拾
あ、あまぁぁぁい
夜の皇都中央は昼間や夕方とはまた違った顔をしていた。
職人街は扉を閉め、工房は小さな明かりだけが灯っている。けれど、奥の家屋からは豪快な笑い声や温かな食事の匂いが漂ってきて、寂しさは感じない。
職人街を少しだけずれると、そちらは歓楽街だ。賑やかな話し声に、客引きの声が馬でトコトコ駆けるアオイたちの耳にも届いてくる。
職人街までは入ってこないが、少しだけ肌を露わにした女性たちが立っているのも見える。
そちらに気を取られていると、イツキが背後からアオイの目を手のひらで覆った。
急に真っ暗になった視界に驚くアオイのまつ毛が、イツキの手のひらをさわさわと擽った。
「アオイには、まだ早いですよ。――と言っても、今後も関わらせるつもりはありませんが」
耳元で低く囁いたイツキが、こちらを見てと言いながらアオイの頬を優しく撫でる。
馬上でも、体はしっかりイツキに支えられている。だから落ちる心配など微塵も覚えず、アオイは促されるままに後ろを振り向いた。
「……いい子。そのままずっと、俺だけ見ていて」
月明かりに照らされながら微笑むイツキは。たいそう美しかった。
そんなこと、初めて会ったときからわかっていたはずなのに、今さらになってアオイの心臓が早鐘を打って止まらなくなる。
「ぅ……ぁ……」
呻き声ともつかない、声にならない声を上げると、アオイはイツキの外套を頭からすっぽりと被った。
クックックッという、抑えたような笑い声が上から降ってくる。その振動が、体を通してアオイへと伝わる。
残念だな、という呟きとともにグッと体を引き寄せられ、抱きしめられた。
ぐん! と引っ張られるような感覚がして、アオイの背中がイツキの胸に押し付けられる。
アオイが外を見ていないのを良いことに、イツキが馬の速度を上げたようだった。
皇都中央に来るときよりも早い速度で馬が走っている。
外套の隙間からチラリと外を見たアオイは、あまりに早く周りの景色が後方に去っていくのを目にして、すぐに外套の中へと舞い戻っていった。
馬に揺られているのに、イツキが笑っているのがわかる。先ほどからずっと、馬の揺れと違う振動がアオイの体の奥まで伝わっている。
随分と機嫌が良さそうだ、とアオイはイツキの服をきゅっと握りしめながら思った。
今日は、たくさんわがままを言った気がしたから。イツキが怒ってはいないようで、安心する。
しばらくそのまま走り続けていると、いつの間にか人の気配が遠くなっていった。
耳に届くのは馬の駆ける蹄の音と、ひゅうという風の音。それから、ホウホウと小さく聞こえる宵闇鳥の声。どこかでピィーと月夜鳥が高く鳴いている。
覚えのある夜の気配に、アオイはイツキの外套の下でモゾリと動いた。
馬の歩みが緩やかになり、そして止まる。
ポンポンとアオイを抱く腕が優しく腕を叩き、目的地に到着したのだと知らせてくれる。
イツキがひらりと地上へ降りた。外套から外に出されたアオイは、寒さにふるりと身を震わせる。
そのアオイを軽々と抱き上げて地上へと下ろし、イツキはふらつく彼女をしばらく腕に抱いていた。
足が地に付き、歩けるようになった頃。アオイはゆっくりと顔を上げた。
思い切り空気を吸って、吐く。
深い、夜の香りが、アオイの全身に沁み渡っていく。
眠りにつく木の匂いと、湿った土の匂い。冷たい冬の静寂が、アオイを満たしていく。
「……月嶺森林」
通称、月の森。
ポツリと零したアオイの呟きに、イツキが微笑んだ。
左手にアオイ。右手に手綱を握って、森の中を歩き出す。すぐそこに、月の杜への入り口があった。
別に柵があるわけではない。門が立っているわけでもない。ただ、そこからが禁域なのだと、肌で感じ取ることができる。限られた者しか出入りを許されぬ聖域。
月嶺森林までは馬で駆けてきたイツキも、月の杜は徒歩で行く。
そこが神の居場所だと、祭祀礼館を毛嫌いしているイツキとて知っている。別に、女神を信仰していないわけではないのだ。
サクサクと、落ちて積もった葉を踏みしめて、言葉も無くただ禁域を二人進んだ。
「……月の社。ここに来るのは、久しぶりだな」
