13 この部屋でだけは
普段よりも重たい足取りで王城に戻った道化師は、いつものように女王の居室を目指していた。
すれ違う者たちの視線は相も変わらず冷ややかで、ときには露骨な侮蔑の言葉すら飛んでくる。
だが、そんなものはもはや聞き慣れた雑音だ。道化師はいつものように軽く受け流していたが――角を曲がろうとしたその瞬間、思わず足が止まる。廊下の向こうから、男の声がふたつ漏れ聞こえてきたからだ。
「まったく……あのような得体の知れぬ男を遇するとは、陛下は何を考えているのやら……」
低く、不満を滲ませた声。道化師は物陰へ身を寄せ、そっと耳を澄ます。考えるまでもない。「得体の知れぬ男」とは、この自分のことだろう。
声の主は、議長と呼ばれる貴族院の長。
相手は夜会でそつなく立ち回る、太鼓持ちの若手貴族。
そう、この貴族院という連中は、年齢を問わず上から下まで腐っているらしい。……清廉なものほど直ぐに消されたそうだから、分かりきった話かもしれないが。
「ただのお遊びでしょう。それよりも――今度は近衛騎士団の連中が副団長の子息をあてがおうとしているとか」
「ほう、そうなると貴族院に余計な横槍が入ることになるな。……フッ、近衛騎士団がそんなことを企むとは、愚直であった前団長も浮かばれまい。その子息にご退場願うか。悩ましいところだ」
「恐れ多くも副議長殿も王配の立場を諦めていないご様子だ。堤防の件で袂を分かった以上は難しいでしょうに。……あの堤防も、もはや無用の長物となりましたね」
「あれも愚策の象徴だ。しばらくは残しておくさ。それに、また壊すとなればどれほどの金が動くか――考えるだけで愉快だな」
下卑た笑い声が、静まり返った廊下にいやらしく響き渡る。
二人の姿が奥へ消えていくまで、道化師はただ無言でそこに佇んでいた。
「…………」
気付けば、拳を強く握りしめていた。これまで抱いたことのない、奇妙な感情が腹の底からじわじわと込み上げてくる。
――怒りか。それとも、もっと別の何か。言葉にできないその感情は、ただただ、胸糞悪いという一言に集約される。
深く息を吐き、道化師はそれを飲み込んだ。
己の役目を全うすべきだ。そう自分に言い聞かせてから強張った頬を緩め、彼は再び足を踏み出した。
すっかり顔馴染みとなった扉を守る近衛兵が、「よう」と片手を上げる。
道化師はいつもの調子で、恭しく頭を垂れた。
「今日もお勤め、ご苦労様でございます!」
「いい、いい。お前にそんなこと言われると、馬鹿にされてるとしか思えないんだよ」
「滅相もない。これは真心からの賛辞ですよ。……で、陛下は今日もご機嫌麗しく?」
からかうようなやり取りにも、近衛兵は苦笑しつつ目を伏せる。
その仕草だけで、十分だった。
「さっき、暴れてる音がしたが……ま、お前も大変だな」
この近衛兵は長く務めているらしい。個人的な立場で言えば、比較的女王寄りと言えるか。
彼の話によれば、扉越しに漏れる音は、そのまま女王の心模様だという。
貴族院で冷たくあしらわれた日には、怒りをぶつけるような足音。
民衆の嘆願に心を痛めた夜には、ものが壊れる音。
――最近は、重い沈黙だけだったんだがな、と。
道化師は静かに頷き、そっと扉をノックする。
与えられた鍵を慎重に差し込み、音を立てぬよう回した。
近衛兵の視線を遮るようにすぐさま扉を閉じると、目に飛び込んできた光景に、思わず小さく息を呑んだ。
部屋の奥。
裂けた真白な枕を握りしめ、女王は足を折り曲げて床に座り込んでいた。
舞い上がった羽毛が宙を漂い、異様な静けさの中に、ただ彼女の姿だけがぽつりとあった。
「――これはこれは。天使が舞い降りたのかと拝みそうでしたよ。……それとも鳥の解体でも? まさか、わたくしの相棒ではないでしょうね」
いつもの調子で、大仰に、滑稽に。
その軽口に、虚ろだった女王の瞳がわずかに揺れる。
酷い顔だった。
乱れた髪、頬に残る涙の跡。
顎をわずかに上げてはいるが、そこにいつもの威厳はない。
「……お前の鳥なら、そこにいる」
「ああ、それは良かった!」
わざとらしく安堵の息をつき鳥籠へ歩を進めると、中では白鳩が羽を休め、すっかりくつろいでいる。
その傍らには、朝にはなかった林檎の欠片が一つ。
ちらりと女王を見やれば、彼女は少しバツが悪そうに、唇を尖らせた。
……どうしたことだろう。
普段は見せない幼い表情に、道化師の心臓が小さく跳ねた気がした。
「昼餉の余りをくれてやっただけだ。……まずかったか?」
「とんでもない。大好物にございますとも」
