弐
月嶺森林の奥の月の杜の中心で、月神の社はひっそりと佇んでいた。夜に浮かぶような建物は、装飾は少ないけれど壮麗で、そしてホッとする優しさがあった。
いつかと同じように階に座る。虚ろな目で空を見上げれば、あの日と同じような蒼白い満月が杜を照らしていた。
イツキは、来ていなかった。アオイがここに来るとき、彼はいつも先にいたから、少し肩透かしを食らった気分になる。
そして、それだけ期待してしまっていたことに気づいて、アオイは苦い笑みを口元に浮かべた。
見上げた月がどんどん滲んで歪んでいく。溢れて、決壊して、頬を流れて落ちていく。
ふと、あれから季節が一巡することに気がついた。
「……イツキさん……」
会いたいなぁ。
ひくっ、と喉が戦慄いた。
こんなに誰かに会いたいなどと思うのは、親元から離されここに連れてこられたとき以来だ。
あれから、もう十何年も経ったような気がしたが、実際には六年しか過ぎていない。
ぼんやりと月を見上げながら、アオイは昔のことを思い出す。
――あの日、アオイはまだ十歳だった。
アオイは、ルナティリス月皇国の最南端にある、小さな農村の生まれだ。
この国では、国民はみな、生まれてから十年経つと各地にある祭儀館――祭祀礼館の地方分館――にて魔力の測定をする。
そこで魔力量の多い者は、各地方領都にある祭儀館にて巫女見習いや下級祭祀官になるか、学校へ入って剣士になるかを選ばされる。
だが、魔力量の多い者は基本的に名家に生まれることが多い。地方の庶民などはせいぜいが生きていくために必要な魔力しかないので、大概親の跡を継いで仕事をするか、奉公に出ることになる。
ただ、この魔力測定には、別の意味合いもあった。
それは、"カグヤを見つけること"。
いつの時代も、それがこの国にとっての、最重要課題なのだ。
アオイも、例に漏れず十歳で祭儀館で魔力測定をした。幼馴染とは、「あとでどうだったか報告しあおう!」とはしゃいでいたのに。
アオイの魔力は、ほとんど無かった。微弱と言っても良い。生きるのもギリギリの数値だった。それなのに、祭儀館の外まで漏れるほど、手をかざした水晶を光らせた。
それが、カグヤを見つけるための道具だとは、アオイは知らなかった。知らなくて当然だ。庶民は誰も、そんなこと知らされていないのだから。
知っているのは名のある家くらいだろう。
そこからは、何もかもが急速に変化していった。皇都中央都市の祭祀礼館から上級祭祀官が派遣され、アオイの村にやってきた。
あっという間に馬が引く車に乗せられ、何日もかけて皇都中央都市に連れてこられた。
両親と祭祀官の間でどのような会話が為されたのか、アオイは知らない。けれど、出来損ないの落ちこぼれと判を押される直前、「あれだけ金を積んだのに!」と祭祀官の誰かが言っていたから、きっとアオイは金で売られたのだと思う。
それは仕方がない。庶民はいつだって金に飢えている。金を稼がせるために子どもを産んで、口減らしのために子どもを売ることなどよくある事だ。
だから、売られたことに文句などない。でも、だからこそ、生まれた場所には帰れない。
……けれど、祭祀礼館にも居場所がない。
(――月の力さえ、解放できれば……)
そうすればきっと、ここまで貶められることもなかったと思うのに。
そんなふうに考えて、笑ってしまう。
たとえ力が使えたとしても、ただの庶民が頂点に立つことを、気位の高い中央の名家の人間はおそらく認めやしなかっただろう。
まあ、それでも。
(いまよりは、きっとマシ……)
月が西に傾き始めたのを見て、アオイは階から腰を上げた。
結局、イツキには会えなかった。
それだけで心が沈んで、戻る足も重くなる。
もうすぐ、冬が来る。このまま食事をもらえなかったら、本当に餓死に追い込まれる。
傍らの木に手を付いて、アオイはみぞおちを押さえた。空腹過ぎて痛む胃を擦りながら、空を見上げた。
「セレナリア様……どうして、わたしなの……?」
今年の秋も、もう終わる。きっと、ここ数年と同様に、不作だったに違いない。
手を付いた木に向かって、アオイは体内の月の力を放ってみる。けれどそれは外に出ることなく、アオイの身の内でぐるぐると渦を巻いて落ち着いてしまう。
いつだってそうだ。月の力はいつだって、外ではなくアオイの内側だけに留まっている。
いまだって、ほとんどなにもできなかった。
頭上から、ポトリと一つ、果実が落ちてくる。丸々としたそれを拾い上げ、アオイはそっと胸に抱きこむ。
とりあえず、今日の初めての食事はなんとか用意できたようだった。
◇◇◇ ◇◇◇
