21 出番を待つ者たち
あくる朝。
仮面を脱ぎ、道化師としての体面をかなぐり捨てた昨夜の醜態――。
あれで見限られるのではと、一抹の不安もあった。
だが、女王は良くも悪くもいつも通りだった。
道化師よりも早く目を覚まし、上体を起こして、綴じ紐で綴じられた報告書に静かに目を通している。
あの言葉が届かなかったとは、思いたくない。
ただ、響かなかったのだ。
たとえ傀儡であろうと、王として生きることを定められたその半生。
どれだけ否定してみせたところで、彼女の心はなお『責務』という名の鎖に縛られている。
救いたいと願った道化師の言葉は、その鎖を断ち切るには、あまりにも頼りなかった。
ならば――また、時間をかけて、少しずつ彼女の心をほぐしていくしかない。
こうしてまだ彼女の手元にいることを許されたのだから。
機会を失ったわけではない。
たとえば、先日の女中にまつわる一件。
彼女がどのような末路を辿ったのか結局わからずじまいではあったが、それ以来、宮中でその姿を見かけることはなくなった。
同時に、洗濯場に顔を出す道化師に対して、女中たちの態度も明らかに変化していた。
にこやかに声をかければ露骨に顔を背けられ、怯えたように身をすくめる者さえいる。
貴重な情報源を失ったのは、確かに痛手ではあった。
だが一方で、胸の奥でひそかに息をついた者も少なからずいたらしい。
「……正直、気が晴れた」
いつものように散歩に行こうと居室を出た瞬間、扉の前に立つ近衛兵と目が合うやいなやすぐに声をかけられた。
「……はて。何のことでございましょうか」
「あの小娘のことだ。……最近の女中たちの言動は目に余るものがあったからな」
「ああ、その件で。おかげさまでわたくしはすっかり嫌われ者でございます。よよよ……」
「フッ、それは仕方あるまい。だが……あの日、陛下の悲痛な声を耳にして自分が恥ずかしくなったのも事実だ。……伝えられるなら伝えて欲しい。――我らは、貴女さまをお恨みしてなどいないと」
言葉を選びながら話す近衛兵は、最後にそっと視線を落とした。
それは、これ以上は踏み込まないでくれという彼なりの癖でもある。
道化師はその意図を察し、「確かに」とだけ頷いて、その場を離れた。
*
夜更けの静寂の中、道化師は褥を共にする女王に近衛兵の言葉を伝えた。
女王は一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐにそれを拭い去り「そうか」と一言だけ呟く。
それ以上の言葉はなく、道化師もそれ以上は問わなかった。昨夜の件もあるのだ。また容易に深く触れるべきではない。
沈黙がしばらく続いたのち――まるで話題を切り替えるように、女王の口から不意に別の言葉が飛び出した。
「ところで。お前に頼みがある」
「陛下からのお願い事とは。これは明日、蛙が空から降るやもしれませんね! なんなりとお申し付けくださいませ」
「次の余興で、脱出劇なるものを演じよ」
「脱出劇……でございますか?」
突拍子もない言葉に道化師は目を瞬かせるが、女王は緩やかに頷いた。
「お前には鉄籠から抜け出す芸があるのだろう。それを近々開かれる祭で披露してほしい」
「かしこまりました。ですが、あれはわたくし一人では少々難しい演目でして……」
「ふむ。つまりは、一座の者が必要ということか」
「はい。曲芸を生業とする相棒と組んでいたのですが……今どこで何をしているのやら。連絡の手段もございません」
「それなら問題ない。侍女を通して呼び寄せておこう。必要なものがあれば、一通り手配してもらうといい」
女王の口から出し物の指定をされるとは、これまでに例がないことだ。
自然と気合が入りつつも、道化師の胸にはふとした違和感も生まれていた。
「しかし、よく脱出劇のことなんて知っていましたね? 座長に聞いたのでしょうか」
「……そうだ。その話を聞いて、お前たちに興味を持ったようなものだ。次の舞台は建国祭だからな。規模もそれなりになる。失敗は許されぬぞ」
「かしこまりました。陛下の威光を示せるよう、誠心誠意努めさせていただきます」
いつものように一礼すると、女王は心なしか満足げに顎を上げた。――手品を好む彼女のことだ。少なからず期待しているのだろう。それならば無様は晒せまい。
道化師は脱出劇をメインに据えた他の余興の構成も練り始め、侍女との連絡を密にしながら段取りを整えていった。
