漆
「アオイ様ー! どちらにいらっしゃいますかー!?」
遠くから、イサクの声が聞こえた気がして、アオイは畑の中から顔を上げた。
ここは、コクウ家の家庭菜園。と言っても、やることがなくソワソワしたアオイが屋敷の掃除を始めたため、当主代理であるイツキが苦肉の策で与えた小さな庭だ。
近くには朝告鳥の飼育小屋もあり、昼日中は扉が開かれ外へと自由に放し飼いにされている。
そんな彼らは、アオイの家庭菜園にも遊びにやってくる。
コケーコケコケ鳴きながら近づいてきて、なぜかアオイのそばで卵を産み落とすのだ。それをありがたく頂戴して、アオイは日々コクウ家の厨房へと届けている。
まるで祭祀礼館と同じようなことをしているが、アオイは苦痛を感じたことはない。それは、厨房へ顔を出すたびに料理人たちが「いつも助かります。ありがとうございます!」と、笑顔を見せてくれるからかもしれない。
ここでも、朝告鳥は近づく人間を選ぶらしい。なんて凶暴。
立ち上がり、キョロキョロあたりを見回して、首を傾げる。イサクの姿が見当たらない。
視線を下げると、数日前にアオイの植えた赤茄子が艶々に光って実っている。その隣では甘唐辛子が、さらにその向こうには玉菜、馬鈴薯、甘藷と季節も何もかも無視したように丸々と育っている。成長が早すぎる。
奥の林の向こうには果樹園もあるらしいが、管理人曰く、実の付き方がおかしいのだとか。
「冬なのに、なんでこんなに、立派に育ってるんだろう……?」
「それはね、アオイがとってもすごい力を持っているからだよ」
「い、い、イツキ、さん……!?」
振り向いて、アオイは固まった。
触れるのも、直視するのも勇気のいりそうな美しい顔の男が、アオイのすぐ後ろに立っている。
「あの、ど、どうして……今日は、お仕事って……」
「うん。お仕事、してきましたよ」
そう言って、イツキはアオイの肩口に頭を寄せる。
耳元で「撫でて、アオイ」囁かれ、そろそろと持ち上げた手をアオイはピタリと止めた。
「アオイ、どうしました?」
「え、と……あの、手、手が……汚れてるので……その」
さっきまで土いじりをしていた。立ち上がる際に手は叩いたけれど、爪の間には泥が入り込んでいる。
そんな手で、イツキに触れるなどできるはずがない。
そう考え、落ちていくアオイの手首を、イツキの手のひらが捕まえる。
頬を寄せられ、滑らかな感触が肌に触れ、アオイは何度も口を開けて、閉めた。
手のひらに、イツキの体温を感じる。柔らかで、けれど余計な肉付きのない、男の人の顔。それもとてつもなく綺麗な。
「はわ、わわ……あ、あの、イツキ、さん……!」
「なぁに? お仕事頑張りましたって、褒めてくれる?」
イツキが身をかがめているせいで顔が近い。吐息がふわりと唇を掠めるだけで、アオイの心臓がどこかに飛んで跳ねて行ってしまいそう。
小さく呻きながら視線を上げると、濃く碧い瞳がアオイだけを見ているのがわかる。
陽の落ち始めた小さな菜園で、アオイは頬に触れたままの指先をそろそろと動かした。
「ぁ、あの……お仕事、お疲れ様です……」
アオイの指先が動くたびに、濃碧玉の瞳が嬉しそうにとろんと緩む。
「ン……ありがとうございます。あなたは今日も本当にかわいい」
ふんわりとイツキが微笑んだ。さら……と髪が揺れ、アオイの肌に触れる。ちゅ、という濡れた音がして、頬にひとつ熱が落とされた。
「さ、そろそろ戻りますよ。夕飯の時間です。イサクがさっきからアオイを探していたけど、俺が迎えに行くって言って代わってもらったんだ。あ、ユヅルはずっとそこにいたみたい」
気づいてなかったでしょ。振り向いて、そう笑うイツキをぼんやりと見返した。夕陽に照らされたその笑顔がとても綺麗で、アオイは眩しそうにその両目を細めた。
アオイが祭祀礼館から助け出されてから、すでにひと月が経過していた。
その間、アオイは本当になにもしていなかった。というよりも、イサクやユヅルになにもさせてもらえなかった。イツキなど言うまでもなく。
ただ、ひたすら胃に優しいご飯を食べて、コクウ家で働く人々を眺め、夜は早い時間にベッドに寝かされて、気がつけば朝。
攫われてきた当初は朝告鳥よりも早く起きていたけれど、イサクに見つかるたびに「もう一度寝ましょうね」と言われてベッドに戻され、朝日が完全に昇ってから活動すること一週間。
とうとうアオイは朝告鳥よりも遅く目覚めるようになってしまった。
そのことに愕然とするも、イツキやイサクがえらいえらいと褒めるものだから、それでいいのかもしれないと思いつつある。
そんなこんなでひと月が経つが、アオイは元々が勤勉な性質だったらしい。
というか、なにもせず世話を焼かれるということに耐えられなかった。
だから、せめてもの恩返しにと掃除道具を手に取ったのだけれど、逆にイサクとユヅルに「やめてください!」と泣き付かれて諦めた。
彼女たちを困らせるのはアオイとしても本望ではなかったから。