翌日――と言っても、月の杜を出てから数刻後だが――、普段通りの一日を始めたアオイの元に、昼頃に祭祀官長から使いが届いた。
珍しいと思いながら、投げ渡された書き付けを開くと、そこにはすぐに祭祀官寝舎に来るように記されていた。
祭祀官寝舎――皇王城の東側、祭祀礼館の西側に建つ、上級祭祀官たちの居住地だ。そこの、本来ならアオイの部屋があった場所の隣に、祭祀官長の私室がある。
いま、アオイの使っていた部屋はどうなっているのか。知りたいようで、知りたくもない。
皇王に報告をする際、「アオイたっての希望で祭祀礼館に移動」となったはずだから。大多数の祭祀官や巫女には、アオイが自ら望んでこの生活をしていると思われている。出来損ないの落ちこぼれのくせに、歴代一我儘し放題のカグヤなのだと。
(もう、いまさら、どうでもいいけど……)
それにしても祭祀官長がなんの用だろう、と疑問に思うけれど、アオイに拒否権など存在しない。さっさと踵を返して去っていく、使いであるはずの下級祭祀官の後ろ姿が、それを物語っている。
待つ気も、案内する気もないということだろう。まあ、案内などされずとも、道順は覚えているけれども。
書き付けを懐にしまい、途中だった洗濯を手早く終わらせる。
冷たい水でかじかんだ手に息を吹きかけながら、アオイは祭祀官寝舎までヨタヨタと歩き出した。
到着した祭祀官寝舎は、少し慌ただしい様子だった。
何人もの上級祭祀官が出入りをして、下級祭祀官が怒鳴られながら走り回っている。
なにがあったのかと思いながら、裏口から建物の中へと入り、使用人しか使わない裏側の階段をゆっくりと上がる。
その間に、そばだてていた耳へと祭祀官たちの話す声が届いていた。「なぜ、名家の御曹司がこんなところに」皆が皆、同じようなことばかりを呟いている。
(名家の御曹司……?)
最上階まで辿り着き、祭祀官長の部屋までを急ぎ足で通り抜ける。すぐに来いという呼び出しだったにも拘らず、仕事を済ませていたせいで遅くなったのだ。そのことで何か咎められでもしたらと思うと、ゾッとする。
長い廊下の角を曲がれば、祭祀官長の部屋がある。さらにその先の角には元アオイの部屋があるのだが、今はそれを見たくなくて、視線を逸らした。
そのせいで、前から来る人影に気が付かなかった。
「きゃ……っ」
どん! と正面から大きなお腹にぶつかり、跳ね飛ばされる。尻もちを突いて床に転がるアオイを見下ろして、ぶつかった男が眦を釣り上げた。
その顔を見て、アオイの肩が恐ろしさで震え上がる。
「あ、あの……ごめんなさ……ぁっ!?」
「出来損ない! 落ちこぼれ! なぜ貴様がここにいる!?」
アオイの骨の浮いた肩を、男のつま先が蹴り上げた。
「さ、祭祀官長さま、に……呼ばれ……っ、く……ぅ」
「黙れ!」
黙れ黙れ! と連呼しながら、男が足を振り上げる。肩に、胸に、腹に、脂肪のないアオイの体は、その暴行をただ受け止めるしかない。
何度も、祭祀官長に、と伝えても、蹴られ続けるアオイの声は掠れて通らない。
その男は、アオイも何度か見た顔だった。上級祭祀官の一人だったはずだ。何か、よっぽど鬱屈したものがあったようだ。
その鬱憤を、他よりもよほど劣っているアオイにひたすらぶつけている。それがたとえ、巫女の頂点に――上級祭祀官よりも上位の立場にいるはずのアオイでも、彼には関係がないらしい。
出来損ないの落ちこぼれカグヤは、誰よりも劣っていて、虐げて良い存在だから。
だから――アオイの声は届かない。
どれだけ嫌だと言っても、やめてと伝えても、辛い、苦しいと訴えても、アオイのその声を聞いてくれた人は誰もいない。
(イツキさん、だけ……)
床に伏せて、頭を腕で覆う。腹を床に付けて、なるべく蹴られないようにした。それは、人としての、最低限のアオイの抵抗だった。
「いまっ、大事な客が! 来ているんだ! 貴様なんぞの、相手をしている暇は……っ、ないわ!」
「ぅ……っ、く……ひっ、いっ」
伏せていた顔を、髪を掴んで引き上げられる。こんなところで泣きたくないのに、目の前の祭祀官の顔が、どんどん歪んでいく。
それは、もしかしたら涙ではなく、男の顔が醜く歪んでいただけだったのかもしれない。自分より立場が上の力の弱い者を虐げる、愉悦の表情。
振りあげられた腕は、確実にアオイの顔を狙うだろう。平手ならまだマシだけれど、その拳はきつく握りしめられている。
「……っ、……?」
「あがっ、ぐ、ううう……っ、な、なんだ……ヒィっ!?」
