11 陽の下を歩く日が来るならば
今日もまた、女王陛下のご機嫌は麗しくない。
それも無理からぬことだろう。都市部には被害が及んでいないとはいえ、郊外では前代未聞の蝗害によって国内は深刻な食糧不足に見舞われ、まさに危機的状況にあるというのだから。
だというのに、貴族の皆々様は下界のことなどどこ吹く風とばかりに、贅沢な宴に酔いしれている。
「おい、道化師。余興の一つでも披露してみせろ」
名も知らぬ貴族が軽く顎をしゃくって命じてくる。道化師は、頭の二又帽子を揺らしながらにたりと笑った。
脂に溶かした胡粉に、乾燥させて粉状にした紅花。
それらを使って笑顔でいるための仮面を今日も丹念に塗り上げたばかりだ。
「ご覧あれ! 本日のお客人、賢き御犬様のご登場だ!」
興味半分、侮蔑半分の視線が集中する中、道化師は大げさな身振りで四つん這いになった。
舌をだらりと垂らし、床を這い回りながら、金銀の飾りがついた貴婦人の裾を鼻でくんくんと嗅ぎまわる。
そして突如、尻尾のない尻を振りながら、その場でくるくると回ってみせた。
「賢いねぇ、いい子だねぇ!」
お貴族様の子どもが囃し立てるように手を叩き、場に笑いが広がる。
二又帽子を耳に見立ててぴんと立てるふりをすると、道化師は舌を垂らしたまま、ぺたんと座り、右手をちょこんと差し出した。
「お手、でございます!」
どっと笑いが起きた。
床に這いつくばり、犬畜生の真似事に興じるなんとも滑稽な姿。彼らが己の優越を再確認するためだけの、底の浅い笑いだった。
嘲笑に満ちる中。宴の主である女王陛下だけが、冷ややかな眼差しで道化師を見下ろしていた。
肘をつき、ただ静かに。――彼女の周囲だけが世界から切り取られたように。
彼女のために雇われたはずなのに。
今日もまた、道化師はその冷えた瞳の奥から、なにひとつ引き出すことはできなかった。
「久しぶりだな。元気にやっているか?」
客が来ていると呼び出され、女中に案内された一室。そこで待っていたのは、懐かしき座長の姿だった。
「なんだ、あんたか。俺のことなんかすっかり忘れて、どっか行っちまったのかと思ったぜ」
顔を見た途端、自然と口調が崩れる。ここしばらくは宮中に閉じ込められたような生活ばかりで、もう外の空気すら遠いものに思えていた。そんな中で懐かしい顔を目にしたのだから、気が軽くなるのも当然だろう。
「ハッ、その様子じゃ、元気そうだな」
「おかげさまで、な。……あんたの方は少し疲れて見えるが?」
「聖国と何往復もしてるからな。馬車の旅なんて、続けばさすがに飽きもくる」
「聖国に? ……あいつも一緒なんだろう? あんな所に何の用があるんだ?」
確か――この国と繋がりのある国だと、聞いた覚えがある。
民から搾り取られた税が、その聖国に流れているという噂もあったはずだ。
「ま、いろいろと交渉があってな。向こうも向こうで厄介な連中さ。それより、お前の方はどうなんだ。陛下とは、その――」
「くすりとも笑わない相手と毎晩よろしくやってるよ。心を折らずに励んでいる俺を、もっと褒めてくれてもいいんじゃないか?」
肩を竦めてぼやいてみせると、座長は小さく苦笑した。
「悪いな。もう少しだ。仕込みはほとんど終わっている。後は……時を見て、だな」
「時、ねぇ……。何を企んでるかは知らないが、命の保証くらいはあるんだろうな?」
「正直に言おう。お前はお前の力量次第だ。ただ、今こうして生きているということは、十分に上手くやっている証拠だろう?」
「まぁ、なぁ……」
他国では、王族を虚仮にしすぎた道化師が命を落とした話もきく。
もしくは、機密を聞きすぎたせいで「知りすぎた」として消された者も――。
彼らの二の舞とならないよう、曲芸師でもないのに綱渡りをさせられているような気分だった。
だから、宮廷道化師になどなりたくはなかったのに。
今さらそんな愚痴をこぼしたところで仕方ない。引き受けた以上、最後までやり遂げるのが筋というものだ。
何よりも――あの人を、俺はまだ笑わせていない。
「で? その"時"とやらが来たら、俺は解放されるのか?」
