動物たちと共に暮らすという事 昭和時代。野良猫トラちゃんとのお別れに思う
本文中には動物愛護/子供の躾に関わる記述があります。躾やペットに関しては現在とは全く異なる社会通念があった時代のなかで、他の沢山のご家庭でもきっと、頻繁に起きていたことではありましょう。
ただ自分にとっては、幼心に大きな悲しみを負って今も心の片隅に、消せない痛みとして残っている出来事ではあります。今般改めて振り返り、初めてありのまま書くことで数十年前の出来事を整理し、消化しきれたらと思いました。
こういった出来事などに対して大きな痛みや不安等を抱く恐れのある方は、読むのをお控え下さい。
お読み下さる方々におかれましては、なにとぞ可否・善悪ではなく一つの思い出話として、ご理解を頂ければ幸いです。
私達親子が住んでたのはトタン屋根に薄い板壁の、小さな小さな古い借家だった。
6軒ほど同じ造りの借家が並ぶ奥、坂を少し上ったところに大きな敷地のお宅があった。
古い農家のようで、納屋とか鶏舎とかも、あった気がする。
そのお宅には、今でいう打ちっぱなしのゴルフ練習場みたいな緑の大きな金網が、借家の向こうの空半分も覆うように高々と、張り巡らされていた。
実際それはゴルフ場でもバッティングセンターでもなく、食用キジを飼育してる「キジ舎」だった。
我が家には飼い猫がいた。確か「トラ」って呼んでいたな。土色と黒のシマシマの、ネコだった。
野良猫が居付いたか、捨て猫を拾ったのか。覚えてはいない。
昔々から、私は猫が大大大好き、だった。どんな猫でも可愛くて可愛くて仕方なかった。それこそトラやライオンやチーターなどネコ科の生き物ならなんだって、OK!自分は「ネコの生まれ変わり」じゃないか、って思う位に親近感を抱いてる、ネコは私にとってそんな存在だった。
その頃は飼い猫といってもみな半分野良みたいなもので。ご飯はあげるけど、食べ終わるとどっか行っちゃうし、寝るころにはフラッと戻ってきていつの間にか布団で寝てる。
ネズミやスズメをお土産に持って帰ってきて玄関の土間に並べては「はいどうぞ」!なんてことは日常茶飯だった。出入り自由の、半同居フリーダムトラちゃん、だった。
ある日の夕飯どき。仕事から戻ったばかりの父の怒声が、ワタシと兄を震え上がらせた。
「もう飼えない。演習場に連れて行って、放してくるしかない!」と。
父は猛烈に怒っていた。フリーダムトラちゃんは、あってはならないことをしでかしていた。
お隣の大地主さんちの「雉舎」に侵入し、あろうことか大事に飼われていた雉を、襲っていたというのだ。
それも、一度だけじゃなかったらしい。
何度かそれがあって、とうとう大地主さんは犯行現場を目撃し、「トラちゃん」が下手人いや下手ネコと分かったという。
昭和の半ばを過ぎた頃。山あいの田舎町には野良犬も野良猫もそこら中にうようよいた。
今みたいに動物愛護の意識も一般にはまるで、普及していなかった。
困った犬猫は「山に捨てるもの」「保健所へ連れていくもの」そんな考えが世間には当たり前にあった。
実際演習場には、野犬がいっぱいいた。
噛まれると狂犬病に罹って死ぬから、野良犬には近づくな、って大人たちは良く言っていた。
父の「山に放す」宣言を聴いて、当然私は狂ったように泣いて、抵抗した。
ネコ好きな兄も一緒になって泣いて、泣いて。絶対に嫌だと兄妹二人して必死で抗った。
それでも、父は聴き入れてはくれなかった。
よそ様の大切なキジを一度ならず繰り返し襲って、味をしめまた同じことをしない訳がない。無罪放免では済まない、と。
当時、ネコを飼うに当たっては出入り自由が当たり前。ネコ自身の安全や近隣トラブル等を考えての「完全室内飼い」などという考え方は、ほぼ存在してなかったと言っていい時代だったと思う。
他の手段の選択、余地は無いに等しかった。