数日後、案内された応接室には懐かしい姿があった。
曲芸師――久しぶりに顔を見た彼は、なにやら日焼けして筋肉も幾分かついたように見える。部屋に入ってきた彼に軽く手を挙げると、にやりと笑っていた。
「クソッ、いいもん食ってそうな顔しやがって。羨ましいったらありゃしねえぜ」
「そっちは随分と男前になったじゃねぇか。農作業でもやってたのか?」
「当たらずとも遠からずってやつだ。……で、久々に本業に戻れそうだって聞いて飛んできたのさ。お偉いさんの前でアレをやるんだろ? なんだよ兄貴ばっかり、面白ぇことばっかしやがって」
子どものように唇を尖らせる彼に、道化師は苦笑で返す。こちらだってそれなりに気を張った日々を送っているというのに。この様子では、ぬくぬくと宮中で飼われていると思われていそうだ。
――それこそ当たらずとも遠からずか。いちいち否定するのも面倒なので適当にいなし、早速劇の段取りを詰め始めた。
会場の下見に大道具の手配。
座長とも合流し、入念に準備は進められていく。
「……あいつは、元気してんのか?」
もうこの城に顔を出すことはないと思っていたが、やはり座長の傍に歌姫の姿は見えない。
道化師が尋ねると、座長は曖昧に笑みを浮かべた。
「まあ、なあ……」
煮え切らない態度に、曲芸師が小首を傾げる。
「なんかあったのか?」
「いや……少し前に会ったんだが、いろいろとあってな。あいつの体調に変わりはないか?」
「処置が早かったから、ありがたいことにな。……ったく、本当に無茶ばっかりしやがる。聞いてるこっちの心臓がもたねぇよ。今は詩人の坊主に預けてある。あいつがいれば大丈夫だろうさ」
「クソッ、肉体労働は俺ばっかかよ」
曲芸師は毒づいていたが、まさか歌姫が毒を飲んだとは思いもよらぬのだろう。知っていれば、きっと今すぐにでもこの国を出ようと言い出すに違いない。
――そういう意味では、彼はまだ「外側」の人間だ。
かつての自分もそうだったはずなのに。
気がつけば……すっかり、この宮中の流儀に毒されてしまっていた。
*
こうして本番を迎えるまでにおよそひと月が費やされたが、その間、女王の身辺に目立った不穏な動きはなかった。他国からの要人も招かれるという建国祭を前にして、さすがの貴族院も醜聞の火種を撒く気はないのだろう。何よりも面子を重んじる連中だ。自らの首を絞めるような真似はすまい。
「……いよいよ明日か。万事、滞りはなかろうな?」
「お陰様で。これまでにないほど豪華な催しになると思いますよ。……民に知れれば、また反感を買うやもしれませんが」
「放っておけ。奴らは何をしてもしなくとも文句しか言わぬ」
建国祭の前夜。準備に追われる日々の中、女王とまともに言葉を交わすのも久しぶりのことだった。
明日の本番に備え今日は早めに休むと決めていた道化師は、既に着替えも済ませていた。一張羅の衣装は女中に洗濯を頼んである。……冷ややかな視線はもらったが、女王の「男妾」たる立場に逆らう素振りは見せなかった。
「準備中に聞きました。この建国祭は、諸外国に威光を示すためにも必要なものなのだと」
「そうだ。国力の無さを見透かされれば、こんな小国などいつ攻め込まれてもおかしくはない。……城壁の砲門を見たか? あんな旧式の代物を有難がって使っているのは、今や我が国くらいなものだろう」
言われてみればそんな物騒なものもあったような気がしたが、生憎と軍備に関する知識は乏しい。ただ、「攻め込まれる」という単語に、思わず眉をひそめた。
「今のご時世に、戦を仕掛ける国などあるのですか?」
「何も兵を動かすばかりが戦ではない。外交戦略で国力を削ぎ、身売りに等しい形で吸収されることもある。もしくは、民による革命、貴族による王政打破。……なんだ、私にとっては身近な話ばかりじゃないか」
自嘲めいた言葉に、女王はふっと微笑んだ。……道化師はその表情を笑顔と認めることなく、揉み手をしてへらりと返す。
「とはいえ、ここまで国を保たれてきたのは、ひとえに陛下のお力の賜物かと。……などと申し上げては、さすがに無粋でございましょうか」
「分かっているなら口を慎め。虫唾が走る。……だが、今回の建国祭にはそれなりの意義がある。しかと臨むことだ」
「仰せのままに」
これまでにないほどの重責と期待を感じる。
――ならば、応えないわけにはいかなかった。




