17 報われぬ儀式
部屋に入り込んだ女医と侍女は、歌姫の容態を一瞥すると、手にしていた真新しい布でその身を手早く拭いはじめた。
籠に汚れた布を放り込んでは、乱れた衣の胸元を大きく開き、爪痕だらけの肌へと迷いなく軟膏を塗り込んでいく。
呆然とその光景を眺めていた道化師に、女医が申し訳なさそうに顔を上げた。
「……ごめんなさいね。介抱するから、少し、外へ出ていてくれないかしら」
どうやら二人は手慣れた介抱役らしい。それであれば、確かに自分がここに居ても足手まといにしかならない。
まだ息も浅く、苦しげに身じろぐ歌姫であったが、気怠そうに道化師を見上げてきた。無言のまま、気丈にも小さく頷いてみせる。
「それでは、わたくしはしばらく遊んでまいります。どうか、陛下をよろしくお願いいたします……」
女たちは答えなかった。ただ、侍女が歌姫の耳元に何かを囁きかけ、口元に薄く笑みを浮かべる。
「この程度で音を上げられては困りますよ。あの御方は、身を引き裂かれるような思いを何度となく味わってこられたのですから」
氷を這わせるような声音に追い立てられ、道化師は部屋を出た。
扉が閉まった直後、またしても、絶叫が――。
「……今日はまた、随分と強烈だな」
直立したままの近衛兵が、ぽつりと呟く。普段よりも険しい面持ちに見えるのは気のせいではないだろう。
「……こんなことが、しょっちゅうあるんですか?」
「まあ……な。忘れた頃にな。最近は声も上げずに耐えていらしたが……」
それは、慣れてしまったということか。それとも痛みという感覚を忘れた賜物か。
目にしなくとも、布を噛みしめ静かに耐える女王の姿が浮かぶようで、道化師も視線を落とした。
「先ほどは助かりました。わたくし、あのような場面に出くわしたのは初めてで……何もできずに情けない限りです」
「いや、大したことではないさ。……哀れな方だよ。飲まなければ、誰かが死ぬことになるんだからな」
「これまでにも……?」
「何度となく、な。毒を飲んでも、運んだ者が罪を着せられ獄に送られることもある。……あれは、貴族どもの遊びだよ。高尚な遊戯ってやつさ」
――眼前が赤く染まるような怒りが、頭の芯を焼いていく。
力なき女を嬲るあの連中にも。
見て見ぬふりを決め込むこの男たちにも。
憤るしか出来ない、自分自身にも。
「……あの女中は、救われるのでしょうか」
「さあな。お貴族様のお手つきで厄介払いにされたんでなければ、今まで通りか、あるいは――」
言いかけた男はそこで口を噤んだ。
喋りすぎた、とでも言いたげに目を逸らし、気まずそうに俯いてしまう。
恐らくこの宮中では、女王に寄り添った者は遅かれ早かれ粛清の対象に選ばれるのだろう。それが分かり切っているから、誰もが表立って擁護できないのだ。
けれど、この異常な現実に心を痛めぬ者ばかりでもない。女王もそれを分かっているがゆえに――あえて、自ら毒を煽る。
やるせなさを抱えたまま、道化師はおぼつかない足取りで陽だまりの中を彷徨っていた。
先ほどは焦りからひどい態度を取ってしまった。年若いあの女中もきっと傷ついたに違いない。
たしか、彼女はいつも裏庭の洗濯場にいたはずだ。
これまでにも何度か顔を合わせ、そのたびに道化師の披露する手品に、子どものように手を叩いて喜んでいた姿を思い出す。
毒を運んだだけの彼女に責はない。怖がらせたことを詫びねばならない。
そう思いながら彼女の姿を探して歩いていくと――やはり、そこにいた。
裏庭の洗濯場で、腰を折り、白いシーツを丁寧に揉み洗っている。
周囲には他の女中たちもいて、手慣れた様子で濡れた布を絞り、紐にかけていく。
先ほどまで居室で見ていた陰惨な光景などまるでなかったかのように、空は抜けるように晴れ渡っている。
声をかけるべきかと迷っていた矢先――女中たちの口から「女王」という単語が飛び出した。
道化師は目立つ二股帽子をそっと脱ぎ、気配を殺して物陰に身を潜めた。
「貴女も大変だったわね。新入りは命じられやすいのよ」
「はい……。まさか本当に、あんなことが行われているなんて……」
「シッ、あまり大きな声を出すもんじゃないわよ」
「でも、こうして戻ってこれたんだから良かったわ。……陛下も、すんなり飲んで下さったんでしょう?」
