玖
その後も、端から端まで市場を見て回り、イツキはそろそろ次の目的地に向かおうと、アオイを馬の背に乗せた。
そして、自らもひらりと飛び乗り、手綱を握る。
少し早めの昼食を終え、市場を見て回ったため、陽はすっかり西へと傾いていた。
目指すのは皇都中央――よりも少し西に外れたところ。貴族街ではなく職人街だが、だからこそいい宿が点在している。貴族を相手にもする商人街では少し息が詰まるだろうが、職人街であれば手頃で美味しい店も多い。
それに、皇王城の西側に位置するため祭祀礼館とは真逆に当たる。良い思い出のないアオイも気が楽だろう。
できれば夜に二人で行きたいたころもある。
少しだけ急ぐかと、前に座るアオイの体をしっかりと抱き締めて、イツキは強く馬の腹を蹴った。
「アオイ、少し飛ばします。落としたりしないから、怖かったら俺に抱きついていて」
「えっ、あの……はい」
小さな声とともに、腹に回した腕にぎゅうとしがみつかれる。
その控えめさにイツキは口元を緩めた。
コクウの領地は皇都の東側、北寄りにある。
皇都に行くには月嶺森林を突っ切る形になるが、それでも禁域と祭祀礼館を避けて大回りするので、それなりに時間がかかる。
馬の速度を上げると言いつつアオイを怖がらせないため、その脚は速歩と駈歩の間くらいだ。
通常の駈歩なら半刻かからず回れる距離を、イツキはそれ以上の時間をかけて駆けていく。
それでも一刻はかからず皇都中央に入ったイツキは、馬の歩みを緩めてそのまま職人街へと向かう。
キョロキョロとあたりを見回しているアオイが可愛い。
速度を上げた馬の上でも、最初の時のように目を閉じることはなかった。
(慣れたみたいだな)
祭祀礼館から出たことが無かったからだろうか。物珍しそうにするアオイに、イツキの胸が少しだけ痛む。
ここは、あなたが今まで暮らしていた場所なのですよ。そう言いたいのをぐっと堪え、イツキは馬首を巡らせた。
「アオイ、あまり頭を動かすと、目が回っちゃうよ」
ずり落ちそうになる小さな体を引き寄せて、アオイの耳元で囁いた。唇に触れた耳が熱を持つ。目を向ければ赤く染まった小さな耳殻がある。
囁いたせいで唇が当たってしまった風を装いながら、イツキはその熱い耳の縁を唇で辿った。
小さく震えた体に喉の奥だけで密やかに笑い、最後に微かに濡れた音を立てて唇を離す。
何かを察したらしい馬がブルリと背を揺らした。
「ほらアオイ、前を見て。もうすぐ陽が沈みます。皇都中央の夕暮れもなかなか悪くないでしょう?」
イツキの言葉に、下を向いて震えていたアオイの顔が上がる。
ようやくふっくらとしてきた頬は微かに朱に染まっているが、それはおそらく夕陽のせいではない。ただ、あどけなく可愛らしい顔立ちの中で、薄い琥珀色の瞳が落ちかけの陽に照らされ輝く金色に見える。
横からアオイを覗き込んだイツキは、その様子に僅かに息を呑んだ。
(月明かりの下の彼女も美しいと思ったが……)
夜の間際の彼女も、とても美しい。
(やっぱり泣き顔だけじゃなくて、笑った顔もたくさん見たいな……)
昼間の彼女を思い出し、イツキは焦がれるようにアオイを両腕で抱きしめる。
最早手綱は意味がなく、イツキは足の動きだけで愛馬を操っていた。
◆ ◆ ◆
少しだけ寄り道していこうか、というイツキに連れられて、アオイは皇都中央の職人街にある、こぢんまりとした甘味処に来ていた。
甘いもの。
果物以外の甘いもの。
なけなしの力を使って、果樹の恵みを分けてもらう以外で、アオイが甘味を口にできることはなかった。
祭祀礼館の巫女たちはほとんどが名家の令嬢だったため、アオイに回ってくることもなかったのだ。たとえそれが、月のカグヤ――要するにアオイ――に献上されたものだとしても。カグヤの地位が巫女などよりも相当上位なのだとしても。
こんなに甘いもの初めてです、と幸せそうに少しずつ味わうように食べるアオイに、イツキが複雑な気持ちになったのは言うまでもない。
なにせ毎年、祭祀礼館に「カグヤ様へ」と認めて流行りの菓子を献上していたのだ。おそらく、その分ですらも、アオイの元には届いていないのだろう。
これではコクウ家の面子が丸潰れだ。
「……イツキさん?」
「いえ、なんでもありませんよ。ふふっ……美味しいの? ここ、付いてるよ」
なにやら難しい顔で考え込んだイツキに、アオイが首を傾げた。その小動物のような姿に笑みを浮かべ、イツキがアオイへと手を伸ばす。
