捌
デートに行きます。泊まりで。
「遠乗りに出かけましょう」
そう、イツキがにこやかに提案してきたのは、新しい年を迎えた霞染める月のことだった。
「遠、乗り……?」
「イツキ様、これからまだ雪も降る寒い季節ですよ? それにアオイ様に馬はまだ早いです」
「暖かくしていくに決まっているだろう。それにアオイひとりで馬に乗せるわけがない。俺の前に乗せて抱えていく」
イサクの苦言に真顔で反論して、イツキは言葉を封じ込めた。
遠乗りとは、馬に乗ってなにかすることらしい。二人の会話からそれだけを拾って、アオイは首を傾げる。
「遠乗りと言っても、そこまで遠くに行くわけじゃない。護衛もいらない。ユヅルは置いていく。イサクも残れ」
「それは……護衛が必要ないか、連れていけないところに行く、ということですか?」
「なにかあっても、俺は強いですよ?」
質問に答えず口元だけで笑うイツキに、イサクが深く溜息を吐いた。
「アオイ。俺と一緒に、過ごしてくれますか?」
「えっ、あ……は、はい!」
「じゃあ、領内の市場などを通って行きましょう。ふふっアオイとちょっとした小旅行ができて、俺は嬉しいな」
そう言って笑うイツキが本当に楽しそうで、アオイの胸もほんわりと温かくなった。
約束の日は、イツキの宣言から三日後のことだった。
年末も、年始も休みなく働いていたイツキが、雇い主に直談判して休みをもぎ取ってきたらしい。
コクウ家嫡男の雇い主――それはまぁ、皇太子なのだが。
新年はそれなりに行事が詰まっていたような気がするのだが、イツキは「全部が全部俺がいないとだめなわけじゃないから」と言って、もの凄い速さで引き継ぎ書を認めていた。
アオイは見ているだけしかできなかったのだが、護衛剣士であるはずのイツキの事務処理能力が異様に高いことはわかった。
「イツキさん、は……皇太子殿下の、護衛剣士、なんです、よね……?」
馬に揺られながら、アオイは慎重に言葉を発した。
馬の背は、想像よりも高かった。ゆっくりだけれど上下に揺られるせいで、口を開けば舌を噛みそうなのだ。
グラグラ揺れるアオイの体を、後ろから跨ったイツキが両腕で囲って安定させる。
大きめの外套ですっぽり覆われ、外の冷たい空気が遮断された。背中にあたるイツキの胸の感触に、さらに体がポカポカとする。
「そうだよ。まあ、皇太子なんて仕えるものではないですけどね」
肯定のあとに続いたのは、たぶん愚痴だ。そんなこと、余所の人間に聞かれたらおそらく目を剥くに違いない。
けれど、愚痴を言っているのがコクウ家の嫡男では、目を剥いたところでなにも言えやしない。言えるのはイサクとユヅル姉弟だけだろう。
「ふふ……アオイがあったかくて幸せだな」
外套の下で、ぎゅっと抱きしめられ、さらに体が密着する。もう、それだけでアオイの頭は茹だってしまいそうだ。
「あ、の……でも、刀剣術が、特に優れてないと、護衛剣士にはなれないって、聞きました……だから、イツキさんは、やっぱりすごい、です」
腕の中からポツポツと聞こえるアオイの言葉に、イツキは僅かに目を見開いて彼女のつむじを見下ろした。
まさか、そんなことを言われるとは思っていなかった。頬がじわじわと熱くなり、今すぐにでもアオイを抱きしめて部屋に閉じこもりたくなる。
そんな不穏なことを考えているとは思わないアオイが、急に黙ってしまったイツキを振り返る。
(な、なんか……嫌なこと、言っちゃったかな……?)