「そういうこった。その後もやるべきことは山ほど残るが……この腐った国からは、おさらばできるはずだ」
座長の声が低くなり、目が細められる。いつも飄々としている男にしては珍しい仕草だった。
道化師は「へぇ」と小さく呟きながらも、違和感を覚える。
「その時が来るまで俺はどうすればいい。氷のような陛下の心を癒すだなんて、難題もいいところなんだが?」
「今は女王の部屋に通っているんだろう? それでいい。お前は女王のお気に入りだと思わせておけ。そうすれば、しばらくは手出しを躊躇うはずだ」
「……陛下の命が狙われてるのか?」
「違う。命そのものは、民衆の不満を逸らすためにも必要とされている。だが、喪が明けても夜のお相手がいないとなれば、すぐさま次を当てがいたがる連中がいるんだよ。……そんなことになれば、また彼女に辛い思いをさせることになる」
座長の声音は、女王を思いやるように静かで優しいもの。道化師の胸中でくすぶっていた疑念が、確信へと変わる。
「……あんた。陛下とはどんな関係なんだ。金目当てでこの国に来たわけじゃないな」
「ふっ、やはり気付くか。詩人の坊主なんかは、酒場で呑気に歌っているだけなんだがな」
冗談めかしたその顔が一転する。
わずかな沈黙の後、座長の目は鋭さを増し、低く告げた。
「……人払いは頼んであるが、どこに耳が潜んでいるか分からない。だからこの場ですべては語れないが――俺は女王の親父さん……前王の古い友人だ。娘を頼むとは言われていたものの何もできずにいたんだが……たった一人で孤独に戦ってきた娘が、ようやく助けを求めてくれたんだ。それを見過ごせるわけがない」
「助けを求めるって……あの御方が? あんたに?」
「そうだ。あの侍女経由で連絡を貰ったんだ。だから、ここに来たってわけだ」
金で動くだけだと思っていた男が、瞳に静かな怒りを宿している。
とはいえ、あの女王が誰かに助けを求めることなんてあるのだろうか?
それに――。
「助けるったって……一体どうするつもりなんだ? 他にアテになる奴はいるのか?」
「……悪いが、それはお前にも言えない。ただ、彼女の望みを叶えてやりたいとは思っている。……近衛騎士団の連中もかつては王族派だったはずなんだがな。今じゃすっかり貴族院の犬に成り下がっちまったようだ」
「そうなのか? 王族派なんて、本当にいたのか?」
「ああ。俺がここに通っていた頃は、確かにいた。王族と貴族――その天秤は、かろうじて均衡を保っていたんだ。……何があったのかは知らねぇが、今のあいつらは王を守るつもりなんざ微塵もねぇ。胸糞悪いったらありゃしねぇよ」
兵士たちは城内の各所に配備されている。女王の私室の前にも男が控えている。
だが、誰一人として手を差し伸べようとはしない。ただ命じられた場所に立ち尽くし、見張っているだけだ。
護衛がいるのなら本来ならば外にも出られるはずだろうに、『近衛』という肩書きは、今や名ばかりのもの。貴族院の息がかかった者たちとあっては、女王にとっても、そう簡単に頼れる存在ではないということか。
道化師が考えを巡らせるも、座長は多くを語らなかった。
ただ「あの御方を頼む」とだけ言い残し、城を後にした。やるべきことがまだあるのだと言って。
――やはり、あの女王が人を頼る姿なんて想像もできない。
だが、座長は確かに請われだろう。だからこの腐りきった国に足を運び、一座を動かしているのだ。
そうはいっても、いったい何をするつもりなのだろうか。
貴族たちを糾弾するのか。それとも、力ずくで排除するのか。
仮にそれが成し遂げられたとして、果たして民衆は女王を受け入れるのだろうか。
『これまでは悪い貴族の言いなりでしたが、これからは仲良くやっていきましょう』
そんな絵本の中にだけあるような幸せな結末が待っているとは、とても思えない。
夢物語に付き合う趣味はない。
……けれど、もしも。
もしも陽の下を歩くあの人の姿を拝めるというのであれば――それは、見てみたい。
そんな日が本当に来るのであれば、見届けねばならないだろう。
今や自分は、女王に仕える宮廷道化師なのだから。




