14 似て非なる少女
薄布が揺れる窓の外から、柔らかな陽光が差し込んでいる。
いつもなら夜明け前には目を覚ますというのに、昨夜はつい深酒をしすぎたせいだろうか。覚醒を促す眩しさに薄目を開き、重たい頭を持ち上げた瞬間、こめかみを刺すような痛みが襲った。
「っ……。……俺としたことが……」
いつ寝台に潜り込んだのかまるで記憶にない。ただ、上質な寝間着をきちんと身に着けているあたり、酔ったなりに寝る支度だけは済ませたのだろう。頬を撫でると指先に触れるのはさらりとした素肌。昨夜の自分は化粧もきちんと落としていたらしい。
ふと視線を隣へ移せば、掛け物を頭まで被って眠る女王の姿があった。彼女が寝坊をするなど珍しい。何か急ぎの用があれば侍女が声かけていたはずだが、今日はよほどの閑日なのだろうか。
「……陛下。朝でございます」
無遠慮に揺さぶるわけにもいかず、そっと声を掛ける。自分でも驚くほど柔らかな声音が出てしまい、咄嗟に咳払いをして誤魔化した。
掛け物の中の彼女は軽く身じろぐが、起きる気配はない。いつもなら道化師よりも早く目覚め、窓際の椅子に腰掛けてぼんやりと外を眺めているはずなのに――本当に珍しいことだ。
布の隙間から覗く長い亜麻色の髪。何気なく毛先に指先が触れた瞬間、再び彼女が僅かに身じろいだ。
「……陛下? もしかして、具合でもお悪いのですか?」
彼女は背中を向けて横になったまま。声に潜む不安を自覚するより早く、鼻先をくすぐるように甘やかな香りが漂った。その瞬間、道化師の中で強烈な違和感がはじける。
――これは、誰だ?
いつも女王を纏う香りではない。だが、記憶の片隅に残る、どこかで嗅いだ覚えのある匂い――それは。
「……失礼しますよ」
疑念を確信に変えるため、掛け物の端に指をかけて一気に捲りあげる。
露わになったのは亜麻色の髪と、こちらを見つめる黒曜の瞳。その瞳には悪戯を仕掛けた子どものような光が宿っていた。
「……貴様、不敬であるぞ」
「それはこっちの台詞だ……! 何をしてるんだ、お前は!」
思わず語気を荒げる。無理もない。寝台にいたのは女王ではなく、一座の妹分として可愛がっていたあの歌姫だったのだから。
彼女は悪びれもせず、ケラケラと笑いながら赤い舌をべぇと突き出す。もぞもぞと身を起こせば、女王のものと同じ寝間着まで纏っていた。
「よく分かったね? 義父さんのお墨付きだったのに」
「分かるに決まってるだろ。お前と陛下とでは全然違うんだ」
「そう? 背丈は大して変わらないし、顔立ちだってそこそこ似てるでしょ?」
無邪気な顔で言ってのけるが、道化師にしてみれば似ても似つかない。
たとえ姿形が似ていようとも……あの女王が纏う、張り詰めた静寂と深い孤独。それだけは歌姫がどれほど真似ようとも、決して手に入れることなどできやしないのだ。
「とにかく違うんだよ。香りも全然違う」
「ああ、香油も揃えなきゃだったわね。ありがとう、参考になったわ」
「そりゃどうも……って、そうじゃねぇだろ。なんでお前がここにいるんだ! 陛下は、どこへ行ったんだよ」
近くに隠れているのかと視線を巡らせるが気配はない。そもそも道化師の知る女王は、こんな子どもじみた悪戯に加担するような人間ではない。
じとりと疑いの目を歌姫に向けると、彼女は少し困ったように微笑んだ。
「陛下は、夜半過ぎに会談へと向かわれたわ。その間、あたしが身代わりってわけ」
「……非公式、ってことか?」
「さすが、鋭いね。聖国のお偉いさんと直接やり取りする必要があってね。でも、悪党どもに嗅ぎつけられると厄介でしょ? だからあたしが陛下のフリをして、部屋に籠もってるってわけ」
聖国――。座長が何やら水面下で交渉を重ねていた国だ。
まさか護衛もつけずに、女王自ら出向いたというのか? 確かに、貴族院の連中にでも知られれば、妨害の一つや二つは仕掛けられかねないが……。
「ここまで来るのに誰にもバレなかったってことか?」
「侍女さんの手引きがあったからね。真夜中だったし、ほとんど誰にも会わなかったわ。そこを見張ってた兵士さんの注意も引いてくれたしね」
