はじまりは
北の大陸の聖なる星の乙女と同じ世界の、東の大陸の月のカグヤのお話です
蒼く月が満ちる夜だった。
アオイは今日も、月の社で泣いていた。
悔しくて、悲しくて、どうして自分はこんなにも何もできないのかと、それが情けなくて。
蒼白い月の光に包まれながら、泣いていた。
祭祀礼館の裏手にある月嶺森林の、さらに奥にある月の杜。その中心の月神の社。ここには誰も訪れることはない。
それを知っているから、アオイは暇があればここでいつも涙を流していた。暇なんて、ほとんど無いのだけれど。
いまだって、押し付けられた雑用をこなし終えて、みんなが寝静まったこんな夜中に、一人で泣いているのだから。明日も、誰よりも早く起きなければいけないのに。
ホウ、ホウ、と、どこかで宵闇鳥の鳴く声が聞こえた。ガサゴソと夜行性の月影狸がアオイを尻目に社を横切っていく。
世界のすべてがアオイを否定しているようで、寂しくて、辛くて……。それでも、この社だけは、空に浮かぶ月だけは、優しく受け止めてくれている気がして、アオイはここが好きだった。
生まれた家には帰れない。でも引き取られた祭祀礼館では、力を引き出せないアオイはただの落ちこぼれ。居場所などどこにもない。
だから、どうしても辛くなったとき、アオイはここに泣きに来るのだ。
「……だれか、いるのか?」
夜の静寂に声が響いた。おそらくそれなりに若いだろう、男の声。
「何者だ? ここには限られた者しか入ることを許されていないが……」
社の廻縁に身を伏せてぐすぐすとしていたアオイは、その声にビクリと肩を震わせた。
祭祀礼館にいるどの男のものとも違う、耳の奥をくすぐるような玲瓏な声音だった。
廻縁から身を起こし、アオイは数段の階から声の方を伺い見る。
「だ、れ……?」
杜に降り注ぐ月の影に照らされ、浮き上がるように黒衣の男が立っていた。
暗がりのせいで、顔はわからない。けれど、その瞳と思い切り目があったような気がした。
思わず、勾欄の隅に縮こまるアオイのもとへ、その男が歩いてくる。サクサクと草を踏みしめる音が軽やかに夜の空気に溶けていく。
「……あなたは、祭祀礼館の巫女、か? こんな夜更けにどうしてここにいる?」
逃げる間もなく階の下へと足を運んだ男は、訝しがるようにアオイを見下ろした。
一瞬翳った月が晴れる。正面に立つ男の顔が顕になる。距離が近かった。真上から見下されているようで、アオイは落ち着かなかった。
月の光に照らされた男は、どう見ても祭祀礼館の祭祀官とは違っていた。
「あ、あの……」
サラリとした顎までの黒髪に、濃碧玉のような美しい瞳を持った青年だった。涼やかな右側の目元には、泣きぼくろが縦に二つ並んでいる。
黒地に青銀の刺繍が施された品の良い上着に同系統の脚衣。靴は最近はやり始めたブーツというもの。
片耳に青い房飾りのついた瑪瑙の耳飾りをしているのが窺える。
そして、近くには馬がいた。赤い手綱に、黒い毛並み。余程よく大事にされているのか、艶もよくキラキラと光って見える。
アオイは、自分の長いだけの髪をぎゅっと握りしめた。
同じ黒色なのに、どうしてこうも違うのか。
(わたしは、お馬さん以下……)
パサパサとして艶がなく、手櫛しかないから絡まってしまって。こんな顔立ちの良い男性に、見られているのがなんだかとっても恥ずかしく思えた。
俯いたまま動くこともないアオイに首を傾げ、青年が階を一段上がった。ビクリと震えたアオイに僅かに目を細め、その場に膝をつく。
「大丈夫?」
そう言って差し出された手に、驚いて顔を上げてしまう。いままでそんなふうにアオイを気遣ってくれた人などいなかったから。
差し出された手を見つめた。視線を上向ける。
碧玉のような瞳が、優しくアオイを見ていた。目が合った瞬間、ふんわりと口元が弧を描く。
――その、あまりにも綺麗な笑みに、アオイは見惚れた。
いつまでも動かないアオイに焦れることもなく、彼の手は差し出されたまま。恐る恐る伸ばした自分の手を、触れさせる直前でピタリと止める。
荒れすぎて、ガサガサの手だった。白く滑らかな青年の手に触れるのは、気が引けてしまう。
そんなアオイの逡巡を見透かしたように、離れていこうとした彼女の指先を、大きな手のひらが包み込む。
「ふふ……捕まえた」
「……っ、ぁ、あの……手、汚い、ですから」
アオイの言葉に青年は僅かに目を見開いた。そしてまたふんわりと笑うと、荒れた指先に触れるだけの口づけを落とす。ヒクリと、アオイの肩が揺れる。
「大丈夫。汚くなんかない」
サラリと、彼の顎下で髪が揺れた。漆黒だと思った彼の髪は、よく見れば青みがかっていた。月明かりに照らされて輝くようだ。艶があり、指を通したらきっと気持ちがいいに違いない。
