拾参
市場を後にしたアオイとイツキは、二人と一頭で男の背をゆったりと追っていた。
イツキの右手にはヨヅキの手綱。左手にはしっかりとアオイの手を握り、のんびりと歩いている。
あのあと、騒いでいた男はアオイに何度も頭を下げながら市場から出ていった。その後の処理のため、いくつか指示を出していたイツキは、どうやって知ったのか男の後ろ姿を迷いなく見つけ、こうして追いかけている最中だった。追いかけると言うにはだいぶのんびりしているけれど。
市の開かれる広場を抜けると、あたりは木々が深くなり、ポツンポツンと家が建っているのがわかる。
隣同士がくっつくような家はない。どこも、等しく緑に囲まれている。
「アオイがいたのは南の方だっけ? あっちは海が近いからか災害も多くて、居住区が密集してるよね。ここは……まあ、東に海はあるけど、そこまで荒れるわけじゃないから、災害は少ないんだ。領民がいないわけじゃないよ。数が少ないわけでもない。あの家一つに結構な人数が住んでいるんです」
アオイは、引き取られる前の村と、引き取られたあとの祭祀礼館しか知らない。
確かに、アオイが元々住んでいた地域は家々が密集していた。それが災害が多いから、という理由かは知らなかったけれど。
特に、アオイが生まれた場所は誰からも忘れられたような寂れた場所だったから、災害が起きても援助も何もなかった。隣近所が固まっていると、何かあってもすぐにわかって良かったという記憶はある。
それは、何かが起きれば一蓮托生だということでもあるけれど。
あっちにこっちに視線を向けながら歩くアオイに、イツキが目尻を下げる。
イツキの流れるような説明にも真剣に耳を傾けるアオイに、イツキの表情はもう溶けてしまいそうになっていた。
この様子をイサクとユヅルが見たら即座に「顔」と言うのだろうが、今はいない。
だから、イツキの顔は緩みっぱなしだ。
幸いなのは、家同士が離れているおかげか人の通りが少なかったことだろう。
氷冷の剣士と呼ばれ、彼の笑みを見た者は生きていられないと名家や領内で噂されるイツキだ。そんなこともちろんアオイは知らないが。
通りがかっただけの領民が一斉に倒れるのは、コクウ家も本望ではない。
だがアオイと共にいる時のイツキは、普段の冷たさが嘘のように微笑みが絶えない。
「あ……イツキさん……」
きょろきょろしていたアオイが、イツキの袖をクイッと引っ張る。ついでに繋いでいる手も引っ張られる。
(気を引くための動作がかわいすぎますね……っ)
内心で悶えていることなど噯にも出さず、イツキはアオイの耳に口を寄せ「なぁに?」と尋ねる。
「っ、ひゃ……!」
小さく悲鳴を上げるアオイに、イツキの口の端がゆっくりと持ち上がった。
「あ、ぁ、あああの……っ、あの男の人が、お家に入ったので……その……!」
「うーん。両手が塞がっているので仕方なく顔を近づけてみたんですが、なかなかどうしてこれはクセになりますねぇ」
「ふえっ……い、イツキさん!?」
「ふふっ、大丈夫。わかってます。二割くらいは冗談ですよ」
なら八割は本気なのか。本気の割合が多くないか。
それでも、頬に触れるイツキの髪がゆっくり離れていくのが名残惜しい。そう思ってしまい、アオイは熱い頬を隠すようにして、イツキの腕に額を押し当てた。
「んんッ……あー、もー」
何かを抑えたような声が降ってきて、アオイはそのままイツキの腕の中に閉じ込められてしまう。もちろん、右手はイツキの左手と繋がれたまま。
手綱を離されたヨヅキが、その場で何度か足踏みをする。フン、と鼻から吐き出された息が、アオイの髪を揺らす。そのままモシャモシャと肩のあたりを食まれた。
けれどイツキがそれを制し、アオイの肩をも抱き込んでしまう
もうすぐ日が暮れる。冬の日の太陽は落ちるのが早い。少し前に降った雪がまだ僅かに残っていて、その上に重なった二人の影が大きく伸びる。
「……アオイ、アオイ。唇が甘くておいしい……」
「んっ、……ぁ、イツキ、さ……んんッ……それどころじゃ、ふぁ、な……っ」
「っ、はぁ……ごめんね? アオイがかわいくて。ずっとこうしていたいなぁ……」
「だ、だ、ダメ、です……。あのお家に、行かないと……」
せっかくの甘い雰囲気。お互いに想いを交わし合った翌日だ。イツキとしてはもうこのままヨヅキに乗って屋敷に戻って部屋に籠もりたいところだが。
(アオイはやっぱり真面目ないい子)
騒動を起こしたあの男を助けたいというアオイの願いは、イツキがここで暴走したら叶わなくなってしまう。
理性の手綱を必死に引き寄せながら、イツキは徐にアオイから身を剥がす。その動作にはたっぷりと未練と名残が詰まっている。
「わかっていますよ。さて、そろそろいいかな。一緒にあの家に行こうか」
アオイの肩を抱き寄せていた右手が、理性ではなくヨヅキの手綱を握りしめる。
イツキの台詞に首を傾げながらも、アオイは手を引かれるまま横に並んで件の家へと入っていった。
◇◇◇ ◇◇◇
その家は、他の家よりも小さくそして傷みが激しかった。
建付けの悪い玄関ドアを、イツキが躊躇いもなく開け家の中に上がろうとする。アオイは慌ててイツキの手を引っ張った。
「ん? どうしたの?」
「え、いえ……だって、勝手に上がったら……」
アオイの躊躇いに、イツキがにこりと笑う。
「大丈夫だよ。おいで、アオイ」
促すように手を引かれアオイもおすおずと上がり框に足を乗せる。
廊下は、ところどころ腐食していた。屋根から空が窺える。そこから雨水が滴って、床板に被害が出ているのだろう。
イツキは先ほど一つの家にたくさんの人間が住んでいると言っていたが、これだけ奥に進んでも他に人の影は見えない。
もしかしたらここは、打ち捨てられていた家なのかもしれないと、アオイは思った。
「ああ……たぶんここかな?」
家の奥の、比較的まともな部屋の前でイツキが足を止める。
来訪を告げるでもなく無遠慮に扉を開き、中へと入っていく。
(えっ、えぇ……っ、だ、だいじょうぶなのかな……?)
