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道化師は泣き、女王は笑う  作者: Mel


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16 知る必要のない痛み

 ひとしきり枕を叩いたら気が済んだのか、歌姫は面紗を外し、興味深げに室内を物色しはじめていた。

 鏡台に収まる化粧品のひとつひとつを眺めては、何やら得心がいったようにひとり頷いている。


 彼女から目を離すわけにもいかず、道化師も外出は控えていた。

 めっきり出番の減った小道具の手入れをしながら、お互いにぽつぽつと会話を交わすうち。やがて昼餉の時間がやってきた。


「……失礼いたします。昼食の準備が整いました」


 ノックに続いて響いた女中の声。どこか、かすかに震えている。

 歌姫が面紗を被ったのを確認してから、道化師は扉を開いた。


 目を向けると、そこには顔色を青ざめさせた若い女中。

 押し出された配膳車の上には、くたくたに煮込まれた野菜の汁物と水差し。その隣には白い粉末を盛った小皿が添えられている。


「……見慣れぬ菓子がございますね。こちらは、何と?」

「議長様からのお心遣いでございます……」


 女中はかすれた声でそう答えた。


「――なるほど。誠にありがたいお話ですが、陛下の容態は安定しております。薬は……不要でございますな」

「それが……。必ず飲ませよと、ご命令を頂いております……」


 ――毒だと、分かりきっているのに?


 真顔のまま首を傾げて女中を見下ろすと、彼女の顔がさらに青ざめた。

 無理もない。

 命令に従えば、女王の身に害を及ぼすことになる。

 逆らえば、今度は自らの身が危うい。

 どちらに転んでもただでは済まぬ――そんな運命を、一方的に押し付けられているだけなのだから。


 この宮中では、月に一度、人が死ぬ。

 女王は、常に死なぬ程度の毒を盛られている。


 ――なるほど。

 これは、貴族院が女王の命を手の内に握っているという『示威』に他ならない。

 即位以来、脈々と続けられてきたであろう、吐き気を催す呪われた因習。


 無言のままに見つめ返す道化師に、女中は怯えきった顔で縋るような声を上げる。


「ど、どうか……お許しください……」

「……こんな怪しいもの、陛下の口に入れさせるわけには参りませんな」

「そんな……! どうか……お許しくださいませ……! 私にも、どうか御慈悲を……!」


 懇願の声は震え、視線は奥に控える女王――つまり歌姫へと向けられる。

 女中の背後には近衛兵の姿があったが、道化師と目が合うや、視線をそらして沈黙を貫いた。


 ……きっと、これまでにも同じようなことが繰り返されてきたのだろう。

 貴族院の意に沿わぬ行いをしたことによる、戒めとして。


「……道化。あまり苛めてやるな。お前。議長殿からの『ご厚意』は、確かに受け取ったと。そう伝えておけ」

「は、はい……! ありがとうございます……ありがとうございます……!」


 女王の慈悲に大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら、女中は何度も頭を下げ、逃げるようにその場を走り去っていった。

