10 毒の玉座
認められたのか、なんらかの思惑があってのことなのか。道化師はいつしか、女王の傍らに控える役目を与えられていた。
玉座では彼女の隣に立ち、夜会にも必ず顔を出す。そして夜が更ければ、私室へと連れ立って戻る。
――このような状況であれば、『女王の男妾』などと呼ばれるようになるまでに、そう時間は掛からなかった。
「陛下、あのような下賎の者に御身を預けるなど、どうかお控えくださいませ」
「まことに。どこの馬の骨とも分からぬ無頼の輩ではなく、由緒正しき家門より新たなお方を迎えるべきかと存じます。なにぶん、先の王配殿が姿を隠されて久しゅうございますので」
こんな時ばかりは囲むように控える貴族たちの諫言は、一見すれば忠義に満ちている。
だが、互いに牽制し、己の利権と地位を賭けた化かし合いの場にすぎなかった。
彼らの言う王配――つまり、女王の夫であった男は、その口ぶりから察するに既にこの世にいないのだろう。
加えて子がいる様子もない。彼らが後継問題に躍起になるのも当然である。
だが、女王はそうした声に眉ひとつ動かすことなく、鼻を鳴らした。
「なぜ殺されるために産み落とさねばならぬ? どうしても必要なら、適当なところから養子でも拾えばよかろう」
「……とは仰いますが、もはや王族は貴女様くらいなものでして」
「調子に乗って殺しすぎるからそうなるのだよ。貴公らが招いた結果ではないか」
皮肉混じりの嘲り。それは、室内にひどく虚ろな響きをもたらした。
「……お戯れを。たしかに不幸な事故が重なりましたが、我らは国の未来を案じて申し上げているのです。王なくしては、国は成り立ちません」
「戯言だな。この国は、王など必要としていない。……もっとも、今はそんなことはどうでもよい。しばらくは腹も休めねば産めるものも産めぬゆえな。その間、私がなにで遊ぼうが勝手であろう?」
そう口にするや、彼女はおもむろに手を差し出した。その意図を察した道化師は恭しく手を取って唇を寄せる。
わざと下品に唇を鳴らしてみせると、貴族たちの顔には、堪えきれぬ侮蔑の色が浮かんだ。
「……それよりも、だ。貴公らが相手にもしなかった蝗害の被害が広がっていると聞くが、対策は進めているのか?」
「その件は、これより我らが議論を重ね然るべき策を講じます。――それより、陛下もお疲れでしょう。今宵もどうぞ、道化とともにお寛ぎくださいませ」
その言葉を受け、女王はただ「そうか」とだけ告げると、興味を失ったように席を立った。
足早に退出する彼女の背に、「陛下ぁ〜!」と慌てて追う道化師の声が響く。その残された場には、隠そうともしない嘲笑の波が広がっていた。
政治を論ずる会議の場からはただの客人のように追い立てられ。
華やかな夜会では、飾り立てられた主賓席に座らされるばかりで誰からも顧みられない。
城の外へ出ることすら「御身に危険が及びますから」とそれらしい言葉で制され、外交の舞台でも声を上げることなく帳の陰に控え続ける。
――これでいて一国の王だというのだから、なんとおかしな話なのだろう。
女王が居室に閉じこもってしまったので、鈴を軽やかに鳴らしながら道化師が目指したのは厨房だった。
「……なんだ、また来たのか。お前も呑気なもんだな」
迎えてくれたのは、休憩中の他の者たちの代わりに、たった一人で鍋をかき回している料理人の男だった。
世間話の体で始めたこの交流も、今や道化師にとって貴重な情報源のひとつである。
「陛下は今日もご機嫌斜めでしてね。……おや、これはまた美味そうな漬物ですこと」
目ざとく見つけた皿に手を伸ばした途端、「誰がお前なんざにくれてやるか」と布巾が飛んできた。
だが、そこにはどこか楽しげな色も交じっている。貴重な情報源となるのは相手にとっても同じこと。貴き方を巡る噂話や醜聞は、彼らにとっても格好の酒肴であった。
