19 舞台に立った代償を
女王が聖国との密談を終えてから、何事もなかったかのように、宮中での生活が再び始まった。
座長も、歌姫も、あれから音沙汰はない。聖国との交渉という特命を終えた今、どこかで別の任に就いているのか、それか歌姫の頭でも冷やしているのかもしれない。
とはいえ、彼女は大舞台が待っているとも言っていた。それが何を指すのかは分からなかったが――なんとなく、嫌な予感しかしない。
一方で、女王に対する貴族院の風当たりは強まるばかりだった。
これまで息を潜めてきた女王が最近になって密かに動き出している――そう感じ取ってはいるのだろうが、肝心の意図を掴みかねているからこそ疑念と警戒が膨らんでいるのだろう。
女王は、貴族院を一掃できるほどの力を持たない。
貴族院は、女王を排斥できるほどの器を持たない。
今日もまた、天秤を傾けるためだけの不毛な駆け引きが繰り返される。
「……おや、ずいぶんと遅いお出ましでございますな。本日の議会はもう終わりましたが」
「ほう。まだ開始前だと思っていたが」
「午後から会談がございますため、時間を繰り上げたのですが……どうやら連絡の行き違いがあったようですな。侍従には、よくよく注意しておきます」
「午後の会談とは、何の話だ?」
「陛下には関係のないことでございます。どうぞ、いつものようにお部屋でおくつろぎ下さいませ」
議会の時間を勝手に変える。他国との会談に女王を呼ばない。
子どもじみた嫌がらせばかりだが、女王は気に留める様子もなく、連中の好きにさせていた。
蝗害の被害が幾分か落ち着いてきたからかもしれない。
だが、言われっぱなしも癪だ。
女王の斜め後ろに控えていた道化師は、にこりと笑みを浮かべて、からかうように口を開いた。
「その会談、是非わたくしにも出番を頂けませんか?」
「……どうやらこの道化は甚だしい勘違いをしているようだ。いいか、貴様は目溢しされているだけに過ぎんのだ。度が過ぎれば、二度と笑えぬ身体になるやもしれんぞ」
「おお怖い怖い。……それなりにお役に立てると思っただけなんですけどねぇ」
実際のところ、宮廷道化師としての評判は悪くない。
他国を招いての会談においても、彼の軽妙な立ち回りは一定の評価を得ており、議長の目を盗んで重宝してくる貴族も少なからずいる。
だが――議長にとっては、女王の評価に繋がる存在など、面白くないのだろう。
「陛下。そろそろ、新たな王配についてもお考えいただかねばなりません。このような者をいつまでも置くなど、正気とは思えません。民草にも示しがつかないでしょう」
話を振られた女王は気怠げに髪をかき上げる。
前髪の隙間から覗いた鋭い眼差しに、議長もわずかに気圧された様子を見せた。
「生憎と、今はこいつの相手で忙しい。相応の者を見繕ってから話を持ってくることだな」
「女王陛下ともあろう御方が何をおっしゃいますか。この国の未来を思えばこそ、お世継ぎは不可欠でございましょう」
「その未来とやらをお前たちが語るとはな。……あまり笑わせないでくれ」
話は終いだとばかりに、女王は道化師を伴ってその場を後にした。
「……どうやら、まだお加減がすぐれぬようだ。また薬を持たせましょう。悪いものは、取り除かねばなりませんので」
低く、ねっとりと絡むような声。だが女王は一度たりとも振り返らず、歩みを止めることもなかった。
決意を滲ませるその横顔を見つめていたのは――道化師、ただひとりだった。
*
そして、昼餉の刻。
またか、と錯覚を覚えるほど既視感に満ちた光景だったが、扉を開いた先に立っていたのは、やはりあの年若い女中。例によって肩を小さく震わせているが、もはや憐憫の感情は微塵も湧かなかった。
「議長様からの……差し入れでございます」
配膳車の上に乗っていたのは、小皿に盛られた白い粉末ただひとつ。まるで、逆らった罰として与えられたかのような、あからさまな贈り物だった。
女中は道化師越しに室内を覗き、椅子に腰掛けて読書に耽る女王に縋るような目を向ける。