「あなたは……巫女か?」
「えっと……その。は、はい……」
確かめるように再度問いかけられて、アオイは咄嗟に顔を伏せた。
アオイの身につけている衣服を見て、彼はそう判断をしたのだろう。白い単に赤いスカートは、巫女の常服だ。
それに、アオイが巫女であることに間違いはない。だから嘘は吐いていない。ただ普通の巫女とは違うことを、この人はきっと知らない。
その上、落ちこぼれすぎて他の巫女の仕事を押し付けられるような、そんな情けない自分が巫女を名乗ることも烏滸がましい気がして。そんなことを考えるたびに、胸の奥がキリキリと痛んで虚しくなる。
「あなたの、その……名前を教えてくれないか?」
青年に捕らわれたままの手が、温かく大きなものに包まれた。汚いはずの手を「汚くない」と言って口付けられたときも驚いたが、両手でそっと握られるのも慣れなくて怖い。
いままでアオイに手を差し出してくれた人など――ましてや握ってくれた人など、一人もいなかったから。
「……アオイ、です」
アオイは、問われてから答えるまで人より少し反応が遅い。そのため、普段はなにかと他人から敬遠されがちだが、彼はそんなアオイを急かさずに待ってくれていた。
「アオイ……可愛らしい、良い名だ。俺はイツキ。イツキと呼んでくれ」
名を呼ばれ、優しく微笑まれ、アオイの心が決壊した。ポロリと涙が落ちる。
さっきまでさんざん泣いたというのに、一度零れ落ちた涙は止まらない。後から後から止まることを知らないかのように流れていく。
「そんなふうに泣くと、あなたの美しい瞳が溶けて流れてしまいそうだな」
クスリと笑う声がした。けれど嫌な気配をまったく感じない。本当に、綺麗で真っ直ぐで沁みるような笑い声。
そんな声を聞いたのは、いつぶりだろう。
蔑みではなく、慈しみを感じるようなそんな――。
頬に流れる涙を、彼の片手の指が掬い取る。流れ続ける雫を、嫌がりもせず何度も何度も。
顔が近付いて、「ねぇ、呼んでごらん?」と囁かれた。涙の向こうで「ほら」と促される。
「ひっ、く……ぅ、イツキっ、さま……」
初めて呼んだ彼の名は、しゃくり上げてたいそう無様だった。
それなのに、どうしてか目の前の、いま初めて名前を知った――どころか初めて会った青年は、嬉しそうに笑うのだ。
「ああ……"さま"はなしで、ほら、もういちど呼んでみて?」
甘やかすような声音で請われて、理性がどこかに飛んでしまいそう。
どうして、と思う。初めて会った人なのに。どうしてこの人はこんなにも、優しくしてくれるのだろうか。
そして、どうして――。
(どうして、わたし……この人のこと怖くないんだろ)
「アオイ……ほら、名前を呼んで?」
「……イツキ、さん……」
あまりにも甘やかなその声音に胸を高鳴らせながら、アオイは掠れたように声を絞り出す。「イツキさん」と呼んだアオイに碧い瞳を少しだけ細めて、イツキと名乗った青年が小さく何事か呟く。
「まあ、今はそれでもいいか」という言葉は、いっぱいいっぱいになったアオイの耳には最後まで届かなかった。
どうしてここにいるのか、どうして泣いているのか、そんなことをツラツラと話して、アオイはイツキに見送られながら祭祀礼館へと戻った。
話すのが苦手なアオイはどうしても途中で言葉を詰まらせてしまうのに、イツキは嫌な顔せずアオイがすべて話し終わるのを待ってくれた。
時折、指先が髪に触れるのが擽ったくて首を竦めると、なにが楽しいのか嬉しいのか、彼は満面に笑みを浮かべる。
真顔だと、怜悧で氷を思わせるような美貌なのに、笑うと途端に雪解けた春の陽射しのように柔らかな印象になるのだ。
語り口は柔らかく、時々丁寧な口調になるのがおもしろかった。
もっと、もっとこの人と話をしたい。そう思ってしまって、そっと視線を落とす。いつも無い物ねだりをしては、叶うことはないと諦めてきた。
今日のこの邂逅だって、きっとなにかの偶然なのに。偶然がそう何度も続くことなんて、あり得ないのに。
(また、わたしは……)
話している最中に急に押し黙ったアオイになにか思うところがあったのか。イツキは、去り際に身を屈めると、アオイの耳元でそっと囁いたのだ。
「では、またな。――アオイ」
ほんの僅か、触れた気がした唇の感触を思い出し、アオイの頬が真っ赤に染まる。
栄養の足りない細い体のあちこちが熱く火照っているような気がして、自室の狭い部屋に戻るなりアオイは薄っぺらい布団に頭から突っ込んだのだった。
同時に二つを書かないと落ち着かないので、こっちも書き始めました。書きながら投稿するタイプなので…。そして、あくまでサブなので…。更新はたぶんマチマチ(いつものこと)