「それで、今日は何が聞きたいんだ?」
「陛下の下半身事情について……ですかね?」
あえて下卑た物言いで笑いを誘うと、料理番もにやりと口元を緩めた。鍋の火を止め、椅子を引き寄せると、腰を下ろした彼は身を乗り出してくる。
――半年前に亡くなったという王配。
かつては有力貴族の嫡男であった彼も、わずか一年足らずで血を吐いて命を落としたという。
その衝撃は女王の胎内に宿っていた子さえも巻き込み、王家の血はまた絶たれることとなった。
「……大きな声じゃ言えないが、どうせまた毒でも盛られたんだろうよ。あの方が即位してから、もう五人目だって話だからな」
「はてさて、それでは自らの首を絞めているようなものでは?」
そうおどけてみせる道化師に、男は再び厭らしく笑う。そして今度はどこか得意げな様子で、過去の王配や候補者たちの末路を語り始めた。
「あいつらは自分の利権を守ることしか考えてねぇからな。それでも前王の時代はまだマシだったんだが……あの御方も毒でやられちまったんだ」
「なんと恐ろしい……。それで、この城では銀食器が多いわけですね?」
芝居がかった道化師の相槌に、料理人は「そういうこった」と肩を竦める。
「アンタは余所者だし、今はまだ女王の戯れだと思って見過ごされてるんだろうが……命が惜しけりゃ余計な欲はかかないことだな」
それが善意からの助言なのか、あるいは脅して愉しんでいるだけなのかは分からない。
彼は立ち上がり、香辛料を鍋に振りかけると、鼻歌交じりにぐるぐると混ぜ続けた。
「毒見がいらっしゃいましょうに、すり抜けるものなんですねぇ」
「やりようはいくらでもあるからな。あんたも見てんだろ? 女王の顔色。積もり積もった毒で、もうふらふらじゃねぇか。感覚も相当鈍ってるらしいぜ。前に肉が見えるほどの怪我をしたのに、血を垂れ流したまま全く気付いてなかったって聞いたぜ」
「ああ……」
思わず、道化師は低く呻いた。
寝台に横たわる女王の顔色はいつも青ざめていた。発作を起こし、療養室に担ぎ込まれたあの日のことも記憶に新しい。
それに、いつだったかの夜。火傷を負うほどの熱に触れても、彼女は痛みに動じなかったことを思い出す。
もしやとは思っていたが、やはり――。
だが、王を相手にそんな愚かな真似がまかり通るものなのだろうか?
「殺さない程度に仕込まれてんだろ。抗う気力を奪うためにな。動かないお人形さんでいて欲しいのさ」
「……そんなことをして、何かあったらどうするつもりなのでしょう。王なくして国は成り立たないでしょうに」
真顔で問い返すと、料理人は軽薄な笑みを浮かべた。
「政なんざ貴族院が牛耳ってるだろうが。あいつらにとっちゃ、次の傀儡が産まれりゃそれでいいんだよ。……女王が何歳で即位したのか、知らねぇのか? 九歳だぞ、九歳」
事情通を気取る料理人は、吸い物を味見して、満足げに頷いた。
「こんなに美味いのによ……。あの方は毒の味しか知らねぇんだ。哀れなことだが――関わらないこと。それがこの宮中で生きていくコツだよ、道化師さん」
宮中では貴族たちに弄ばれ、城外では民衆に罵倒される。
幼少より命を握られ、望まずともこの座に据えられたのなら――。
人形のように無表情に、ただ息をして生きているのも無理からぬことなのかもしれない。
道化師はふと、料理人の目を盗み、テーブルに残された漬物をひとつ摘み上げた。
ぽりり、と音を立ててかじる。塩気のきいたその味は、流されそうになる思考を呼び覚ますようだった。
――果たして、女王は道化である自分に何を求めているのだろうか。
噛み締めるごとに増す塩辛さの向こうで、道化師の胸中に重く沈む疑問はなお晴れることない。
むしろ、じわじわと膨らんでいくばかりだった。




