十九話 過去
四日目の朝、鳥の囀りと共に目を覚ました。ボウリングの疲労感は僕に泥のように眠る感覚を味あわせてくれた。
一つ伸びをする。体の硬直が取れていくのを感じた。
横を見てみると、真白がまだ寝ていた。寒かったのかダンゴムシみたいに丸まって安らかな寝息を立てている。
僕は立ち上がり、ドームの外に出た。朝陽が僕を優しく包んだ。こんなにも晴れやかな目覚めはいつぶりだろう。いや初めてだろうか。
「何浸ってんの?」
気持ちよく朝陽を浴びている僕に向かって、真白は冷たく言いはなった。
「健康的な生活を満喫してるんだ」
僕がそう言うと、真白は興味なさ気にアクビをした。
そして一つ伸びをしてから、ドームの外に出た。目を細めて太陽を睨んでいる。
「今日はどうしようか、また私のやりたいことでもいいけど」
真白はまたアクビをしながら言った。
「今日は僕のやりたいことをやってもいいかな」
「何、見つかったのやりたいこと」
真白は嬉しそうに言った。まるで自分のことのようだった。
僕は笑って誤魔化した。照れ笑いだった。
「まあそんなとこだね」
「何処に行くの、競馬?競艇?」
「僕の家」
僕は努めて無感情にそう言った。
真白は目を丸くして驚いた後、わざとらしい軽蔑の目を向けた。
「え、私をお持ち帰りするつもり?」
「違うよ!」
「どうだか」
真白は痴漢でも見るような目を向けている。
「大丈夫だよ、止める訳じゃないから」
真白はさっきまでのわざとらしい態度をやめて、無表情で僕を見ていた。
「じゃあ、なんで家に行くの」
僕はその時に初めて、本当の真白の声を聞いた気がした。
「忘れ物を取りに行くんだ」
僕がそう言うと、真白は困惑して首を傾げた。
その後僕らは簡単な朝食だけ済ませて僕の家に向かった。徐々に見慣れた道になっていき、あの親の顔より見た集合団地が姿を現した。
僕はもちろん、真白もこの前を何度か通っているので、道案内もせずにたどり着いた。
ポッケにいれっぱなしだった鍵を使って中へと入る。
「どうぞ」
僕が招き入れると、真白は恐る恐る入っていった。僕も遅れて中に入ると、そこにはいつもの光景が広がっていた。
生活感の無い殺風景な部屋。キッチンに付いた僕の吐瀉物の汚れは完全に落ちきっておらず、大きなシミを作っていた。
いつもの光景に安心すると共に、僕は少し絶望した。
今でもお母さんが暮らしているはずのこの部屋は何も変わっていない。僕が居なくなっても、お母さんの日常が淡々と続いているという事実に、僕は悲しみを覚えてしまっている。
まだ僕は、お母さんのことを気にしてしまっている。僕がいなくて悲しいって思ってほしい。僕がお母さんの側にいた意味があってほしかった。
その無意識の願望に反して、部屋は綺麗なままだ。
「殺風景な部屋だね、私の家と大違い」
部屋を一通り見終えた真白が言った。
「そういう人なんだよ」
僕は吐き捨てるように言った。いや、少し声が震えていたかもしれない。
真白は胸中を探るように僕を見ていたが、直ぐに視線を外した。
「お母さんは帰ってこないの?」
「今日は一日中仕事のはずだから、少なくとも昼間は帰ってこないよ」
「親のいない家に女の子を……やっぱり私をお持ち帰」
「違うぞ?」
真白はどうしても僕を変態にしたいのだろうか。僕の食い気味な否定に真白は吹き出した。
「で、忘れ物って?」
僕は八ッとして、直ぐにリビングのタンスの前に座り、一番下の引き出しを開けた。
タンスの中身も、僕が出ていった時と同じだ。何も変わっていない。
僕は安堵して、タンスの中を探り始めた。真白が後ろから覗いている。
服や教科書を掻き分けると、見慣れたポップな表紙が目に写った。
「あった」
カブトムシがデカデカと真ん中に鎮座し、丸みを帯びた赤い文字で昆虫と書いてある、単純明快な表紙。
「昆虫図鑑?しかも子供向けじゃん」
後ろで楽しそうに覗いていた真白が拍子抜けしたように言った。
「唯一残ってるお母さんからのプレゼントなんだ」
ページを開いてみた。ページの端が虫に食われたみたいに欠けている。飲み物を溢したシミ。前半は小学生の頃の落書きがページをうめつくしている。
「年季物だね」
「小一から読んでるから」
ページを捲りながら、僕は過去を回顧していた。僕は毎日この図鑑を読んでいた。
ページを捲るだけで、今までの記憶が思い起こされる。
「僕の家そんなに裕福じゃないから、小学生まで誕生日プレゼント買ってもらったこと無かったんだ」
「それからは毎年?」
「小学校二年生の時に、父が出ていった」
僕はページを捲る手を止めずに言った。真白はそれだけで何かを察したようで、それ以上何も言わなかった。
僕は毎日これを読んでいた。内容なんて世界中の誰より分かってる。昆虫にたいしては小学校四年の頃には興味が失せていた。
それでも僕はこの図鑑を読むのを止めなかった。止められなかった。
今の僕に残された、お母さんに愛されていたことを僕が確認できる唯一の物だったからだ。
遠い過去の幸せな思い出に、僕は固執していた。
この図鑑が僕をこの世に繋ぎ止める枷になっていた。この図鑑があるから、僕は今でも、お母さんを恨みきれないでいる。
この図鑑が無くなれば、僕はやっと前に進める。未練無く死ねる。
最後のページまで読み終え、僕は図鑑を閉じた。真白はただ黙って見ていた。
「もう行こうか」
僕は図鑑を小脇に抱えて立ち上がった。抱えた図鑑はボウリングの玉よりも重く感じる。
僕は出口に向かって歩き始めた。真白が黙って続く。
僕はドアノブに手を掛け、固まっていた。図鑑持ってこの部屋を出れば、もう後戻りは出来ない。
でももう、僕は進むんだ。そう思い、ドアノブを回そうとしたその時。
僕が回すより先に、ドアノブが回転した。