唇の端にクリームが付いていた。
それを掬った指が、パクリとイツキの口の中へと消えていく。最後にその指をペロリと舐めるのは、名家の御曹司としては失格だ。
だけど、伏せたまつ毛の長さや、赤い舌の色。上目遣いで流される濃碧玉の視線に、思わず釘付けとなってしまう。
逸らせないまま目が合って、くすりと妖艶に微笑まれる。
「どうしたの?」
「……っ、な、なんでもない、です」
まさか見惚れていたとも言えず、アオイはパクリとスプーンを口に入れる。
品書きを見ても何がいいのかわからず戸惑っていたアオイに、イツキが選んでくれたのは白玉とあんこに、真っ白くてふわふわのクリームと果物が乗ったパフェというものだった。
お供は温かなお茶。それから少し塩気のある木の実。
口の中が冷たくなってきたら温かいお茶を飲み、甘くなりすぎたら木の実を食べる。
その連鎖が美味しくて、楽しくて、アオイは夢中になってパフェを食べた。
「夏場には、それに牛乳で作った氷菓が付くよ。確か、アイスクリーム、だったかな? それと、今日のは普通のパフェだけど、他にもいろんなお茶の味のもあるし、氷菓も果物の味に変えられるみたいだよ」
最近は南から入ってきた"チョコレート"というものが流行っているらしい。
そんなことをイツキに教えてもらいながら、アオイはしっかりとパフェを完食した。
店を出て、歩いていこうかと言われ、手を繋いで大通りをゆったりと歩く。
通りの両端には工房が並び立っていた。店先には看板や幟が掲げられ、文字と一緒に絵が描かれている。文字を読めない下働きの人間でも、何を扱っている工房かひと目でわかるようになっている。
工房は、大きなところでは店舗を兼ねているところもあった。
おそらく、商人街に卸していない商品なども、そこで買えるのだろう。
あちこちから、道具を使う音が聞こえてくる。
いつも静謐だった祭祀礼館とは違う、たくさんの人がいろいろな物を作る音を聞いて、アオイはあちこちに意識を飛ばした。
ふらふらと近寄っていこうとするアオイを微笑ましそうに見ながら、イツキは好きなようにさせる。
繋いだ手は決して離さない。軽く手を握れば立ち止まるので、人にぶつかりそうになればイツキはこれ幸いとアオイの手を握りしめた。
「イツキさん?」
「そろそろ暗くなるから、宿に向かいましょうか? 行きたいところもあるし……明日、帰る前にまたたくさん見て回ろうね」
「あ、明日、ぜんぶ見られますか……?」
そわそわと周囲を見回しながら呟くアオイに、イツキは僅かに目を細めた。はしゃいでいるアオイも可愛いと思いながら、顔にかかってしまっている黒髪を指で払う。
「大丈夫。回りきれなかったら、また遊びに来ればいいんだから」
「……また?」
「そう、また。何度だって来られるよ。俺と一緒に、また遠乗り、してくれる?」
アオイの頬に指を添えたまま、イツキが軽く首を傾げて顔を覗き込んでくる。
甘く笑った顔に頬が熱くなるのを感じながら、アオイは何度もコクコクと頷いた。
今日はここに泊まるよ。とイツキに連れて行かれたのは、職人街でも奥の方にある大きな宿屋だった。
全体の半分ほどが、森の中に建てられている。
正面の大きな暖簾を潜って中に入ると、魔術行灯の柔らかな灯りに迎えられた。
受付の奥から出てきた年配の女性が、イツキの姿を見て僅かに目を見開き、けれどもすぐに頭を下げて部屋まで案内される。
イツキの愛馬は、奥から出てきた男性に頼んで厩舎まで連れて行ってもらっていた。
その際、荷物は下ろして後で持ってきてくれるらしい。
そこまで任せるということは、ここはイツキがよっぽど信頼している宿屋なのかもしれない。
「ここには昔からお世話になっていてね。部屋も常に押さえてもらっているんだ」
どうぞと通された部屋は、部屋というより戸建てという方が正しいものだった。
宿屋の入り口から入って廊下を通り、そしてまた外に出る。そこからしばらく森の中を歩いたところに、ポツンと……いや、存在感を持たせて一軒の家が建っていたのだ。
コクウの屋敷で言えば、離れの一つほどの大きさ。それでも、五〜六人ほどはまとめて泊まることができそう。
沓を脱いで部屋に上がるのも新鮮だ。
板張りの床は少し冷たいけれど、室内履きを出してくれて、気にならなくなった。