その目には、かすかな余裕があった。きっと、また庇ってもらえると踏んでいるのだろう。前回と同じく、女王がその身を差し出してくれると――。
女王には、歌姫が毒を煽った時の顛末について説明している。
洗濯場での女中らのやり取りまでは伝えていないが、彼女はちらりと顔を上げるにとどまり、何も言わず再び本へと視線を戻した。
それだけで、道化師には充分だった。
にこりと唇に笑みを浮かべ、わざとらしく手を振り上げる。
「過分なご厚意、まことに恐れ入ります。ですがこの通り、陛下はお元気でございますので……お薬は不要とさせていただきましょう」
女中が明らかに狼狽え始めた。前回と同じく遮られると悟ったのだろう。眉を寄せ、道化師を睨みつけ――そして、涙を一筋、ぽろりと零した。
見事な演技だった。洗濯係などにしておくには惜しい逸材だ。劇団にでも入っていれば、きっと舞台の花形になれたろうに。
「もし何か無礼があったのでしたら申し訳ありません……! ですが、受け取っていただけなければ、わたくしが咎を受けてしまいます……!」
「良いではありませんか。叱責のひとつやふたつ。心の中で舌を出していれば済む話でしょう?」
「何を……。あなたは、ご存じないのです。叱責だけで済むなど滅多にございません。屋敷を追われるかもしれませんし……最悪、命すら……!」
「まさか。蒼河よりも懐深く清らかなる議長様が、そんな酷薄なお方だとは私には思えませんな。それに――」
道化師は言葉を切り、そっと女中を見やる。
「貴女は、どうお考えですか? この薬を陛下が飲むということについて」
「それは……」
言い淀んだまま口を噤む女中を見下ろし、それでは――と、道化師が扉に手をかけ閉めかけた、その瞬間――。
女中が胸倉を掴んできた。一張羅なのだから布が裂けでもしたら困る。即座にその手を払い落す。
「……しつこい方ですね。どうせ血のついた布を確認するだけなのでしょう? ……それなら、貴女が飲めばいいのではありませんか? 誰の血かなど、分かりはしませんよ」
「そ、そんな……! お戯れはおやめ下さいませ!」
「何を今さら。……わたくし、道化でございますよ? 戯れは得意中の得意でございます」
「いやっ、陛下……! どうか、御慈悲を!」
道化師を押し退けて室内へと踏み込もうとする女中の動きを、当然ながら見過ごさない。体を使って彼女の進路を遮り、耳元にそっと言葉を落とす。
「大丈夫ですよ。――死には、しませんから」
涙を零したまま、呆然と立ち尽くす女中を残して、道化師は静かに扉を閉じた。
そう。死にはしないのだ。
ならば、自ら毒を煽るか。あるいは、議長の顰蹙を買うか。――好きなほうを選べばいい。
扉の向こうからドンドンと叩く音が続いたが、それもじきに途絶えた。
諦めて去ったか。一部始終を見届けていた近衛兵が追い払ったか。
いずれにせよ、静けさを取り戻した部屋の空気に、道化師は満足げな息をついた。
女王の座る椅子の肘掛けに身をしならせるように寄り添えば、その手が、ふわりと道化師の頭へと伸びる。
まるで褒めるような、優しい手つきだった。思わず、くすりと笑みがこぼれる。
「……今後は、余計な真似をしなくていい」
「必要な真似なら、してもよろしいのでしょう?」
「道化の分際で騎士を気取るな」
「物真似も得意でございますから。鶯など、特に評判がよろしゅうございます」
その場でひと鳴きしてみせると、「うるさい」と冷たく返された。
まだ世間を知らぬ女中相手に、大人気ない振る舞いだったかもしれない。
心が狭いと捉えられれば、女王の評判まで傷つける結果となったかもしれない。
――あるいは、本当に命を落とすことになるのかもしれない。
それでも。薄情だと罵られようと、この国の流儀にすっかり染まってしまおうと。
どこか安堵したような横顔を見せる彼女を前にして、道化師は、もう細かいことを考えるのをやめた。
少しずつでいい。
この閉ざされた世界の中で、彼女を心から想う者がいるのだと――そのことを、知ってもらわねばならないのだ。