住んでいる誰かに怒られないのだろうか。
服の上から胸を押さえる。その下で早い鼓動を刻んでいるものが口から出てきそうになりながら、アオイはイツキの少し後ろを付いていく。
室内には、小さな卓と粗末な寝牀が一つずつ。
広さはアオイが祭祀礼館で寝泊まりしていたときの倉庫が四つ入るくらいだろうか。
椅子は無く、脚の折れたものが隅に転がっている。
そして、硬そうにところどころ素材がむき出しになったベッドには、二人の人影があった。
一人はベッドの脇に膝を付いている男性。市場で騒ぎを起こし、アオイが姫月林檎を譲った相手だ。
もう一人はベッドの上に半身を起こした女性だった。手渡された姫月林檎に口を付けたところだったようだ。驚いた拍子に手から滑り落ちた林檎の側面が小さく齧り取られているのが見えた。
「あ、あああ、貴方は、先ほどの……ど、ど、どうしてこっ、ここっ、に」
血の気の引いた顔でイツキを見上げる男は、言葉にならないほど動揺していた。
立ち止まったままの広い背中から、アオイは恐る恐る顔を出してみる。そのアオイの姿を見た男性が、目を丸くしてその場に頭を擦りつけた。
「さっ、さきほどは、ありがとうございましたあああっ!!」
「ひゃっ!?」
威勢の良すぎる声が部屋中に響き渡った。外からバサバサと鳥が飛び立つような音が聞こえた。
思わずイツキの背中に隠れてしまう。服の袖を握ったアオイに、片手を包むイツキの力が強くなる。それに勇気をもらい、またそろそろと顔を出した。
瞬間、ベッドの上の女性とパチリと視線がぶつかった。
綺麗な緑色の瞳をした女性だった。そして、コクウ領内では珍しい色合いだった。長い髪はあまり風呂に入れていないのか艶がなかったが、赤みの強い茶色をしていた。これもまた、珍しい。
男性の方は、黒髪に青みがかった瞳と、あまり目立つものではないがゆえに。
「その見た目、セキロク領の者か?」
「い、いえ……セキロクとコウコの人間の血を半々に継いでおります……」
イツキの問いに、驚きながらも普通に答える女性に、アオイは驚いた。
(この人は、もしかしたら、イツキさんのことを知らない……?)
