09 笑わせたかったはずなのに
あの議会場での、貴族院どもの振る舞い。
第三者である道化師が同席していたにもかかわらず、彼らはまるで「女王などお飾りだ」と言わんばかりに、あからさまに排除してみせた。
その様子を目の当たりにした道化師は、自分に密命を与えた侍女の言葉を思い出していた。
『陛下の心を癒し、慰める。それがあなたの役目です』
なるほど――あのような環境に身を置いては心が荒みきっても不思議ではない。
実際、女王はあの会合以降、蝗害については一切言及しなくなった。何を言っても響かぬと見て、完全に諦めてしまったのかもしれない。
ならば、自分は本業に精を出すべきであろう。
女王が寝台に身を横たえ、灯りを落とすそのひとときまで。
道化師は夜ごと芸を披露するようになった。
歌は、早々に却下された。
ならばと、動物の物真似、簡単な手品、小噺、そして得意とするひとり喜劇まで。持てる芸のすべてを惜しみなく繰り出していった。
しかし――くすりとも笑わない。口元を綻ばせることすらなくただ黙ってこちらを見つめ、芸が終わった一拍後に「……終わりか?」と低く問いかけてくる姿にはがっくりと肩を落としてしまう。
とはいえ、まったく成果が無いわけでもない。
「……陛下は、笑いという概念を母御の胎内に置き忘れてこられたのでしょうか?」
「さあ、そうかもしれんな。私を産んですぐに命を落としたそうだから、確かめようもないがな」
「それは痛ましい。……もっとも、わたくしなど木の股から生まれたものでございまから、春ともなれば笑いの花が咲き誇るのですよ」
「なるほど。脳の代わりに花を詰めてきたのか。さぞかし賑やかな頭の中なのだろうな」
女王は冷ややかに言い放つが、その言葉の裏にあるものを道化師は見逃さなかった。――これは拒絶ではない。寧ろ、彼女にしては珍しいほど、よく応じてくれている。
たとえ声をあげて笑うことはなくとも。
ときには手品の種に視線を留め、かすかに目許を緩めることもある。
ならば、と道化師は気を引き締めた。
「陛下。本日は、ほんの僅かな奇跡をお目にかけたく存じます」
いつものように下らぬ夜会を終えて寝所へ戻った女王を、いつになく真剣な面持ちで出迎えた。馴染みのだほだぼの衣装を身につけたまま、二股帽子を手に取る。
「まずは、何の変哲もない、我が愛帽でございます!」
「……見ればわかる」
女王は疲れた様子で冷たく返したが、道化師は意にも介さず帽子を頭の上に戻し、次に袖から三色の手巾を取り出す。
赤、青、黄――指先で舞わせれば、絹は柔らかく宙を踊る。
その光景に、女王の瞳がほんの僅かに持ち上がる。彼女は、ふわりと揺れるそれを追うように見つめていた。なんとも素直な反応だ。
やがて手巾は、重力に引かれて地面に落ちゆく寸前で――道化師はそれを掴み取り、再び帽子の上で軽やかに翻した。
「では――奇跡の瞬間でございます」
満を持して帽子をひっくり返した瞬間。そこから、白い影が羽音とともに舞い上がる。
バサバサと音を立て室内を旋回するのは、一羽の鳩だった。
高い天井を弧を描いて飛び、静かに道化師の頭上へと舞い戻る。
「ご覧あれ。わたくしのこの頭から、希望の象徴が生まれ出ました!」
誇らしげに胸を張る道化師。女王の視線は、鳩へと向けられる。
――そして、ほんの少し、彼女の表情に揺らぎが走った。
だが、それもほんの束の間。女王はすぐにムッとしたように眉を寄せ、わずかに唇を尖らせた。
「……くだらない」
それは笑いではない。だが、女王が初めて見せた表情の変化の色。
道化師は手応えを覚えたと同時に、胸の奥の何かが確かにきしんだ。
ようやく女王が見せてくれた『無関心ではない』という反応に、ほんのわずかに――本当にわずかに、心がざわめいたのだ。
「……だが、どのような仕掛けだ。教えよ」
「商売道具でございますゆえ、そう易々と明かすわけにはまいりません」
「これは命令だ。口を割れ」
「命を懸けておりますので――内緒でございます」
人差し指を唇にあて、悪戯めいた笑みを浮かべる道化師。しかしその頭上では、先ほどの鳩が容赦なく嘴を突き立て始めていた。