「侍女って……あの人が?」
「そう。服の手配から全部やってくれたわ。というわけで、今日は一日引きこもり。陛下も夜更けには戻ってくると思うけどね」
聖国まではそれなりに距離があるはずだから、どこか別の場所で秘密裏に会談をしているのだろう。そう見当を付けた道化師だったが、置いてけぼりにされたことへの拭いがたい不満が胸の内に残る。
それに――。
「陛下の守りは万全なんだろうな? あの方は身体も強くないってのに……」
「義父さんが一緒だし変装もしてるんだから、一日くらいなら大丈夫よ」
「そうは言うけどな……聖国でいったいなんの交渉をするってんだ」
「それは内緒。……お互いの仕事は詮索しないって約束でしょ?」
肝心なところで煙に巻かれ、苛立ちが舌の先から漏れる。
「……俺は、何も聞かされてなかった」
「拗ねないでよ。あたし達も詳細は知らされてないんだから。それに陛下の傍にはいつも貴方がいるんでしょ? 貴方までいなくなったら怪しまれちゃうじゃない」
歌姫は悪戯めいた笑みを浮かべながら、意味深にこちらを見上げた。
「……彼の言ってた通りね」
「彼?」
「酒場で頑張ってるあの子よ。言ってたわ。『あいつは女王陛下にすっかり夢中みたいだ』って」
「……そんなんじゃねぇよ。ありもしねぇことよく喋る奴だったろうが」
「……嘘でしょ? 自覚ないの? あんなに穏やかな寝顔してたんだもの、すっかり気を許してるんでしょ?」
――寝顔まで拝まれていたとは。
気恥ずかしさから睨むように見返せば、またクスクスと笑い声が返ってくる。からかうのが楽しくてたまらないといった様子だ。
確かに女王と顔立ちは似ているのかもしれない。けれども、あの方はこんなに表情豊かではない。そもそも笑いもしないのだから、やはり違うのだと痛感させられる。
「今日は政務も公務もないって聞いてたから、女王陛下は部屋で道化師と戯れてる、って設定になってるの。よろしくね」
「何がよろしく、だ。バレたらお前だってただじゃ済まないんだぞ」
「『奴らは私に興味がないから、大人しくしていれば大丈夫だろう』って、陛下も言ってたし。なにかあったら、貴方が守ってくれるんでしょ?」
その、なにかが起きてしまってからでは遅いのだ。
ここがどれほど毒に満ちた場所か分かっていないのだろうか。物見雄山とも取れる言葉に道化師は重たく息を吐きながら、しぶしぶ支度に取りかかった。
部屋の隅で手早く着替えと化粧を済ませ、小卓の上に置かれた水を一気に煽り、鳥籠の鳩にも餌を与える。……水入れの中身が新しくなっている。もしかすると、陛下が替えてくれたのだろうか。
わざわざ手ずから世話を焼くとは、よほどこの鳥が気に入ったのか。頭をそっと撫でてやると、容赦なく嘴で突かれた。
「いてっ……こいつは本当に……!」
思わず零したその声をかき消すように、控えめなノック音が二度、扉の向こうから響いた。途端に部屋に緊張が走る。まだ寝台にいた歌姫と目配せを交わし、道化師は扉に向き直って声をかけた。
「陛下はお休み中でございます。何かご用でしょうか?」
「あ……。申し訳ありません。急ぎの用があると、議長様がお呼びでございます」
「それは困りましたね。陛下はあまり体調が優れぬ様子なのです。できれば明日までお待ちいただけないでしょうか」
「すぐに終わるとのことで……。ほんの少しだけ、お時間を頂けませんか」
声音からして、普段は洗濯場にいる年若い女中だろう。すっかり困り果てた様子が扉越しにも伝わってくる。
「……あたし、いけるよ?」
「……本当に大丈夫か?」
寝台から降りた歌姫が長衣を羽織り、「んんっ」と小さく喉を鳴らす。目を細め、顎を少し上げたその仕草は、女王の横顔と寸分違わぬものだった。
「仕方ないな。だが、体調が優れぬゆえ顔を合わせるのは控えたい。帳越しでなら構わぬと、そう伝えよ」
「は、はいっ! すぐにご準備いたします!」
――凛としたその声は、まさしく女王のそれ。
やるじゃねぇかと無言で頷けば、歌姫は得意げに満面の笑みを浮かべてみせた。