若い娘たちの声はよく通る。貴族の目が届かないこの裏庭では油断も混じっているのだろう。笑い声を交えながら、因習を平然と語っていた。
やはり彼女らも、同情してくれているのだろうか――。
そう思いかけた道化師の胸に、わずかな安堵が灯ったその時。
女王に毒を届けたあの女中が、鼻先でフッと笑った。
「ええ。でも、なかなか飲んで下さらなくて、心臓が縮むかと思いました」
「死ぬわけじゃないんだから、さっさと飲めばいいのよね? 罰を受けるのはこっちなのに」
「私たちが怖がる姿を見て愉しんでるのよ。貴族院には逆らえないから、代わりに私たちを踏みつけてるのよ、きっと」
「いえ……あの道化師に脅されたんですよ。いつもはヘラヘラしてる癖に、あのときは本当に怖かったです……」
「ああ、女王付きとかでよく見かけるようになったアイツね。男妾って噂、やっぱり本当なのかしら?」
「毒の飲みすぎで頭がおかしくなったんじゃない? あんなのに抱かれるなんて、考えただけでも鳥肌が立つわ!」
「アハハ」と、笑い声が広がる。
あの女王に縋って涙まで流していた女中が、屈託のない笑顔を見せていた。
――ああ、吐き気がする。
歌姫はあの娘のために毒を飲みこみ、血を吐くほど苦しんだというのに。
それを当然の行いとでも言うかのように、彼女たちは笑っていた。
怒鳴りつけたい衝動に駆られながらも、道化師は静かにその場を離れた。
――やはり、この宮中はどいつもこいつもイカれている。自分もその一人だ。死ぬわけじゃないのならと、あの時、歌姫を引き留めることができなかった。
……この城の空気に触れていると、感覚が麻痺していく。
どこへ行くべきかも分からぬまま彷徨い歩き、気がつけば辿り着いていたのは――結局、女王の居室だった。
そろそろ歌姫の容態も落ち着いた頃ではないか。そんな淡い希望を抱きながら視線を巡らせると、部屋の外には、血で染まった布が籠に山のように積まれていた。
「陛下は、まだ?」
目を閉じたまま佇む近衛兵に声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げて言った。
「落ち着かれたようだ。戻ったら入っても良いと聞いている」
「それなら……良かった」
そっと扉を開ける。
室内に女医や侍女の姿はもうなく、床も寝具も、血の匂いすら一切残されていなかった。最初から何もなかったかのように、静まり返っている。
寝台の上には、蒼白な顔で横たわる歌姫の姿があった。
「おい……大丈夫なのか?」
呼びかけに応じる様子はない。
額には幾筋もの汗が滲み、眉間には深く皺が寄せられている。呼吸も浅い。化粧は汗と涙で流れ落ちてしまったのだろう。そこには、飾り気のない素顔の彼女がいた。
小卓の上に残された布で、そっと額の汗を拭ってやる。
細かな睫毛がかすかに震え、ゆるやかに瞼が持ち上がった。
「……ここは……」
「陛下の部屋だ。毒にやられたんだよ、お前は。……無茶しやがって」
「ああ……そうだっけ」
「もう大丈夫なのか? 随分と、血を吐いてたけど……」
「……解毒薬をいただいたの。まだ胃が痛むけど……うん、大丈夫」
なんだ、それなら――。少しだけ肩の力が抜けた。
安堵の息を吐きながらも、胸に渦巻くものはどうにも晴れそうにない。
道化師も寝台に腰掛け、彼女の頭をそっと撫でた。
心地よさそうに目を細めていたが、やがて「子ども扱いしないでよ」小さな文句が飛んでくる。
「……あたし、あの子のこと……守ってあげられたのよね?」
「あの子?」
「さっきの若い女中さん。可哀想に、すっかり怯えてたじゃない。貴方のその顔、間近で見たら普通に怖いんだから……あんまり脅かしちゃ駄目よ」
「ああ……そうだな……」
――あの女が、どんな顔で笑っていたか。
そのことは、彼女には伝えないほうがいい。せっかく『救えた』と思っているのだから。
まだ眠たげな様子のまま、歌姫は何かを呟いていた。けれどそれもすぐに、浅い寝息に変わっていく。
瞼が閉じられ、静かに再び夢の世界へと沈んでいった。
夜の帳が、音もなく降りてゆく。女王はまだ、戻らない。
もしかしたら、このまま帰ってこないのではないか。そんな思いがふと胸を掠める。
でも――。
それならそれでいいのかもしれないと、ほんの一瞬、思ってしまった。