……褒美の餌を用意し忘れた。
「いたっ、……いてぇっ! ちょっと待てって、明日には必ず用意してやるから!」
たまらず素の声を上げると――女王が瞳を瞬かせ、ふと、わずかに和らげた。
「お前の飼い鳥か。……何を好むのだ」
「木の実や果実が好物ですが、普段は粟で我慢させております。なにぶん、贅沢者でして」
「そうか。厨房で頼めば何かしら手に入るだろう。用立ててもらうといい」
その声音は、いつもの冷淡さとは微妙に異なっていた。道化師は「おや」と鋭く反応する。
「陛下は、鳥がお好きなのですか?」
「……別に好きではない。食うのは嫌いではないがな」
あくまで素っ気なく返しつつ、女王は視線を逸らす。
道化師も軽く頷くだけで、敢えて追及はしなかった。
「左様でございましたか。これはわたくしの大切な相棒でございます。ご用意いただいた部屋で世話をしておりましたが、今宵は特別にお披露目いたしました」
「……そうか。だが、街で放すことは考えぬほうがよい。腹を空かせた連中に喰われかねん」
その響きにはただの忠告ではない、どこか影を帯びた響きがあった。
――この国を取り巻く現実。春先に現れた飛蝗の目撃例は、日に日に増えていると聞く。
つまりは、昨年の大雨に続いて今年も不作になるということだ。不作どころか、雑草も干し草も、人の服さえも、根こそぎ食い荒らされるかもしれない。
あの様子では貴族どもが先手を打っているとも考えられない。当然、王城の食糧庫は堅牢に守られているのだろうが――そこから民衆の手に渡る分など、雀の涙にも満たないことだろう。
「……無知なるわたくしめに、ぜひとも教えていただきたく存じます。賢明なる女王陛下は、何故あのような者どもを野放しにされているのでしょうか?」
それは、ずっと胸の奥に燻り続けていた疑問だった。
日々、こうして少しずつ言葉を交わす中で、道化師は確信しつつあった。――この方は決して、噂に聞くような暗愚などではない、と。
それに、仮にも一国を背負う身である。
貴族院が幅を利かせていようとも、女王の命令は本来、絶対であるはずだった。
ならば、どうして。どうして彼女は、侮られてなお逆らおうとしないのか――。
……それは、まさに愚問だったのだろう。
夜の帳のように落ちた問いかけに、これまでにないほど穏やかな顔で鳩を眺めていた女王の表情が、一瞬にして強張った。
「……では問おう。国とは、誰のために在るものだと考える?」
「それは……民あっての国。民こそが礎でございましょう」
「――そうだ。民がいなければ国は成り立たぬ。だが、逆はない。王がいなくとも、国は存続する。民さえいれば、な」
あまりにも冷えた言葉に、道化師は思わず息を呑む。
それは、極論ではないだろうか。有象無象なる民をまとめ上げるもの――つまりは王がいなければ国としての体は成さないはずだ。だから、いくら軽んじられようとも貴族は彼女を手放さず、女王として国の頂点に君臨しているではないか。
「……分からぬか。無理もない。私にも分からぬのだから」
女王はそう呟き、目を伏せた。
それは、もはや己の宿命に抗うことすら諦めた者の顔だった。
命の灯を隠すように。
己という存在を薄めるように。
彼女は、静かに、あらゆる感情を手放しているかのようだった。
――触れられない。
目の前に確かにいるはずなのに。その存在はひどく曖昧で、まるで霧の中にいるように儚い。
考える間もなく、道化師の手が彼女の頬へと伸びかけた――が。
女王は、拒むように顔を背けた。
「……もう、よい。疲れた。その鳥は、今日からこの部屋で飼うがいい」
それだけを言い残し、女王は寝台へと身を横たえ、掛け物を頭まで引き寄せた。まるで、すべてを拒絶するように。
……どうやら、答えを間違えたらしい。
道化師は、宙に浮いた手をそっと引き、唇を噛む。
――笑わせねばならぬ相手に、あのような顔をさせてしまうとは。
己の無知と、無力さ。
その両方を噛み締めながら、道化師は鳥籠へと鳩を戻した。