イツキなんかは、アオイのやりたいようにさせてあげたいけれどね……と困った顔をして笑っていた。
そこからの、苦肉の策として与えられた小さな庭だ。
イツキとの約束の「よく寝て、よく食べて、よく動く」。これを満たすために与えられたものを、アオイは喜んで受け取った。
野菜を植えたいとイツキに伝えたときは、なぜかとても微妙な顔をしていたが。それでも彼は"駄目だ"とは言わなかった。アオイはそれがとても嬉しかった。
ちなみに、庭を畑として耕すのは、ユヅルが行ってくれた。アオイはそこに貰った種を撒いただけだ。あっという間に成長して、実を付けたけれど。
「アオイは今日、ずっと菜園にいたのかな?」
手を引かれながら屋敷の中へと戻る途中で、イツキが言った。
それにコクリと頷いてから、慌てて口を開く。お互いに歩いているから、アオイが首を動かしたところでイツキには伝わらない。
「あ、あの、はい……。お野菜の収穫をして、厨房に届けたり、してました……」
そんなアオイを横目で見下ろして、イツキはふふっと笑みを零す。
「そうですか。じゃあ、今日の夕餉にアオイの野菜がたっぷり使われているね」
「えっと……はい。た、たぶん」
「アオイの作ってくれた野菜は、とても美味しいんですよ。いつもありがとう。料理人たちもとても感謝してる」
立ち止まり、アオイの黒髪を片手で梳いて、イツキがそこに口づけを落とす。
驚いて固まっているアオイの背に手を添えて、イツキは彼女を目の前の扉へと誘導した。
いつの間にか、アオイの部屋の前に辿り着いていた。
アオイが開けるより早く、中から扉が開かれイサクが顔を出す。「お帰りなさい」と笑顔で言われ、アオイはきゅっと胸の前で両手を握りしめた。
「手を洗って、着替えておいで。一緒に夕ご飯を食べましょう」
頭をひと撫でしたイツキの背中が、隣の部屋に消えていくのをアオイは見送った。
「さぁさ、アオイ様。身を清めたらお着替えしましょうね。ユヅル、あなたはそこにいなさい」
「……当たり前だろう。なんの心配をしているんだ姉さんは」
気配なく後ろから付いてきていたユヅルに小さく手を振ってから、イサクに促されて部屋へと入る。
このひと月、イツキの仕事が忙しくないときはいつも食事をともにしていた。今日は遅くなると聞いていたのに、早い時間に戻ってきてくれたことになぜかとても、胸のあたりがそわそわしている。
「イツキさん……お仕事早く、終わったんですね……」
「そうですねぇ。今日はあまり無茶振りをされなかったんじゃないでしょうか」
手だけではなく、体の汚れまで清められ、新しい服に着替える。イツキの瞳のような色合いの単衣にどぎまぎしているアオイを、イサクが椅子に座らせて髪を梳く。
そうしながら呟かれたイサクの言葉に、アオイは訳もわからず首を傾げたのだった。
◇◇◇ ◇◇◇
アオイとの楽しい夕餉の時間が過ぎ、イツキは自室で書類を広げていた。
皇王城から持ち出してきた、特に重要ではない書類だが、終わらせておくに越したことはない仕事である。
「珍しいですね、貴方が仕事を持ち帰るなんて」
集中して筆を動かすイツキの頭上から、よく知った声が降ってくる。ユヅルだ。
扉を叩く音に返事はしなかったが、部屋に入ってきたことは気配でわかっていた。だから、特に驚くこともなく、イツキの筆が止まることもない。
これがユヅルでなければ、問答無用で部屋から叩き出していただろうが。
「ここ二、三日アオイと食事をともにできていませんでしたからね。今日ばかりは早めに帰らせてもらいました。殿下の護衛は俺だけじゃないからな」
「ですが、他よりも信頼されているのは確かでしょう?」
「……ただの使い勝手の良い駒の間違いだろう」
書き終わった書類を机の端に寄せながら。イツキは淡々とそう返す。
それに、ユヅルがはぁと息を吐いてみせる。仕方ないなと言わんばかりのユヅルの態度にイラッとしながらも、イツキは筆記具を机の抽斗へとしまった。
「ユヅル、アオイの護衛はどうした」
机に肘を付き、イツキは自身の黒髪を指先で弄んだ。アオイの、翠の髪とは違う、なんの変哲もないただの黒髪だ。
「今はまだ、イサクがそばにいます。アオイ様が寝付いたら交代しますよ」
「……部屋には入るなよ」
低く唸るようなイツキの言葉に、ユヅルは夕方のイサクを思い出し、また深くため息を吐いた。
「当然でしょう。姉さんと言い貴方と言い、なんなんですか? まったく――」
呆れたような物言いから、途中でなにかに気がついたかのように男の声音が変わる。
「ああ……もしかして。アオイ様が俺に懐いているのが気に入らない、とかか?」
クスリと笑いながらユヅルが目を伏せる。イツキは、アオイに見せたことのないような鋭い瞳で彼を睨むと、優雅さの欠片もなく小さく舌打ちをした。
本当に、まさか、アオイがそこまでユヅルに気を許すとは思っていなかったのだ。
イサクの報告では、アオイは時折ユヅルに向けて小さく笑みを見せるのだと言う。
(俺だってまだ、アオイの笑顔を見たことがないのに……!)