禁域を抜けた先の拓けた空間に、ポツリと一つの建物が立っている。月の昇る東側が正面となっていて、西側から入ったイツキたちには社の背面が見えている。
ぐるりと回って、社の正面に回る。
ここは本殿だ。いわゆる参拝者が祈りを捧げる拝殿は祭祀礼館のことであり、神を祀り神事を行う祭殿は禁域の奥のこちらになる。
神事を行なうのは、皇王一族とカグヤ、それから名家上位四家と上級祭祀官たちだが、禁域に立ち入ることが許されているのは、皇王一族と名家上位四家、それから祭祀官長だけだ。上位祭祀官は禁域の外側までしか入れない。ただの巫女たちなど月嶺森林にすら入れない。
だが、月の巫女であるカグヤは言わずもがな。彼女に立ち入れない場所など、本来この国にはどこにもない。
「……神事を、行った……形跡が、あります……」
階に手を当て、アオイが零した。
「まぁ、年の変わりは祭祀奉納の行事で、皇族の政務予定も埋まっていますからね」
本来なら、カグヤであるアオイも、神事に参加しなくてはいけない。だが、アオイはカグヤとして引き取られた年以外に、その責を果たせていない。
年々力が弱くなり、土地への奉納ができなくなった。そして祭祀官舎を追い出され、祭祀礼館の物置へと追いやられた。
それでも、アオイはカグヤでいることをまだ諦めてはいない。だってまだ、アオイには力があるのだから。
「ねぇ……アオイは、神事を行いたい?」
いつかのように、階に腰掛けたアオイへと、イツキが問いかける。それは、今しがたアオイが考えていた思いと一緒だった。
カグヤであるということは、神事を行うこと。女神に力を奉納し、この国の民の生活を豊かにすること。
イツキが、政治で国に奉仕するのなら、アオイは、神事で国に奉仕する。
「……はい」
だから、アオイはイツキから目を逸らさない。碧く光る瞳をしっかり見上げながら、躊躇うことなく頷いた。
「そう、ですか」
イツキが、そっと目を伏せる。長いまつ毛が白皙の目元に影を作る。
本当は、アオイならそう言うだろうなという確信が、イツキにはあった。
どうせなら国のためではなく、イツキのためにと思ってくれたらいいのに。
そんなことを考え、彼は心のうちで苦笑した。
「わかりました。アオイがそう望むのなら、俺はあなたのために全力を尽くしましょう」
アオイの足元に、イツキが跪く。彼女の小さな手を取って、彼はゆっくりとその表面を指先で撫でる。
以前は荒れてボロボロだった手は、やっと少しだけ本来の柔らかさを取り戻した。
アオイの透き通るほどに白い肌は、指先であっても変わらない。
可愛らしい爪の先に唇を寄せ、チュ、と音を立てる。
前髪の隙間からアオイを伺い見れば、案の定熟れたように赤く染まった表情がある。
淡く光を受ける琥珀色の瞳が、水面に映る月のようにゆらゆらと揺れて潤んでいる。
トクン、とイツキの心臓がひとつ音を鳴らした。
いつだって冷めていたはずのイツキの心が、アオイを前にしたときだけは熱く昂ぶって燃え上がる。その熱が、自分を内側から変えてしまう。
赤く火照ったアオイの頬に、イツキは手を滑らせた。
ほつれて落ちてきた髪をそっと耳にかけてやりながら、イツキはアオイへと体を寄せる。
「ねぇ、アオイ」
呼びかけは、ひっそりとした囁き声になった。
アオイの耳をくすぐり、胸の奥までもゆっくりと撫でていく。
なんですか? と声を出すのも躊躇われ、アオイは視線だけでイツキを見上げた。
夜空に昇り始めた月に照らされるイツキは、本当に美しい。どうしてこんなにも綺麗な人が、自分に構ってくれるのか、アオイは未だにわからない。
「……好きだよ」
「あ……」
手を取られ、微笑みながら。イツキの紡ぐ言葉が、アオイの中へと沁みていく。真っ直ぐな熱を灯した瞳が、アオイをここに縫い止めて離さない。
「初めてアオイにここであった日、俺はあなたに一目惚れをしました。あなたを無理矢理引き取って、手元に置いて……この想いは、枯れることなく今もずっと膨らんでいます」
「……ど、して……わたし、なんですか……」
消え入りそうなアオイの声に、イツキがふふっと笑みを零す。
「どうして、だろうね? それは俺にもわからない。でも、アオイが好きだと、俺の心が言ってる。俺のこの心臓を熱く高鳴らせることができるのは、いつだってあなただけだ」