そう言って、二股帽子をひょいと持ち上げる。
帽子の中から転がり出たのは小ぶりな酒瓶。器用に片手で受け止めると、にっこりと笑いかけた。
「良いものが手に入りましてね。信頼できる友人から贈られた蒸留酒です。陛下も一杯、いかがでしょう?」
脇のテーブルには、ほとんど使われた形跡のない銀の杯がいくつも並んでいる。そのひとつに蒸留酒を注ぎ、ためらうことなく自ら口をつけた。
女王は、呆れたように、それでもどこか安心したように息を吐いた。
「……毒見などしなくていい。今は、私を殺そうとする者などいないはずだ」
「おやおや。陛下、わたくしのことをお忘れでは?」
「それならそれで別に私は構わん。もっとも、最後の舞台が処刑台では、道化とて笑えまい」
杯を受け取った女王は、一口だけ確かめるように含み、続けざまに喉を鳴らして飲み干した。
……これまでに散々盛られてきたのだろう。その動作はひどく自然でありながら、隠し切れない警戒が所作の端々に滲んでいるようだった。
「運動がてら、久方ぶりに城下を歩いてきたんですよ。……この城の食事は美味しすぎましてね、わたくし、二段腹になりそうでして」
ほらこのとおり、と冗談めかして自らの腹を叩く。
だが女王の関心は、道化師の腹回りよりも城下の様子のほうにあるらしい。足を組んで座り直し、無言で続きを促がした。道化師も応じるように身を乗り出し、声を潜める。
「……地方の蝗害は深刻でございますが、陛下が気を配られていた聖国の支援もあり、城下においては飢えは凌げているようです」
「……そうか。それなら良い。市井の声など私の耳には一つも聞こえては来ぬからな。……お前も、使えるではないか」
「諜報役、というわけですか。……この格好で?」
道化師は身振りを大きくし、二又帽子をぴょこんと揺らしてみせた。
「ですが、ご所望とあらば何でもいたしましょう。……さすがに、諜報ともなればもう少しまともな恰好はさせていただきたいところですが」
「それはならぬ」
ぴしゃりと断言され、道化師は思わず目を瞬かせる。
「お前はそのふざけた格好のままでいることだ。この部屋の中だけ、好きにすることを許す」
その言葉は、道化師の素顔を他者に見せることを拒むかのようで――。
なにやら、このさき道化師に与えられる役割を既に見据えているようにも思えた。
「……この酒、悪くないな。……どこの国のものだ?」
「巡り巡って、どこだったか。――なにぶん、わたくし記憶力は鳥並みなもので」
「そうか。……随分と、いろいろな国を渡っているのだな。どうだ、この国は。お前の目にはどう映る?」
どこか力ない声音だった。矜持だけは捨てずにいた女王が、今夜ばかりはほんの少しだけ弱さを覗かせている。
何があったのか。聞いたらきっと彼女は口を閉ざし、灯りを落としてしまうことだろう。
だから道化師は努めて明るく、そして軽やかに答えた。
「そうですねぇ……。蒼河の美しさは言葉を失うほどで、あの堤防の偉容にはただただ圧倒されるばかりです。水辺が苦手なわたくしには、実にありがたい代物で」
「……おべんちゃらは結構だ。あれが民に疎まれていることくらい、私にも分かっている」
「それでもいずれ気付くことでしょう。あれがどれほど必要だったかを。……うっかり壊してその身が流されてからにでも、ようやく、ね!」
とびきり朗らかに冗談めかして言えば、女王は小さく、だが確かに口元を綻ばせた。
「……そうだな。きっと、そうに違いない」
その呟きは、酒瓶の中の透明な液体と共に、静かに夜へと溶けていく。
頬はうっすらと紅を差し、わずかにうるんだ黒い瞳。酔いのせいだろうか。普段とは違う、柔らかな色香が漂っているように思えてしまう。
道化師の戸惑いに気づいているのか、いないのか――。女王は、黙々と杯を重ねていく。夜会では見たこともない奔放な姿に、言葉を失うほどだった。
「陛下。……そろそろ、お止めになっては?」
「たまにはいいだろう。……それともなんだ、私は酒も飲んではいけないのか?」
「滅相もございません。ただ心配しているだけでございます。……飲み過ぎれば、お身体に障りますので」
「酒に溺れて死ぬ人生か。それも案外、悪くないかもしれんな」
「……陛下」
「冗談だ」
いつ死んでも構わないと――そう言っているような口ぶりに、道化師は思わず眉をひそめてしまう。
だが女王は、何も語らず。ただまたひと口、杯を傾ける。
やがて、何を語るでもない沈黙が、二人のあいだに降りる。
気まずさはない。むしろ不思議と居心地の悪くない時間が、静かに流れていた。