どうしようもないほどに小さな嫉妬である。
イツキを前にしたアオイはいつだって緊張していて、笑いかけてくれたことは未だにない。
アオイの笑顔が見たい。頬を染めて目を伏せる彼女の表情ももちろん可愛らしいけれど、できれば嬉しそうに笑う顔が見たい。
(これはアレですか。泣かせたいとか言った罰なんでしょうかね!?)
今日も今日とて、イツキはアオイの笑顔を見られなかった。菜園で夕陽に照らされていた彼女は、抱きしめて部屋に閉じ込めたくなるほど可憐で可愛らしかったのに。
そんな彼女の足元では、先日種を撒いたばかりの赤茄子が「わたしを食べて」とばかりに実っていて、少し驚愕したのだけれど。
机に頬杖を付きながら「アオイの……」と呟いたイツキに、ユヅルの視線が向く。
「アオイの心身を健やかにしたら、きっととんでもないことになるだろうな、とは思っていたんだ」
その言葉だけで察したように、ユヅルがひとつ頷いた。
「ああ、確かに。あの野菜は我々使用人も口にさせてもらっていますが、潜在的な力が底上げされているように感じます」
右手を閉じたり開いたりしながら、ユヅルが手のひらに魔力を集中させる。この男の属性は水と雷だが、水球ができたと思ったら、その周りを電流がバチバチととぐろのように巻き付いた。よく感電しそうだ。
感じる気配は、いつもより強い。魔力値が上がっているように思われる。
(アオイの体はまだ完全に癒えたわけではないけれど……)
野菜の異常なほどの成長速度。そしてとても美味しい味。果樹園の管理者からも「季節関係なく全部の木に実が付いているんです〜!」という、泣き言に近い報告。
とりあえずある程度収穫させて、少しずつ市場で売らせているが……。
(その、売上金が、"コレ"なんですよねぇ)
執務机の上に置かれた三つの袋を眺め、イツキはさてどうしたものかと考える。
(カグヤの力がこんなにも農作物に影響を及ぼすとは思いませんでした。……いえ、もしかしたらアオイは……)
菜園で「なんで?」と首を傾げていたアオイを思い出す。とても、可愛かった。――ではなく。
おそらく、祭祀礼館にいたときには、このようなことは起こらなかったのだろう。なにせ、力を行使するはずのアオイ自身がボロボロだったから。
そんな状態で土地を潤すことなどできるはずもない。彼女の持つ力は、彼女の生命を生かすために消費されていたのだろう。
それほどまでに、彼女を追い詰めていた祭祀官共に怒りと殺意が湧く。
「……そのだだ漏れの殺気をどうにかしてください」
正面からユヅルに窘められ、イツキは軽く深呼吸をした。
(市場であまり目立つと、祭祀礼館に目を付けられるな)
だが、収穫はしないと野菜も果樹もタダ腐り落ちるだけだ。そんなこと、アオイの力で育ったものに許されることではない。もったいない。
だからといって大々的に市場に放出すれば、アオイにちゃんとカグヤの力が備わっていたことが祭祀礼館に知れ渡ってしまう。
そうすれば、せっかく手元で庇護できたのに元の木阿弥だ。きっと、アチラに連れ戻される。
そんな。そんなこと。
(断じて許すわけがないだろう)
トントンと机の天板を指で叩く。
「ユヅル、しばらくはウチで消費するぞ」
それだけで、ユヅルは心得たように頭を下げる。
そして、イサクが部屋から出たと言って去っていった。
「……さて、それでコレをどうするか、ですが」
机の上の袋を眺め、イツキはひとり呟く。しばらく顎に手を当てて考えるも妙案は浮かばず、仕方なくそれらを抽斗の一番下にしまって鍵をかけた。
【魔力測定】
皇国の子どもは10歳になったら皆、祭儀館もしくは中央の祭祀礼館で魔力測定をする必要がある。高魔力保持者は祭儀館または祭祀礼館に入り巫女見習いや下級祭祀官になるか、学校に通い剣士になることを選ばされる。
【祭祀礼館】
皇都にある。他の大陸で言うところの神殿のようなもの。
【祭儀館】
地方にある小神殿のようなもの。祭祀礼館の地方分館。