廊下を進むと、扉の向こうには広い空間があった。床が全て畳敷きだ。こんな部屋は、コクウの屋敷でも茶の間でしか見たことがない。
青く爽やかな香りがアオイの鼻先を擽っていく。
「先日畳を変えました。良い香りでしょう?」
ぽかんと半分ほど口を開けて部屋を見回しているアオイに、案内してくれた女性がニッコリと微笑みかける。
引っ込み思案のアオイでも、言葉がするする出てくるような、優しい笑みだ。
部屋の説明や宿の説明、食事や入浴の説明などを聞かされていると、気がついた時には畳に座って湯呑を傾けていた。
「あ、話しは終わりました? それじゃあ、アオイ。先に浴場に行こう。貸し切りにしているところがあるから。残念だけど、もちろん浴室は別々だよ」
いつの間にかどこかへ行っていたイツキが、入り口の扉から顔を覗かせてアオイを誘う。
慌てて立ち上がろうとしたアオイに近づくと、倒れかけた湯呑を押さえ、アオイの頭をゆっくりと撫でる。
それがまるで「落ち着いて」と言っているようで、心臓の高鳴りはどんどん控えめになっていく。
落ち着いた頃合いで手を差し出され、アオイは反射的に手を重ねて立ち上がった。
気がつけば、隣で話をしていたはずの宿屋の女性は、姿を消した後だった。
「……おいしかった、です」
手を合わせ、すべての食材に感謝を告げて、アオイは満足したように微笑んだ。
その表情を正面から見て、同じように微笑んだイツキが内心で悶えていることを、アオイは知らない。イツキも知らせるつもりがない。
「アオイの口に合って良かったです。甘味処から歩いてきて、お風呂も入って、ちょうど良くお腹も空いていたようですし、ね?」
そう言って軽く片目を瞑る仕草は、イツキにしては珍しい。あまり見ることがないせいで、アオイはマジマジとその顔を凝視してしまう。
すると、徐々に形の良い耳が薄っすらと赤くなるから、なんだか可愛いと思って焦るのだけれど。
(……だからイツキさん、歩いて行こうって言ったんだ……)
夕方に、のんびりと大通りを歩いたことを思い出す。たくさんの工房を明日も見て回ることができると聞いて、寝るのが楽しみになった。
今まで、寝て朝が来ることが苦痛だったのに、イツキに連れ去られてからのアオイは、毎日がとても充実しているように感じる。
イツキは、始終優しかった。もちろん、初めて会ったときから優しかったけれど、最近は特に。
連れ去られた初日のようにいきなり来ることはないけれど、さり気なく触れてくる回数がどんどん増えている。
今日はずっと手を繋いでいたし、馬の上では抱きしめられていた。
どうしたの? と目の前でイツキが微笑んだ。
少しだけ傾いた頭から、黒髪がはらりと落ちる。
伸びてきた手が、確かめるようにアオイの頬を撫でて離れていく。
トクン、と鼓動がひとつ鳴った気がした。
(……あ、あれ?)
そっと、胸元を押さえてみる。
トクトクと速く刻む心臓の音が聞こえる。
自分を見つめるイツキの瞳を見られなくて、アオイは咄嗟に下を向いた。長い黒髪がカーテンのようにアオイの表情を隠す。
その髪の隙間から覗く耳が真っ赤に染まっているのを見て、イツキはなにも言わずに目を細めた。
イツキのその視線が、熱い。触れる指先も、声も、ずっと熱くて。
そして、甘い。
(ど、どうしよう……! もしかしてわたし……)
気づいてしまった心にどうやって蓋をしようかと、アオイは焦る。
その様子をじっと見つめていたイツキが、何ごとか小さく呟いて、立ち上がった。
「アオイ。あなたと行きたいところがあります。俺と夜の散歩をしましょう」
「え、おさんぽ、ですか……?」
甘く微笑みながら差し出される手に反射的に手を乗せて、アオイは首を傾げた。
もうすでに入浴も済ませ、夕飯をいただき、あとはもう寝るだけだと思っていたが。
手を引かれ、離れの玄関を出る。
どこへ行くのか尋ねても、イツキは笑うだけで教えてはくれない。
(うーん……でも、イツキさんが変なところに行くわけないよね)
そのまま宿の出入り口も越えて、門を通り抜ける。
いつの間にか待っていたイツキの愛馬に乗せられて、アオイは月が影を落とす夜の皇都中央へと駆け出していく。
なんの情報を載せようか…うーん。
あ。
ここまで読んでくださった方いるのでしょうか?
ありがとうございます。
もしよろしければ☆とかをポチッとしていただけますと嬉しいです。
モチベーションが上がるような気がします。
よろしくお願いいたします。