「山まで一緒に行く!」泣きながらトラちゃんを抱いて兄は父と車に乗った。私も、続いて乗り込んだ。
演習場までの道は真っ暗で、外灯なんてものは一つもない田舎道。ヘッドライトだけが灯りだった。
この道が永遠に続けばいいのに、って幼心に思っていた。お父さんの怒りが収まってくれたらいいのに・・・と。
泣きべそをかきながら、車に揺られた。
大野原の結構奥の荒れた戦車道まで入ったところで、車は止まった。「外へ出せ」
無情にも、父は冷たくそう言い放った。
父だって、断腸の思いだったに違いない。でも父親として、決して譲れない選択だったろう。
保健所に連れて行くくらいなら、元々野良だった子なのだから、野にかえす。
それは父にとっても辛いものだったはずだけれど、トラちゃんに対する最善の、最後の優しさだったんだと今は、思う。
けどその時の私にはそんな父の想いを慮ることなどできようはずもなく。
鬼のように怒った父が怖くて、トラちゃんと離れたくなくて、しゃくりあげて泣くばかりだった。
兄は、ドアを開けて外に出て、泣く泣くトラちゃんを野に放した。
彼はすぐにでこぼこ道の脇、藪の中に姿を消して行った。(もともと半野良猫生活をしていた彼だから、その後生きることに困るような事は、無かったに違いないが。)
再び兄を載せて車は来た道を戻り走り出した。兄は泣き続けた。
やがて「いやだ、降ろして!やっぱり探しに行く!」と猛烈な勢いでギャン泣きをし始めた。
いつまでも収まらないので父はとうとう、兄にも怒り出した。
「それなら一緒に降りろ!!帰ってこなくていい!!」
車を止め、泣きじゃくる兄を道端に降ろして、ドアを閉め車は走り出してしまった。
まさかの事態に仰天して、私はもうパニックだった。
「おにいちゃんが!一緒に捨てられちゃった!おにいちゃあん!!トラちゃあん!!」と、声も枯れるほど、泣いた。
おそらくそれはほんの一瞬の出来事だったろう。数十秒か、いや数秒、だったかもしれない…。
でも私には「トラちゃんが居なくなっちゃった!お兄ちゃんも置いてかれた!」
永遠のように長く、地獄に落ちたかのような恐怖の時間だった。
当然のことながら、ほんの少し走ったところで車はUターンした。泣きながら歩いていた兄を拾い上げ、一緒に母のまつ家へと、戻った。
今だったら「幼児虐待」「動物愛護法違反」であろう、けどこういう「しつけ」が、一般的だった時代の話だ。
普段は温厚な父が、これほどまでに激高し強硬手段に出たのは後にも先にもこの時一度きり、だったと思う。
父の事は大好きだし深く尊敬している。ただひとつ、今でも、演習場の真っ暗闇と、月明りとヘッドライトに照らし出されたでこぼこ道。
遠くの山並みに点々と光る灯り。生暖かい風に萱がそよぎ、闇がうごめいてるような黒々したシルエット。あの寒々とした情景は、いまも忘れられずにいる。
その後も私の暮らしの中には、入れ代わり立ち代わりだが、いつも家族たる動物の姿があった。
チャボ、ジュウシマツ、モルモット、うさぎ、そして、ネコたち。
今も私の隣には、愛しいネコが居てくれる。
動物と共に暮らすという事は、その命、かかわるすべてのことに責任をもつということ。
縁あってひとたび家族に迎え入れたら、お互いが幸せに感じられる一生を送らせてあげたいなといつも思う。彼らには、選べないのだもの…。わかりやすく言葉で訴えることも、出来ないのだもの…。
だから「この家に来てよかったな」って思って暮らして欲しい。
精一杯愛情を注いで、出来る限りのことを、最後の最後まで。
必ずやって来るお別れの時に「幸せだったよ、ありがとう」って、お互いが思えるように。
幼い心に深く深く刻まれたこの出来事から学んできたのはきっと、そういうものだったと思う。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。