15 帳越しの舌戦
――やがて、再び控えめなノック音が響いた。
扉の向こうから聞こえてきたのは、先ほどと同じ若い女中の声である。
「お待たせいたしました、陛下。……議長様が問題ないと仰っております。どうか月の間までお越し願えませんか」
「……面倒だが仕方あるまいな。準備を整えてから行くと伝えておけ」
「はい、かしこまりました」
歌姫は鏡を手に慎重に自らの顔を確認すると、手早く化粧道具を取り出し、頬と目元に濃い影を乗せた。――化粧を施すほどにどこか病んだような気配が強まり、声色もよく似せられている。
「……ずいぶんと研究したものだな?」
「そりゃね。一世一代の大舞台に立つんだもの。こんなところで躓いてなんていられないわ」
「一世一代、ね……。一体なにを仕出かすつもりなんだか」
「内緒。さ、行きましょ」
仕上げに面紗を顔にかけると、準備は完璧だった。
道化師が扉を開くと、待機していた近衛兵が一礼し、女王――に扮した歌姫へと恭しく頭を垂れた。
そのまま廊下を渡り、月の間を目指す。
すれ違う女中や兵士たちは道化師には目もくれず、女王の姿を認めては足を止め、深々と頭を下げる。誰一人として、その中身が別人であることに気付く様子はない。
やがて辿り着いたのは、要人との会談に用いられる部屋。
入り口は二箇所あり、奥まった側から入れば黒い薄布の帳で隔てられた空間へと通じている。
様子を確認した歌姫が中央に据えられた椅子に静かに腰掛けると、道化師もその傍らに控えた。
帳の向こうには、既に誰かが座していたようだ。
以前に太鼓持ちの貴族と馴れ合っていたあの男――議長が、どっかりと長椅子に身を沈めていた。
「待たせたな。急ぎの用とのことだが、何事か」
低く、よく通る声で歌姫が切り出す。
議長は居丈高に顎を上げる。どちらが主君か分からない尊大な態度だった。
「体調の優れぬ中ご足労いただき恐縮ですな。お加減はいかがでございますかな」
「生憎と芳しくはない。長話は控えてもらいたいところだ」
「かしこまりました。……蝗害の件でございます。陛下のご命令に従い、備蓄庫より三割の放出を開始いたしております」
「はて? わたくしの記憶では、陛下は五割の放出を命じていたかと存じますが。……勘違いでしたか?」
咄嗟に口を挟んだ道化師に、議長は苛立ちを隠そうともせず、鋭く睨みつけてきた。
「今後を思えば三割でも多い方だ。……道化の分際で知った口を利くでない」
そうは言うものの、備蓄庫から放出された三割のうち、いったいどれほどが民の口に届くというのだろうか?
見え透いた帳簿の下で、どれほどの量が他所に流され、誰の腹を肥やしているのか。容易に想像のつくことではあったが今は引き際だ。道化師は口を噤み、軽く一礼して身を引いた。
「それに、聖国からの支援とやらで、民はさほど飢えてはおりません。……陛下、あまりにも勝手な振る舞いはお控え願いたい」
「……我が采配を、勝手と申すか」
「ええ。我らを通さずに聖国と関係を結び直されていたこと――その点については、今は咎めますまい。ですが、受け取られた物資は本来、国庫に納めていただくべきものでしょう。記録がなければ予算と在庫に齟齬が生じ、苦労するのは末端の官吏たちですので」
「ふふ……面白い。私の知る限りでは、誰かさんの“懐”に納められている分の記録こそ、まるで見当たらぬようだが?」
揶揄するような言葉が、場を凍らせる。
――少し、気が早い。
懸命に女王らしい立ち居振る舞いを真似てはいるが、相手の挑発に真正面から応じてはあの御方らしくない。道化師は、心の内で密かに舌を打った。
「……やはり体調がすぐれぬようですね。後ほど薬を届けさせましょう」
「それは有り難い。……毒見の必要はあるか?」
「……どうやら久方ぶりでお忘れになられたご様子だ。とてもよく効く薬でしたでしょう。陛下もいたく気に入られていたではございませんか」