今までイツキを見かけると全員が全員頭を下げつつサアッといなくなっていたので、とても新鮮な光景だった。
傍らで男性が「この方はコクウ家の嫡男だから……!」と焦っているが、女性の方は訳もわからず首を傾げるばかりだ。他の領地では領主一家の扱いは違うのだろうか。
「ここは、元々空き家だな? お前たちはどこから来た?」
青ざめて震えるばかりの男性に困ったような視線を向けると、女性が戸惑いながらも経緯を説明してくれる。か細いような、どこか今にも消えてしまいそうな、そんな微かな声音だった。
「わたしは、元々コウコ領に住んでいました。母の生まれ故郷なのです。この通りセキロク領の特徴が見た目に大きく出ており、小さい頃から疎まれて育ちまして、母が亡くなったあとは居場所もなく……そのときに、この人がわたしを拾ってくれたんです。それで、結婚してこのコクウ領に連れてきてくれて……」
でも、と彼女は言い淀んだ。途端に、ゴホゴホという咳が、彼女の口から溢れ出す。男性がバネのように跳ね起きると、彼女の体を支え背を擦った。落としてしまった姫月林檎を口元に持っていき、女性に食べさせる。
齧ることはできなかったが、そこから溢れた果汁で喉を潤したようだった。
「お、オレ……いえ、私は、元々流れの商人で、アチコチで商品を仕入れて売っていたんです。ある時こいつに一目惚れして、せめてもと思ってここに帰ってきたんですけど、仕事になかなかありつけなくて……そうこうしてるうちに、こんな……」
「それで空き家に住み着いた、というわけか」
ふぅ、とイツキが軽く息を吐く。それにビクリと肩を跳ねさせる男は、きっと根は真面目なのだろうなと、アオイは考えた。
そして、ボロボロの家を見て眉根を寄せた。病人が住むには、とても良い環境とは言えない。針で刺されたように、胸の中がチクチクと痛い。いくつもいくつも刺されて、血が出てしまいそう。
「イツキさん……」
お願い、と思いながら、アオイはイツキの袖を引っ張った。
イツキの視線がアオイを振り返り甘く溶ける。「なぁに?」と目だけで問われた気がして、アオイはきゅっと胸元を押さえた。
「えと……」
「うん」
「そ、そちらの女性と……ふ、ふたりで、おはなしさせて、ください……っ」
「うん、いいよ」
両目を閉じて、二つの拳を精一杯、握りしめる。勇気を出した懇願は蕩けたように笑うイツキにあっさりと認められた。
「ふえ……?」
けれど、とイツキの声が低くなる。人差し指がアオイの唇を軽く突いた。
そのまま表面を優しく撫でられ、アオイの目の下が赤に染まる。
「二人きりはだーめ。俺がここで見てるよ。それでもいい?」
甘やかすように問いかけられ、アオイは声を出すこともできずコクリと頷いていた。
イツキから許可を得たアオイは、ベッドに上体を起こした女性と向かい合っていた。男性はイツキに睨まれ、後ろの隅で縮こまっている。
座るところがないので恐縮されたが、アオイは気にしなかった。それに、アオイが立った状態が、丁度よい高さで話しやすかったということもある。
「ええと、あの!……い、痛いところとか、苦しいところとか、あります、か……!?」
儚く微笑む女性が、どうしたの? というように首を傾げた。
イツキであればここで何かしらの交渉をするのかもしれないが、アオイにそんな芸当は無理だ。
人前に出るのは恥ずかしいし、怖い。例え目の前にいる人が同性で、優しそうだとしても。
けれど、いま、後ろではイツキが見守ってくれている。だから――と思ったけれど、結局、直球勝負になってしまった。
「そうね……胸のあたりがよく、苦しくなるわ。痛くは、無いのだけれど……」
勢いの良いアオイに対し、女性はゆったりと胸に手を当てる。そのおっとりとした微笑みには、今まで虐げてきた相手に対する恨みも、体が満足に動かせないことへの悲壮感も感じられない。
ただ、儚い様子でそこにいる。
それが、悲しかった。胸が、痛かった。
くしゃりと顔が歪むのがわかる。目の前の女性が、困ったように笑ってアオイの頬を指でなぞる。
(……冷たい、手)
――諦めてしまっている。そう、感じた。
アオイは背後のイツキへと顔を向けた。
眦の濡れた相貌に、イツキがひっそりと目を細める。そして、含むように笑った。
大きな手のひらが、アオイの頭をゆっくりと撫で下ろす。
"いいよ。アオイの好きにしてごらん"
そんな声が聞こえてきそうなほど、優しい手付きだった。
「……さ、触りますね」
アオイは、胸を押さえる女性の腕にそっと指で触れた。本当は、もっと触れる面積は多いほうがいいのだけれど、アオイにはそれが限界だった。
目を瞑り、自分の体の奥底に意識を向ける。最近はあまり気にすることのなかったその力を、きちんと認識する。
今までは自らの内でぐるぐると回るだけで落ち着いてしまった力が、今日は外に出ていこうとしている。
胸の奥がほんわりと温かくなった。心臓から腕を通り、指先まで。一本の線のように繋がって溢れ出す。
「痛いのも、苦しいのも、お空の向こうへ飛んでいけ」
昔、小さな頃にこの呪文を唱えて、弟妹たちを撫でてあげると、すぐに笑顔になった。近所の子どもたちには、とてもありがたがられたし、大人たちは驚いた顔をしていた。
そんなことを思い出して、アオイの口元に微かな笑みが浮かぶ。
ザアッとどこからか大きな風が吹いた。部屋の中の埃も何もかも、全部が壊れた窓を通って空へと舞い上がる。
男と女の息を呑む音が聞こえた。
「もう、いいよ、アオイ。戻っておいで」
耳に心地よい柔らかな声が聞こえた。それで、ああもういいんだ、と思った。
風が止む。音が消える。部屋中を満たしていた輝かしいほどの光の奔流が静まっていく。
「……もう、苦しくない、ですか……?」
目を見開いたまま固まっている女性に笑いかける。それを最後に、アオイの意識は暗い闇の中へと沈んでいった。
アオイが思うよりも、心身が健康になったその力は、制御の利かないものであったらしい。
次回は3/4!
時間は20:10!です。




