20 慰めには届かずとも
多少は女王も道化師に気を許し始めているようながら、『女王の心を慰める』という本来の役目は、難航していた。
ただの芸ではもはや相手にもしてもらえない。手品も関心は得られるが笑顔を引き出すには及ばない。
それならばと、道化師は寝物語のように各国の珍談を語ることにしたのだが――どうやら、それが功を奏したらしい。
「遥か北の国では、氷塊が海を渡ります。調子に乗った曲芸師が氷上で舞ったところ、見事に割れてしまいましてね。あやうく氷漬けの曲芸師が出来上がるところでした!」
「西の果てには、見慣れぬ動物がいました。人間の何倍もの体躯に、実に長い鼻。うっかり近づいた座長が踏みつぶされそうになりましたが――ウンの良いことに、大きな糞に足を滑らせて難を逃れたのですよ!」
「近隣で言えば神国も面白いところです。大聖堂に並ぶ神像は壮観で……ああ、そういえば、あの吟遊詩人が悪戯で自作の像を紛れ込ませていました。さて、今頃どうなっているのやら」
どの話も「くだらない」と言って切り捨てる女王だったが、それでも耳を貸してくれるだけで十分だった。
かつては人ひとり分の距離を置かれていたというのに。今では道化師が少しずつ間合いを詰めても、女王はそれを咎めようとはしない。
「陛下は、どちらの国に興味がおありでしょう? 旅の折には、ぜひ道化師たるわたくしを御案内役にご指名ください!」
「そうだな……どこも興味はあるが、私が行ける場所などないだろう」
「政務の名目であればどうでしょう。何も遠くの地でなくとも、近場から――」
「無理だ」
その声音は、まるで決まりきった運命を嘲るようだった。
「奴らは私が目の届かぬところへ行くことを何よりも嫌うのだよ。外の世界を知り、誰かに唆されるかもしれないからな。……まさに、今のお前のように」
それでは、ただの人形だ。操り手の思うがままに動かねばならない存在――意志など持ってはならない、ただの象徴。
言葉に宿るのは、憎しみでも怒りでもなく、ただ乾いた諦念だった。
「……どうして、御身の気の向くままに動いてはならないのでしょうか?」
かつて同じ問いを投げかけたとき、女王は沈黙を以て拒絶した。
――だが、今なら。心の奥底に秘められたるものに触れられるのではないだろうか。
淡い期待を胸に、道化師は女王の横顔を見つめる。
長い沈黙の末、女王はそっと息を吐いた。
「……昔。お前のように義憤に駆られ、私を守ろうとした者がいた。だが、死んだよ。謂れなき罪で自害を命じられ、私の目の前で、迷いなく、喉仏を突いて逝ったんだ」
語るうちに、女王の瞳から光が消えていく。
ただ、空虚なまま、彼女は天井を仰ぎ見ていた。
その眼差しには、もはや涙すら浮かんでいない。
流すべきものはすべて、とうの昔に枯れ果てたのだと――そう言わんばかりに。
「最初に王配となった男は、私を慈しんでくれた。だが、子を成した途端――用済みとばかりに殺された」
女王の声は、あまりにも落ち着いていた。
病死だったのかもしれない――そう続けた彼女は、幼子が首を傾けるようにして言葉を継ぐ。
朝まで元気だった男が、突如として血を吐き命を落とす病があるのなら。きっと、そうだったのだろう、と。
「……」
道化師は口を挟むことなく、ただ耳を傾ける。
不意に訪れる静寂を破るのは、時折羽ばたく鳩の羽音だけだった。
「初めての子も、五つを迎える前に死んだ。私が食べるはずだった茶菓子を、盗み食いしたようだ。……あの子は甘いものが好きだったから」
「それは……つまり……」
答えを躊躇う道化師に、女王は小さく頷く。
「……手違いだったのだろう。あの日、本当に死ぬべきは私だった。毒など用心していたはずなのに……」
眉間に寄せた皺と、そっと閉じられた瞳。
女王はかつての記憶を掘り起こし、その痛みを噛みしめているようだった。
「その後も、奴らの用意した男を次々と王配に迎えたが……どれも一年と保たなかった。計算すらできぬ愚かな者どもだ。私を女王に据えるために幾人を殺し、即位した後もなお殺し続けた。今や正統な王族など、私ひとりだ」
それでも王制は続く。
象徴は必要なのだと、あの貴族たちは嘯く。
「……」
道化師は、ただ黙っていた。この場に相応しい言葉など思いつくはずもなかった。
これまでにも垣間見えていた女王の境遇。だが、本人の口から語られるそれは、あまりにも重く、冷たく、そして痛ましいものだった。
「民を味方につけられるのを恐れ、外の世界を知ることも禁じ、他国に隙を見せぬために奥深く潜ませる。そして、都合のいい時だけ私を不満の矛先として突き立てる。……それがこの国の王の実態だ。何とも滑稽な話だろう」