グッとイツキがさらに体を寄せてくる。握られていただけの手は、いつの間にか手首を掴まれていて、逃げられないように固定されている。
それを、嫌だとも怖いとも思わない自分の気持に、アオイはもう気づいていた。
さっき、気付かされてしまった。
「ね、アオイ。あなたは、どう思う?」
吐息が、頬を掠めた。こんなに近づかれても逃げない理由を、頭の良いイツキならわかるはずなのに。それでも聞いてくるところは少しだけ意地悪だと思ってしまう。
それでも、そんな切ない瞳で見られたら……。
「わたし、も……好き、です……」
こう言うしかアオイに選択肢などないじゃないか。
想いを告げた瞬間、目の前の美貌が本当に、本当に嬉しそうに崩れたから。
選択肢は一つでも、告げたことに間違いはないと感じて、ホロリと涙がひと雫目元を滑って落ちていく。
それをイツキの唇が追って、顎先に口付ける。
親指が、アオイの唇を撫でていた。
「ねぇアオイ。このかわいい唇を、俺に許してくれる?」
いつかと同じ問い。あのときは驚いただけだけれど、いまはそこに羞恥がある。
いま、ここにイサクもユヅルもいない。止めてくれる人は、誰もいない。
けれど、止めてほしいともアオイは思わない。
未知の感覚が怖いけれど、イツキなら大丈夫だと、そう思う。
目を閉じて、コクリと頷いた。
息を呑む音がして、頬が両手で包まれる感触がした。
「アオイ……好き」
ゆっくりと、唇が重なった。
月の社の階で、背後に女神の神威を感じながら、重なったときと同じようにゆっくりと離れる。
コツンと額を当てられて、抱きしめられた。
温もりが、ジワリとアオイを包んでいく。
「はぁ……幸せ。アオイ、もう一度。もっと長く……もっと、深くまで……」
「えっ、ぁ……ん、ぅ」
熱に浮かされたようなイツキの科白とともに、再び唇を塞がれる。今度は、重ねて触れ合わせるだけの優しいものではなかった。
グッと体重をかけられ、身動きが取れない。深く、長く、まるで食べられてしまうかのように、角度を変えて塞がれる。
息が続かなくて開いた唇に、ぬるりと舌が忍び込んできて、アオイの体が跳ねた。絡められ、貪られ、力がどんどん抜けていく。
知らず、鼻から抜けるような声が出た。
それが、イツキをさらに煽ることなど、アオイは知らない。
何ヶ月も我慢を強いられていた男の激情を、アオイは知る由もない。
くり返し言うが、ここにはイサクもユヅルもいない。止める者がいないのだから、イツキのアオイへの想いも、一向に止まる気配はない。
求められることが、触れ合うことが嬉しくて、アオイも止めることをしなかったのは、悪かったかもしれない。
それに便乗して調子に乗ったイツキも。そこは反省している。
長いこと唇を重ね合わせ、アオイからくったりと力が抜けるに至って、イツキは慌てて彼女から離れたのだった。
「ごめんね、アオイ……嬉しくなって止まらなくなった……」
「い、いえ……大丈夫、です」
イツキの膝の上で甘やかされながら、アオイは息も絶え絶えにそう告げる。
その言葉にクスリと笑うと、イツキは彼女の小さな耳へと唇を落とした。
「今日は、その『大丈夫』を信じますよ」
それは、「大丈夫ならもう少ししようか?」と言っているのだろうか。
綺麗に笑うイツキの瞳に本気の色を見て取り、アオイは慌てて彼の首にしがみつく。
「きょ、きょうは、もう……いい、です」
耳元で小さく囁く声に笑って、イツキはアオイの体を抱きしめた。「残念」という声には珍しく実感がこもっているようで、ドギマギしてしまう。
「じゃあ、これ以上は結婚してからね」
「それは……まだ、早い……と思います」
「やだ。恋人同士でもいいけど、俺はアオイと結婚したい。そのために頑張るから、待っててくれる?」
言いながら、アオイを抱き上げてイツキは月の社を後にする。禁域を出て、馬に跨ってから、アオイはイツキの耳元で「待っています」と囁いた。
◇◇◇ ◇◇◇
あまぁぁぁい?
R15にしてましたけど、そこまでにならなかったから外しました…。イツキがそこまでしなかった。
まぁ、だからなんだという話なんですが。