目を瞑って、奥歯を噛み締めた。口など開いていたら、口の中を切って血が出る。それにおそらく歯が吹き飛ぶ。顔が腫れるくらいなら、数日もすれば治るはずだ。アオイは民の前に顔を出すことも許されていないから、醜くてもとりあえずなんとかなる。
それでも、顔の骨が折れそうだし、とてつもなく痛そうだ。
そう考えて覚悟を決めたのに、いつまで経っても痛みは襲ってこない。
その代わり、目の前にいた男の苦痛の呻き声が耳に届く。
「……なにを、しているんです?」
恐る恐る開いた片目に、靴の先が見えた。黒い脚衣に、青銀の刺繍の施された黒い上衣。以前目にしたときとは別の意匠のそれは、彼の体にピッタリと沿っている。腰には、見事な細工の施された剣が下げられている。
サラリとした青みがかった黒い髪に、濃碧玉色の瞳。長い睫毛の下に、二つ並んだ泣きぼくろ。
「イ、ツキ……さん……」
会いたかった。会いたかった。この地獄のような日々の中で、彼と話すあの夜だけがアオイの救いだった。
でも、なぜ彼がここにいるのだろう。痛む体を支えることもできず、祭祀官の手が離れたアオイは床に沈んでいく。横たわりながら見上げたイツキの瞳は燃え上がるようにギラギラとしていた。
「き、さま……己がなにをしていたのか、わかっているのだろうな」
振りあげられた祭祀官の腕は、イツキの手に掴まれ止められていた。ギリギリと音がしそうなほど握りしめられ、ミシリという嫌な音が響く。祭祀官の喉から、声にならない悲鳴が迸った。
「あが……っ、いっ、いっ、や、やめてくださ……!」
「貴様は、アオイがそう言って助けを乞うたとき、手を止めたのか?」
ミシミシと、骨が軋んでいる。ゴキン! と音がして、祭祀官の体がもんどり打ったように跳ねた。その手首が、あらぬ方向へと曲げられているのを、アオイは見た。
痛みにひぃひぃと情けなく声を上げる男の体を、イツキが足で転がして遠くへとやってしまう。
「アオイ……アオイ。すまない。助けるのが遅くなった。俺がわかる? ちゃんと意識はある?」
抱き起こされ、痛みに呻いてイツキの胸へと倒れ込む。それを見たイツキが転がって震える祭祀官に凍えるような瞳を向け「やはり殺しておくべきか」と呟いた。
その声音と視線が夜の記憶と結びつかないほど冷たくて、少し怖い。けれど、アオイを抱き寄せる腕はたまらなく温かくて、ホロリとひとつ涙が零れた。
「コクウ殿」
ひとつ流れてしまえば、留まることを知らない涙は後から後から溢れてくる。イツキの纏う上質な服の布地を、染みができるほどたっぷりと湿らせてしまうが、彼は怒らなかった。それどころか、背中を擦る大きな手のひらはどこまでも優しい。
「大丈夫。大丈夫。もうあなたにこんな思いはさせない」そう言って、抱きしめてくれるイツキの後ろから、聞いたことのある声が届く。
祭祀官長の部屋から、部屋の主である当人と、雪のように白く長い髪を編み込み背に流した壮年の男が出てくるところだった。
琥珀色の瞳に合わせた同色の袍を身に纏うその男の姿を見て、アオイの体がビクリと震えた。イツキの、アオイを抱く腕が強くなる。
「ハクロウ家ご当主。それから祭祀官長殿。先ほど話した内容で、問題ありませんね? 本日これより、彼女は我がコクウ家にて、引き取らせてもらう」
「……コクウ、家……?」
有無を言わさぬ強い声音で、イツキは言い切った。立ち上がるのと同時に、アオイの体を軽々と抱き上げる。
ハクロウ家当主と呼ばれた白髪の男は、やれやれと首を振りながらも、口は挟むことはしなかった。祭祀官長だけが、苦虫をかみ潰したような顔でイツキを睨んでいる。
「ぁ、あの……イツキさ……」
白髪の男が、アオイを見る。しかし、何も無かったかのようにそのまま素通りする。南方の地域特有の琥珀色には、ただの義務で迎え入れただけの養女の姿は映らないらしい。
今、この時まで、彼にとってアオイはいないものだったのだと、痛感する。
その視界を、イツキの体が遮った。
「アオイ。迎えに来ました。ちゃんと名乗ってなくて、ごめんね。俺の名は、イツキ・コクウ。コクウ家本家の長男です。……これから、よろしくね?」
ポカンと口を開けて、アオイはイツキの優しい笑みを見上げた。
体の痛みを忘れてしまうくらいの、綺麗な笑みが、そこにはあった。
漢字で書くなら
氷月・黒烏
21歳
魔力も剣術も優れた名家コクウの御曹司。
適正属性は、氷、水、風(氷は水の派生)
考え方も冷たいので、他の家には恐れられているが、笑うとふんわりになる美青年。
濃藍混じりの黒髪に、濃碧玉の瞳。白皙の面に切れ長の目元に二つ並んだ泣きぼくろがせーくすぃー。
アオイからは「月下の麗人」と勝手に思われている。それを聞いたらたぶん羞恥で爆発する。