「……逃げたいと、思われたことは?」
道化師の問いは、ひどく純粋なものだった。
彼女が女王などではなくただの女であれば――と、そう願わずにはいられなかった。
しかし、王たる彼女は澱んだ瞳で視線を伏せたまま答えた。
「父が私に託したのだ。あの堤防を完成させよ、と」
「それはもう成し遂げられたはずです。ならば、未練など――」
「私は王だ。……民を守る責務がある」
「その民に! 貴女さまの尊厳は踏みにじられたのではないのですか……!」
思わず声を荒げた道化師は、即座に我に返る。
間を置かずして、扉の向こうから低い声が響いた。
「――なにか、問題でもございましたか」
扉を守る近衛兵だ。突然の声に、不穏な空気を察知したのだろう。
「なんでもない。道化の余興の一環だ」
毅然とした声で応じた女王の背には、確かな気高さがあった。
けれど――その影は、やはり深く、冷たい悲しみに染まっていた。
「あまり騒ぐな。余計な勘繰りをされては困る」
「ですが……! あのような連中に、貴女さまが心を砕く必要などどこにも――」
「お前がそんなに感情的になるとはな。……珍しいではないか」
女王の声音は、どこか和らいでいた。
こんな無礼を重ねれば、いつものように無言で灯りを落とされてもおかしくないのに……今宵は違う。
咎めるでも拒むでもなく、むしろ道化師を気遣うような声音で、彼女は寄り添うように問いかける。
「どうした。いったい、何を吹き込まれた」
――このような尊き方が、なぜここまで辱めを受けねばならぬのか。
道化師は言葉に詰まりながらも、やがて決意を固め、ぽつり、ぽつりと打ち明けた。
「……噂を耳にしました。御子様の葬儀にて、棺が……穢されたと」
「――ああ。そのことか」
女王はわずかに目を細め、淡々と言葉を受け止めた。
しかし、言葉を飾り立てたものの、吟遊詩人から聞いた話はもっと醜悪で、もっと酷いものだった。
――かつて愛し子を失った女王は、その葬儀の場において、民衆から嘲弄を浴びたのだという。
葬儀を名目に、貴族によって課せられた特別徴収に鬱積した不満を爆発させた民は、棺に向かって呪詛を吐き、物を投げつけたのだ。
『王城から墓地へ向かう道――。
投げかけられるのは悼みではなく、怨嗟の声。
さぁ投げろ。ほら投げろ。相応しく彩ってやれ。
王の子ひとりが何だというのだ。
我らは今日も、飢えと共に子を失っている――』
あの日、吟遊詩人は竪琴を鳴らしながら語った。歌の調べに乗せねば口にすることも憚られたのだろう。
その棺が何で彩られたのかまでは語らなかったが、道化師にだって容易に想像がついた。
「……仕方あるまい。普段は姿を見せもしない悪しき女王の子など、彼らにとってはどうでもよかったのだ。私だって、彼らの子が死んでも知り得ることすらないのだから」
女王の言葉は、静かに、あまりにも静かに落ちた。
「なぜそこまでお優しくいられるのか、俺には分からない。貴女だって、幸せになっていいはずじゃないか……!」
どうしてここまで犠牲を払わねばならないのか。
その問いは、道化師という仮面を脱ぎ捨てて心から絞り出された叫びだった。
「……そうだ。俺と一緒にこの国を出ましょう。もう責務は果たされたはずです。こんな国、どうなったって構わないでしょう?」
それはかつて歌姫が女王に示した道。彼女は一蹴されていたが、多少は心を許してくれている自分であれば、この手を取ってくれないだろうか。
「腐った国には、腐った貴族どもがお似合いだ。民だって――見捨ててしまえばいい。貴女がこれ以上、心を痛める必要なんて――」
「……道化」
そのひと声が、道化師の言葉を遮った。
低く、しかし凛とした響きをもって。
「私は――王だ。この国の行く末を、見届ける責務がある」
女王の答えは、あまりにも明確だった。
だが道化師もまた、いつものようには引かなかった。
「ならば……攫ってしまいましょうか。貴女ひとりくらい、軽いものです」
それはいつもの冗談ではなかった。
一人の男として。本心を吐き出した誠の言葉だった。
だと言うのに。女王はその覚悟を、ただ呆れたように受け流す。
「それは困るな。私にはまだやるべきことがあるのだから。……だが、夢を見るくらいは、赦されてもいいかもしれないな」
女王はそれ以上何も言わず、そっと灯りを落とした。
暗闇の中。
迷いながらも、道化師はそっと彼女の手に自らの手を重ねた。
拒む素振りはない。だが、それ以上を許す気配もない。
道化師は今にも壊れてしまいそうな細い手を取り、深く、慎ましく――その甲に唇を寄せた。




