言いつつもその声音には落ち着きがなく、目線はちらちらと城下へと続く道を窺っていた。
まるで、何かを待っているかのように。
道化師もまた、遠くに聳える王城へと目を向ける。
あの女王――。
玉座で虚ろに座していた女王陛下。
ことさら美しいというわけでもない。貴族を窘めた時こそ威厳らしきものを感じさせたが、夜会の間、彼女の存在はどこか掴みどころがなく、薄くたなびく霞のようだった。
なのに、なぜだろう――。
その残像が、胸の奥に微かに残っている。
……だが、気に留めたところで何になるだろう。
小さな旅一座にすぎぬ自分たちにはただの一時の奇縁に過ぎない。
明日からはまた別の国を巡り、笑いを売るだけの日々に戻るのだ。
きっと、もう二度と関わることはない。
焚火が勢いを弱め、そろそろ眠ろうかという頃だった。
……ざり、と。草を踏む、かすかな音。
誰も気づかぬうちに、静かに、確かに――一座の背後からそれは近づいていた。
ぴたり、と。道化師の手が止まる。
「……おい」
全員が同時に顔を上げた。夜風が火を揺らし、空気がひやりと冷たくなる。
座長の背後。月明かりに照らされながら、人影がひとつ、じっとこちらを見つめていた。