完全に振り返ってイツキの表情を見る前に、肩口にイツキの顔が埋まった。
さらりと頬に触れる黒髪が擽ったい。なんだかいい匂いが鼻を掠めていく。爽やかな、香り。どうしてか、ドクリと心臓が大きな音を立てる。
「ぁ、あの……! い、イツキ、さん……?」
「…………ありがとう、アオイ」
耳に触れたその低い声に、アオイにはわからないなにかの想いが乗せられている気がする。
ありがとうの意味は理解できなかった。けれど、後ろから抱きこむイツキの腕がかすかに震えていたから、アオイはただ静かにその腕の中に収まっていた。
屋敷を出てから、ずっと森の中をゆっくり歩いていたが、アオイが馬に慣れてきた頃を見計らい、イツキは少しだけ速度を上げた。
常歩以下だったのが速歩以下になっただけだが、ヒュウッと頬に当たる風にアオイは固く目を閉じる。腕の中でアオイが縮こまったのを感じたイツキが、大丈夫だよとでも言うようにポンポンと手を動かす。
「ほら、アオイ……目を開けてみて」
「ぅぁ、で、でも……」
「大丈夫。俺はあなたを絶対に落としたりしないから。……ね、信じて、アオイ」
柔らかな声を耳に吹き込まれ、アオイは思い切って目を開けた。パッカパッカと聞こえる足音と一緒に、外の風景も普段より早く通り過ぎていく。顔を上げて、空を見た。冬の澄んだ青空が、視界いっぱいに広がった。
「ぅ、わぁ……」
「今日は、晴れて気持ちがいいよね。雪はめったに降らないけど、天気が崩れなくてよかったです」
振り向いて、自分を見下ろすイツキと視線を合わせ、アオイは高揚した気分でにこりと笑う。
その瞬間、イツキの顔が驚くほど真っ赤に染まった。
手綱を握る手が震え、馬の脚が乱れる。
困惑したような様子の馬が、迷惑そうに鼻を鳴らし、そのまま何事もなく歩を進め始めた。
「あ、あの……イツキさん……? あの、どうしたんですか? イツキさん?」
いまやすっかり両手で顔を覆ってしまったイツキに、アオイがワタワタと手を振った。
当然、馬の上でそんなことをすれば、慣れていないアオイの体はグラリと傾いてしまう。
両手で顔を覆っているということは、イツキの手は手綱からもアオイからも離れているということで――。
「きゃ……っ」
「おっと」
鞍から投げ出されそうになったアオイの体を、イツキの腕が既のところで抱き留める。
ごめんねと謝るイツキに、アオイもごめんなさいと返したら、会話が途切れてしまった。
手綱を握り直したイツキが、片腕でアオイを抱きしめながら、速歩以下で馬を走らせる。
しばらくすると、賑やかな声が響いてきた。
向かう先で森が開け、いくつもの簡易な建物が見えてくる。幌布の屋根だけのところも見える。
市場だ。
アオイも、小さな頃に親元にいたときは見たことがあった。貧しすぎてものを買ったことはないけれど、いろいろなものが売り買いされていてとてもワクワクした記憶はある。あのときの市場はすごくキラキラして見えた。
森の途切れる手前で、イツキは馬の走りを止めた。
「少しだけ、見ていこう」
そう言ってひらりと下馬すると、アオイの腰を掴んでそっと降ろしてくれる。
「あ、ありがとう、ございま……わ、わ、ぁ、あれ……?」
足に、力が入らなかった。
地面に足を付けた瞬間、ふわふわとして感覚がわからなくなった。
体を支えられず前に倒れたアオイは、そのままイツキの胸へと倒れ込んでしまう。
ぽすっとぶつかったアオイを、イツキの両腕がしっかりと抱き締めた。
ゆっくりと背を擦られ、ふわふわした感覚が徐々に落ち着いてくる。そのあまりにも心地の好い温もりに、アオイは思わず全ての体重をイツキへと預けた。
「落ち着いた?」
「あ、は、はい……っ、あの、イツキさん、ごめんなさい……!」
ぼんやりとしていた意識を引き戻され、アオイは慌てて顔を上げた。
謝罪を口にする彼女に、イツキの唇が拗ねたように尖る。
「こーら。謝っちゃだめ。今からアオイは、絶対に謝っちゃダーメ」
ちょん、と鼻の頭にイツキの指が当てられる。
不満そうにしながら言われた言葉を、必死になって考えて、アオイはそんなぁと小さな悲鳴を上げた。
「アオイが謝るたびに、オシオキしようかな」
「ぇ、へ!? お、お仕置き……ですか?」
「うん、オシオキ。こうして、アオイの可愛いお鼻をツンツンしちゃいます」
再びちょん、と鼻の頭を押され、アオイは両手で鼻を覆った。ズザッと常よりも早い動きでイツキから離れる。抱きしめられていた腕から抜け出して少し残念に思った自分を、首を振って追い払う。
「ふっ、ふふ……はははっ」
その様子を見ていたイツキが、珍しく声を上げて笑った。アオイも初めて見るような、無邪気な笑顔だ。
「さ、行こう」
「は、はい……」
涙がにじむほどに笑ったイツキが、手を差し出してくる。そこにおずおずと手を乗せると、よくできましたと、褒めるようにイツキがアオイに向かって微笑んだ。
先程までの無邪気な笑みとは違う、慈しむような笑み。服の上から胸を掴み、アオイは下を向く。
きゅうきゅうと絞られるように、何故かそこが疼いていた。
左手にアオイ。右手に馬の手綱を握りながら、イツキは市場へと足を踏み入れる。
コクウの領内でなにかあるとは思えないけれど、万が一なにかあった場合は馬の手綱を離して剣を取るそうだ。左手のアオイはそのままに。
