十話 叫び
僕は扉の前で立ち尽くしていた。家について五分程が経っただろうか。
ドアノブに手はかけている。しかし、接着剤で固められてるみたいに、ドアノブが回らないのだ。
故障したわけではない、ドアノブを捻る手に力が入らないのだ。
冷や汗を額に滲ませ、ドアノブに手を掛けたまま立ち尽くす。そんな体勢のまま時間は過ぎ、隣のおじさんも後ろを通りすぎた。
お母さんは僕の味方じゃない。あの時真白が言った言葉が脳裏を駆け巡っている。
そんなことない。頭ではそう分かっているはずなのに、僕の体はドアノブをまわせないでいた。
真白は自分が正しいなんて言っていたけど、アイツが正しい訳がない。お母さんはイジメのことを言いさえすれば、僕の味方をしてくれるはずだ。
今日何回心で唱えたか分からない暗示をかけてドアノブを回そうとするが、びくともしない。
もう秋だというのに、僕の額は玉のような汗で湿っている。昨日まで普通に出入りしていたはずのドアは、今の僕の目にはまるで別物に見えた。呼吸が浅くなる。手は震え、ますます力が抜けていった。
「なにやってんの」
ビニール袋の摩擦音と共に、声が緊張を切り裂いた。
驚いて振り向くと、そこにはお母さんが立っていた。コンビニにでも行っていたのか、ビニール袋を左手首に掛けている。
僕はお母さんの顔を見て、さらに固まってしまった。お母さんを疑ってしまっている罪悪感と、少しの恐怖で。
お母さんは固まっている僕を見て少し不機嫌になったようだが、直ぐに視線を外してドアノブに手を掛けた。
スルリとドアノブは回った。
「回るじゃない」
短く言うと、お母さんは家の奥へと消えていった。ドアは開けっ放しになっていて、廊下の奥からビニール袋から物を取り出す音が聞こえる。
僕は幾分収まってきた呼吸を整え、改めて深く息を吸ってから部屋に入ったり
部屋に入った途端、粘りつくような重さが僕に纏わりついた。水中みたいに息がし辛い。肩は大蛇が乗ってるみたいに嫌な重みで押し潰されそうだ。
お母さんを怒らせないように平気な振りをしてリビングまで歩く。リビングまでの道のりは蜂蜜の海を泳いでいるように、歩き辛かった。
リビングに行くと、お母さんがプリンを食べていた。床に容器を置いて、胡座のまま体を傾けて食べている。
「ただいま」
僕がそう言うとお母さんは一瞬動きを止めたが、また食べ始めた。僕はそのままリビングの端に腰を下ろした。
僕はリビングの端から、ジッとお母さんのことを見つめた。お母さんは僕の視線に気づいていないのか、気にしていないのか、動きを止めずに食べている。
イジメのことをお母さんに言おうかな。いやでも、この前あんなに怒られたばかりなのにそんなことして良いのかな。
脳裏で様々な思いが錯綜していた。お母さんが僕の味方であることを証明したい。いや、確認したい。
けれども言いたいことは口を通らず、頭の中で駆け回るだけだ。
「何、さっきから」
お母さんが不機嫌そうに言い放った。
僕は慌てて視線を外した。
「ごめんなさい、なんでもありません」
お母さんは十秒ほど僕を睨んでいたが、またご飯に目線を戻した。コンビニおにぎりの包装紙に苦戦している。
真白に言われ、増幅した疑念がお母さんを見ているとヒョッコリと顔を出す。
イジメのことを言ったら、お母さんは助けてくれるだろうか?味方で居てくれるだろうか?悲しんでくれるだろうか?疑問符は時間が経つにつれ、多くなっていく。
もう真白への怒りとか、真白の言葉が間違いなことを証明したいと言う気持ちは無い。
イジメられて辛いことをお母さんに分かって欲しかった。学校で叩かれ、無視され、笑われていることを慰めてほしい。イジメが解決しなくても良いから、ただ一人の味方であることを証明して欲しい。
「お母さん、僕ね学校でイジメられたんだ」
僕は世間話をするようにポツリと言った。
聞こえててほしいような、聞こえないでほしいような。イタズラした時みたいな気持ちだった。
視界の端のお母さんは相変わらず包装紙と格闘している。
お母さんが怒ってないことを確認して、僕は続けた。
「最初は悪口くらいだったんだけど、どんどん酷くなって、殴ったり、蹴ったりしてくるんだ」
声は震え、視界が涙で滲む。
「僕のことをヨゴレって呼んできて、今日なんて、トイレのモップで叩いてくるんだ」
言葉は堰を切ったように溢れだした。ここまで言うつもりじゃなかった。学校でイジメられている。だけど、思いは言葉にした途端止まらなくなり、自分でも驚くくらい饒舌になってしまっている。
自分がイジメられてるのはしょうがない。稲村くんがイジメっ子に豹変したのも、皆や先生が僕を無視するのもしょうがない。
そんなこと、本当は思ってなかった。助けて欲しかった。解決してくれなくても、誰かに味方でいて欲しかった。
お母さんに対してだけじゃない。僕が置かれている環境全てに対しての思いが、滔々と溢れだしていた。
リビングに、包装紙を破く音と、僕の声だけが響く。
不意に、視界の端でお母さんが立ち上がった。
咄嗟に僕は顔を伏せた。怒っているのか、優しい顔をしているのか確認すらせず下を向いて震えている。
顔を見れない。助けてくれる、味方してくれる。そう頭で言い聞かせても、怒られる姿だけが思い浮かんで、恐怖で顔を背けてしまったのだ。
裸足の肌がフローリングと接触する、ヒタヒタという音が、少しづつ近づいている。
下を向いている僕の視界に、お母さんの足が写ったところで止まった。沈黙が流れる。
不意に僕の頭に、ポンと何かが乗った。お母さんの手だった。遅れて、お母さんの温かな体温が、頭頂部の皮膚を伝って全身に流れる。
僕はその感触だけで泣きそうだった。お母さんに、こんなに優しく触れてもらうことさえ、久し振りだったのだ。