「そう、であったか。……その気遣いぶり、少しは民にも分け与えてもらいたいものだ」
帳の内側で、再び空気が揺れる。
議長の含みを持たせた物言いが気になったものの、引き締まる緊張を和らげるように道化師がひとつ咳払いをして、わざとらしい明るさを纏った。
「――まあまあ、そんな難しい話ばかりでは、眉間に皺が定着してしまいますよ。……議長様、どうかご容赦を。陛下がご機嫌斜めなのは、昨夜わたくしが些か不始末を致しまして……」
「ほう。不始末とは?」
「はい。陛下が楽しみにしておられた夜食をうっかり独り占めしてしまいまして。……いやはや、食べ物の恨みとは恐ろしいものですねぇ」
大袈裟に肩を落とすと、帳の奥から小さく鼻を鳴らす音が聞こえた。
「……まあ、よろしい。陛下、どうか我らの立場もお汲み取り下さいませ。民と陛下を繋ぎとめるにも、限界がございますゆえ」
「議長様の有り難きご忠言、陛下の耳にはよく届いておいででしたよ。……さて、お話は以上でよろしゅうございますか? 陛下にはご静養が必要でして」
「ご理解いただけたのなら結構。……明日は会談も控えております。お渡しする薬は、必ずお飲み下さいませ」
がたり、と長椅子から立ち上がる音が室内に響いた。議長は足音荒くその場を後にし、扉の向こうへと消えていく。
残されたふたりの間に、重苦しい沈黙が落ちた。
道化師はそっと手を伸ばし、俯いたまま微動だにしない歌姫の肩を叩いた。
彼女の身体が小さく震えている。覗き込むと、睫毛にうっすらと涙が滲んでいた。
「……ここまで、虚仮にされていたなんて……」
「……陛下。早く部屋に戻りましょう。どこに目があり、どこに耳があるか分かりませんから」
――それなりに形にはなっていた。だが、やはり本質が違うのだ。
この調子では長時間の『女王』など到底演じきれまい。
項垂れたまま動けずにいる彼女の手を、道化師はそっと取り、立ち上がるよう促す。
そう。ここは、気を抜けば命すら失いかねぬ場所なのだ。早く立ち去らねばなるまい。
……そんな場所に、女王は幼き日からひとり立ち続けていたのだ。
*
居室に戻るなり、歌姫は寝台へとうつ伏せに倒れ込み、何度も枕を拳で叩きつけ始めた。
嗚咽まじりのうめき声が途切れ途切れに漏れ出す中――道化師は隣に腰を下ろし、その頭をぽん、と軽く叩いてやる。
「……よくやったと思うが、そうだな。お前にあの方の影武者は無理そうだ」
責めるというよりは、ただ正直に、そう告げた。
すると歌姫は顔を枕に埋めたまま、震える声でくぐもった叫び声を漏らす。
「だって……! あんな嫌なヤツらに好き放題言われるなんて、我慢できなかったんだもん……!」
「あれでもまだマシな方だぞ。嫌味に耐えれば済むだけ楽ってもんだろ」
「うそ……。あれよりひどい連中がいるっていうの……?!」
「シーッ。……声が大きい。壁にも耳があるってのは、本当だぞ」
静かに諭しながらも、どこか冗談めかした口ぶりは変えずにいる。それでも――道化師の目は、どこか遠くを見ていた。
「……俺が知る限りじゃな。貴族よりも、民衆のほうがよっぽど残酷だったりするんだよ」
貴族院の連中は敵だと思えば対処のしようがある。
女王もよく分かっていて、わざと踏み込まずにあしらっていた。
けれど――民は違う。
愛すべきはずの彼らから、憎悪と嘲りを向けられるということの痛みは計り知れない。
「……それでも陛下は、その民を守らなければならないって。そう、お考えらしいわ」
「……王の責務ってやつだそうだからな。俺には、よく分からんがな」
自分を嫌う者のために命を削って心を砕くことに、果たして意味などあるのだろうか。
ふいに、記憶の底から浮かび上がる。
早朝の微睡みの中にある道化師の眼前で、寂しげに虚空を見つめていたあの人の姿が。
その輪郭は、いま目の前で涙にくれる少女の姿とは、やはり重ならなかった。