そんな話をしつつ市場を端から案内されながら、アオイは感心してしまった。
さすがはコクウの領内。
(イツキさんが進むたびに、前にいる人たちが消えていく……)
実際に消えているわけではないが。
賑やかさはそのままに、イツキの姿を見た人々が自然にイツキへと道を譲る。だから、イツキの前には人がいない。
噂で聞いた『コクウ家が歩くと人々が道を譲る』というのは、間違いではなかった。
とても歩きやすいけれど、避けられているようで少しだけ寂しくも感じてしまう。
そんなことを考えながらイツキと市場を巡っていると、だんだん良い香りが漂ってくる。
入ってきたときは装飾品や日用品などの店が立ち並んでいたが、進むにつれて食べ物を売る店が多くなっていく。
穀類や乾物といった常備品から、果物や野菜や肉といった生物に変わり、最後はその場で食べられる屋台になる。
肉を串に刺してジュウジュウ焼いている店があり、いい匂いはそこから漂っていた。
「おいしそうな匂い……」
周囲の喧騒に紛れそうなアオイの呟きを、イツキは逃さない。
人の波に煩わされることなく、屋台へと向かえば、並んでいる人たちが一斉に列を空けた。
「アオイ、ちょっと買っていこうか」
「え……で、でも……」
「気にしないでいいよ。少し行った先に広場があるから、そこで食べましょう。他にもなにか欲しいものがあったら、遠慮なんかしないでちゃんと言うんだよ?」
割れた列を見て、緊張しながらも肉を焼き続ける屋台の店主を見て、イツキを見て、アオイは困ったように眉を下げる。
なにか、言いたいのに、それが喉から出てこない。
口を開けて、閉ざすことを繰り返すアオイを、イツキはゆっくりと待った。そして、徐に指先をアオイの唇へと当てる。ふにっとした柔らかさをツンツン押しながら、淡い笑みを口元に浮かべる。
「なぁに?」
一瞬、シン……と静まった空気に気が付かず、アオイは唇に当たるイツキの指に赤くなる。
「あ、の……」
「うん」
「お肉、いい匂い、なので……食べてみたい、です」
「うん。じゃあ……」
言葉の途中で店主に向かい合い、今にも購入しそうなイツキの服の袖を、アオイは引っ張った。
いつもよりも、少し強引に。アオイらしくもなく。
キョトンとした顔のイツキがアオイを見下ろす。
「ちゃ、ちゃんと……並んで買いたい、です……!」
真っ赤になって、アオイは必死に言った。
コクウ家は、皇王家に次ぐ名家。だから、人々は道を譲るし、列だって譲る。
でもそれは、アオイにとっては悲しいことだったらしい。
市場にいる人間は、コクウ家の嫡男が来たということで、皆が皆聞き耳を立ててイツキたちを注視している。アオイの言葉に、その場の全員がぎょっとした。
その気配を感じながら、イツキは袖を掴むアオイの手を取って軽く握る。
「わかりました。アオイがそう言うなら、最後尾に並びに行きましょうか」
「……は、はい!」
にっこりと笑ったイツキに、アオイの表情がパアッと明るくなる。
その顔が見られるなら、いくらでもアオイのお願いを聞いてあげたいな。などと考えながら、イツキはアオイと馬を連れて列に並ぶことにした。
その笑顔を見た全員がビクリと震えたことは、アオイに気づかせないようにしながら。
ちなみに、後ろにコクウの人間を侍らせてしまった最後尾のただの客が、肉を受け取るまでカタカタ震えていたのは言うまでもない。
袋に入れられた温かい串肉と、見つめていたらいつの間にかイツキが買っていた干した果肉の詰め合わせを片手に抱えて、アオイは市場の先にあるという広場へと向かっていた。
荷物は、イツキが「持ちますよ」と言ったのをなんとか断って、自分で持たせてもらった。
広場に着くと、大勢の視線が集まった。ビクリとしたアオイを隠すように、イツキが前に出る。それを見た人々がサッと視線を外したのを確認して、イツキはアオイの手を引いて歩き出す。
ちょうど良く、木でできた長椅子が空いていた。今まさに座ろうとしていた二人組が、なにもなかったように去っていったのを、アオイは見ていない。
イツキは馬の荷から敷布を取り出すと、広げて椅子の上に敷く。
イツキさんにこんなことさせちゃった……! とオロオロしているアオイの手がそっと引かれ、腰を下ろされる。
お尻の下の敷布は毛足が長く、とてもふかふかだった。
「……あの、ありがとう、ございます」
「ふふっ、どういたしまして。ちゃんと言えたアオイには、ご褒美をあげないといけませんね」
「……ごほう、び?」
「そう、ご褒美。俺は『ごめんなさい』より『ありがとう』って、アオイには言ってもらいたいから」
隣に座ったイツキが、アオイを見て柔らかく笑う。
その肩を、彼の愛馬がモグモグと食んでいた。
弐の家
ハクロウ家(白狼)
白い狼がシンボル
大きく雄々しい
→平民出のカグヤに自家の姓を与えた。が、養子に迎えたという意識はない。カグヤが落ちこぼれのため姓を名乗らせたことを後悔している。そのためカグヤのことは放置。知らんぷり。無視。
……というのが、当主のスタンスではある。
ちなみにアオイはハクロウ領出身。南の端の方の、特に目立った産物もない、打ち捨てられたような小さな村。