 残された配膳車を一瞥し、道化師は重たく首を振る。


「……確認は、あるのですか?」


 何を、とは言わなかった。それでも廊下から一部始終を目にしていた近衛兵には、伝わったのだろう。彼は苦い表情で小さく息を吐き、伏せた視線のまま、静かに口を開いた。


「掃除に入る女中によって。……俺も、音を聞く」

「報告の義務があると」

「ああ。……庇った連中はみんな死んだ。陛下はそれを知っているから、何も言わずに飲まれてこられ、て……それで……」


 その声には微かに震えが混じっていた。

 理不尽であると理解していても、立場を考えれば従わざるを得ない。

 だから毒だと分かっていても、毒を煽る――。ただ自分に従う者を守るために。


 配膳車を部屋の中に押し入れた道化師は、じっと立ち尽くす歌姫に目をやる。

 近衛兵とのやりとりも耳にしていた彼女は、顔色を失い、白い粉の盛られた皿をじっと見つめていた。


「こんなの、おかしいじゃない!」

「分かってる……!」


 そんなことは皆、とうに分かっている。

 だが、この宮中においては、それが当たり前としてまかり通っている。

 もし拒めば、女王の立場はさらに危うくなる。いや、不要な疑惑を招いて歌姫自身が捕らわれることすらあり得るのだ。


「……俺が飲む。ひでぇな。布まで用意されてやがる」


 配膳車の下段には、丁寧に畳まれた白い布が何枚も重ねられていた。

 きっと、吐血や嘔吐の処理用なのだろう。飲んだ証として血が出たかどうか、それすら確認事項なのだ。

 手慣れた準備。……いったいいつから繰り返されてきたのだろう。


 道化師が水差しに手を伸ばそうとした、その時――。

 その手を、歌姫がそっと押しとどめた。


「あたしが飲む」

「馬鹿を言うな。死なない量に違いないとはいえ、お前は陛下じゃない。身体のつくりだって違う。万が一があったらどうするんだ」

「それでも……これは、あたしが飲まなきゃいけないの。あの人が、どれだけ苦しんできたか。……その痛みを知りたいの」


 道化師は奥歯を噛み締める。

 だが、首を振った。


「駄目だ。……俺は、座長からお前を預かってるんだ。毒なんか飲ませたと知れたら、あのおっさんがどうなるか――考えるまでもねえだろうが」


 血の繋がりはなくとも、座長は彼女を我が子のように育て、守ってきた。

 毒を口にしたなどと知れば、我を忘れて暴れ出すかもしれない。

 それでも。歌姫は顔を曇らせながらも、一歩も引く姿勢を見せなかった。


「あたしは、知らなくちゃいけないの」


 これまでに見たことも無い、覚悟を宿した瞳で見上げてくる。


 自分の腕でも切って、その血で誤魔化せないか。そんな考えも過ぎったが、入れ替わりが行われている今のこの状況では、万が一にも疑念を抱かれたくはない。

 仕方なく、道化師も彼女の意を汲むことにした。大丈夫。この国には女王という象徴は必要とされているのだから、死にはしないはず。……悶え苦しみはするだろうが。


 椅子に腰掛けた歌姫は、水を口に含み、白い粉の入った小皿を傾けた。再び水を含み、ごくりと白い喉を鳴らす。

 すぐに異変が訪れるかと思われたが、しばらくは何の変化もない。

 汁物には手をつけなかった。代わりに、道化師が無言でそれを平らげた。


 布で手遊びをしながら気を紛らわせていた彼女だったが――やがて顔色が見る間に失せ、口元に布をあてがい、咳き込んだ。二度、三度。吐き出された血が、布を深紅に染め上げていく。


 そのまま、呻き声をあげながら椅子から崩れ落ちる。

 掻き毟るように胸を抱え、言葉にならない叫びを上げながらのたうち回る。

 慌てて背を擦るが、その手も暴れる腕に弾き返された。


「陛下!」


 見開かれた目は血走り、床を睨みつけたまま。また喉の奥から咳がこぼれ、血の塊が床に広がった。


「うぅ……っ! あああああっ!」

「――おい、道化! 水を、飲ませろ!」


 扉の向こうから切迫した声と共に、何度も扉を叩く音が響いた。

 近衛兵だ――おそらく、耳をそばだてていたのだろう。


 言われるがままに新たに水を注ぎ、暴れる彼女を押さえ込みながら、無理やり口へと流し込む。

 大半はこぼれたが、一杯、二杯と注ぐうちに、ようやく吐血は治まり始めた。

 けれど、胸を掻き毟るような仕草はなおも止まない。

 「苦しい……」と呻くたびに、ただ背をさすることしかできなかった。

 


 ……どれほどの時間が経っただろうか。

 何度も水を吐き、布は血と吐瀉に塗れていた。

 絨毯の上に蹲る彼女は、ぽろぽろと涙をこぼしながら、かすれる声で「ごめんなさい……」と何度も繰り返す。


 道化師は苦々しい表情のまま、その背を優しく擦る。

 ようやく落ち着いた頃――まるでその瞬間を見計らっていたかのように、扉が音もなく開かれた。


 振り返ると、そこには年老いた女医と侍女の姿があった。

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