01 この国で、運命の輪は回り始める
――とある吟遊詩人は謳う。
今は亡き、小さな国の最後の女王と、彼女に生涯を捧げた道化師の物語を。
馬車の中、鏡を覗きながら丹念に化粧を施す道化師。
かつては流浪の旅芸人の一座に連なる、名もなき芸人のひとりに過ぎなかった。
街から街へと渡り歩き、芸を披露しては日銭を稼ぐ――そんな日々の繰り返し。
この日もまた、彼らは招かれるままに、とある小国の関所の門をくぐった。
荷車に揺られながら、道化師はふと、馬を操る座長の背中の向こうに視線をやった。
その先には、水底が透けて見えるほどに澄んだ大河の流れがあった。
思わず息を呑むような景観だった。
だがやがて、見上げるほど高く積まれた土塁――堤防が姿を現す。
はるか遠くまで続くそれは、まるで河と人とを断絶する巨大な壁だった。
これほどの構造物を築き上げた技術には目を見張るものがある。
だがその姿はあまりに無骨で――美しいとは、とても言い難かった。どこか無粋で、威圧的ですらある。
それでも、この国にとっては必要なものなのだろうと――そう、道化師はひとり納得した。
堤防の陰を辿るように馬車が進む中、座長の濁声が荷台に響く。
「今日のお客は王城の貴き方々だ! お前ら、絶対に粗相のないようにな!」
その声に興奮が滲むのも無理はなかった。
寄せ集めのはぐれ者で成るこの一座にとって、王城で芸を披露するなど、かつてない大舞台なのだから。
国境を越えてからというもの、一座にはどこか浮足立った空気が漂っていた。
だが、その熱とは裏腹に――。
三方を山に囲まれたこの国には、どこか陰鬱な気配が漂っていた。
城下町に入っても、その空気は晴れない。
道行く人々の目は一様に冷ややかで、歓迎の色など微塵も見えなかった。
「……あまり歓迎されてないみたいね」
幌からそっと顔を覗かせた紅一点、歌姫が不安げに呟く。
「おい、顔を出すな。面紗も外すな、絶対にな」
座長が即座に窘めると、彼女は小さく肩をすくめて身を引いた。
彼女の養父であり、過保護とも言える座長は、歌姫が顔を隠す面紗を外すことを何より嫌うのだ。
そのやりとりを横目に、道化師は静かに口を開く。
「この国は王家の評判が悪いんだと。さっき見ただろ、堤防。あれも原因のひとつだそうだ」
「へえ、よく知ってるのね」
「道化は情報が命なんだから当然だろ? 下調べなしで冗談を飛ばせば、すぐに首が飛ぶんだからな」
人の集まる大国では旅芸人や道化師は広く知られた存在であるが、田舎に行けば行くほどに馴染みの薄いものとなる。風刺をネタにする以上、見定めるべき線を誤れば命取りになりかねない。
だからこそ、彼は道中に立ち寄った村や酒場でいつものように耳を澄ませていた。
そこで語られていたのは、悲鳴にも似た民の嘆きだった。
「……まったく、この国は腐りきってやがる。税ばかり搾り取りやがって、こっちには何ひとつ戻っちゃこねぇ」
「去年の大雨だって、対策なんて一つもなかったじゃねぇか。そのせいで今年も不作だし……虫の数まで増えてやがる」
「でけぇだけの堤防のせいで陽は遮られ、肝心の大雨でも氾濫は起きずじまい。まったく、どこまで無駄に金を使えば気が済むんだか」
「聖国なんかに無駄に金をばらまきやがって! 飢えてるのは全部、女王のせいだ! 顔ひとつ見せねぇ癖によ!」
怨嗟と失望――それが、この国に立ち込める陰鬱な空気の正体だった。
遥か遠くにある王の影はもはや民の目にすら映らず、代わりに苛立ちと憎悪だけが膨れ上がっている。
「女王? あんなのはただのお飾りだよ。貴族のやりたい放題も止められず、外交もままならない。あれが最後の王族だってんなら……この国ももう、おしまいさ」
集められた不満はやがて一本の線を描き、貴族院――そして『女王陛下』へと向かっていく。
数多の国を渡ってきた道化師にとっても、ここまで露骨に王家が罵倒される国など、そう目にするものではなかった。
――そこまで嫌われた女王とは、いったいどんな人物なのか。
その素顔に、かすかな興味が湧いた。が、何かあればすぐにでもこの国を出るつもりでいた。
……もっとも、法外な謝礼を受け取ったらしい座長が、聞く耳を持つとも思えないが。
長旅の末、一座は城へと迎え入れられ、到着早々に大広間へと通された。
左右に控えるのは貴族たちであろうか。物珍しげにこちらを窺う目は、やや侮蔑を帯びている。
その中、玉座に静かに身を預けるのが――噂の女王陛下か。
何かを語るでもなく、ただ黙して座す姿。
その周囲だけ空気の温度が異なるようで――言葉にできない、何か、を纏っている。
座長が挨拶に一歩前に出ようとした、そのときだった。
「せっかくだ。芸を見せろ。今すぐにな」
のっぽの男が、まるで道を塞ぐように歩み出てきた。横柄な口ぶりに、座長も一瞬たじろぐ。夜会の余興として呼ばれたはずだ。準備も整わぬままの無茶振りに、頬を引き攣らせている。
――だが、こうして侮られるのも珍しいことではない。
座長の一瞥を受けた道化師が、ひらりと前へ躍り出た。
「それでは皆々様、ご覧あれ!」
二又帽子を翻し、胸を張って深く一礼。紅に彩られた口元に誇張された笑みを描く。
「この国に、かように立派な貴族様がいらっしゃること、わたくし、遠方より聞き及んで参りました!」
皮肉とも称賛とも取れる声音に、貴族たちはとりあえず気の抜けた拍手を送る。
その中で、道化師は腰に差した木杖を王笏に見立て、帽子を外套代わりにして大仰に振る舞った。
「食糧難? 腹が減った? 笑止千万! 我が金貨で空腹など満たしてくれるわ!」
そう叫びながら懐から古びた銀貨を取り出し、床に思いきり叩きつける。
跳ね返った銀貨が額を打ち、「いたた!」と仰け反ると、観客からくすくすと笑いが漏れる。
「ええい、ほれ、拾うがよい! 金さえあれば麦も水もいくらでも買えるのであろう? ……なに? この端金では足りぬと申すか? ええい、下民が贅沢を言うな!」
胸を張り、鼻を鳴らし、腰を振って床を踏み鳴らす。
滑稽な姿に、貴族たちは笑い声を上げ始めた。
だが道化師は、その笑いに甘えない。
毒を、さらにひとさじ盛りつける。
「このままでは国が傾く? 民が飢え死ぬ? それがいったい、何だというのだ!」
見えぬ壺を抱え、空の盃に酒を注ぐ仕草。酔った振りでふらふらと広間を歩く。
「金と踊りと酒――それさえあれば、世はこともなし!」
誇張された芝居の裏に、じわじわと滲む生ぬるい毒。
貴族たちも気づき始める。これは単なる余興などではない。
――自分たちの傲慢と無為を、正面から突きつける風刺なのだと。
「……不敬だぞ」
誰かの低く押し殺した声が、広間に落ちた。
空気が、一変する。
先ほどまでの笑いは霧散し、代わりに、重く冷たい沈黙が満ちる。
――やれやれ、やはり田舎の国は冗談の通じが悪い。
道化師はあくまでも笑顔を崩さぬまま、心の奥でそっと肩を竦めた。