第7話 屋敷の奥
俺はやはりここの雰囲気は好きになれなかった。
晴天の午前中なので、この間とは比べ物にならないほど気味の悪さは軽減している。
しかし見た感じというよりか、そこにわだかまっている誤魔化せない瘴気みたいなものに、満月期に差し掛かろうとしている俺の超感覚がどうしても疼くのだ。
再び訪れた屋敷の門で、俺は背中の毛が逆立つ感覚を覚えながらインターフォンを押した。
可愛い部下に格好悪い所は見せられない。
聡子の前でどういうわけかいい格好をしたがる自分に内心呆れながらも、背筋をスッと伸ばしてスーツの裾をピンと張った。
そしてインターフォンからあの夫人の無機質な声が聴こえて来た。
「はい」
「先日お伺いいたしました磯嶋文具の大上です。お預かりしたお洋服をお持ちしました」
「そうですか。少しお待ちください」
本当は俺の心理面の尻尾は後ろ脚の間に折りたたまれていた。
最初から降参しているような心理状態ではあったが、俺がしゃんとしていなければこの娘を守ることは出来ないと必死で奮い立たせた。
狼人間の俺が言うのは何なんだが、俺はホラー映画が大嫌いだ。
作り手が怖がらせようとしている訳だから、当然恐ろしく出来上がっている映画に俺はもう何度も飛び上がった。
今はそういった類の映画は絶対に手を出さないで、主にコメディーとホームドラマを中心に観ることにしている。
そんな気弱な俺が、今まさにスプラッター映画の舞台に足を踏み入れようとしているのだ。
しばらくすると、黒鉄製の門が開いて、今日は先日紅茶を運んできた家政婦が俺たちを出迎えた。
「奥様が中でお待ちです」
愛想笑いくらいすればいいのに。
そう思いながら俺たちは家政婦の後をついて行った。
先日お茶を飲んだ客間に通されると、そこにはあの顔色の悪い夫人が席についていた。
俺は気味の悪さを押し殺して、会社員らしくきちんと挨拶をした。
「先日は失礼をいたしました」
「いえ、お気になさらないで、何度も足を運んでくださって申し訳なく思っておりますの」
俺の方を見ているが、意識は聡子の方に向いている。そんな気がした。
「今お茶をお淹れいたしますわ」
「恐縮です」
しばらくすると、さっきの家政婦が、湯気の立つ香り高い紅茶を運んできた。
「どうぞ」
「すみません。では頂きます」
本当ならさっさと用事を済ませて出ていきたいところだったが、俺にはやることがあった。
如月からこの屋敷の人間を、俺の超感覚を使って探るよう指示されていた。
俺は紅茶を口に含んで味わっている振りをしながら、感覚を研ぎ澄ませて目の前に座る夫人の臭いに集中した。
そしてすぐにあることに気付いた。
そういうことか。
あのドレスを預かった時に俺は血の匂いに気付かなかった。
夫人は香水を使っていた。恐らく特定の臭いを消すために調合された特注品だろう。
今の俺の嗅覚は、わずかなその臭いを嗅ぎ分けていた。それはほんの僅かではあったが、明らかに血の匂いだった。あの時の俺がドレスに付着した血の匂いに気付けなかったのは、この特別製の香水のせいだったに違いない。
そして今、血の匂いがしているのは夫人の口からだった。
呼吸のたびにわずかな血の匂いがしてくる。夫人が生血を口にしていたことは間違いないようだ。
しかし夫人からはそれ以外の不審な臭気は漂ってこなかった。
獣人ならば、獣人特有の臭気が、汗腺から自然と出る皮脂などからしてくるはずだ。それを感じられないということは、この女は食人嗜好を持つ普通の人間だということになる。異形種であろうと言っていた如月の見当が外れたということか。
ただの偏執狂の殺人鬼ならば、この先は警察の仕事だ。眷族は人間の犯す殺人には関心を示さない。俺も三島聡子の安全が保障されるのならば、相手が獣人の類でない限り、自分で手を下すのではなく警察に引き渡すことを選ぶ。
しかし俺の超感覚は先日ここに来た時よりも、この場が危険であることを告げていた。
体毛の一本一本が逆立つようなピリピリとした感覚。
月齢が満ち始めた俺の感覚が、ここに危険な何かがいるのだと絶えることなく警告していた。
ではその危険な感覚はどこからくるものなのか。
俺はその絡みつくようなおぞましさの正体を、限られたこの空間で探り当てようとしていた。
夫人は俺の正体には気付いていない。どちらかと言えば美味そうな三島聡子にくっついてきた不味そうなおまけぐらいに思っているのだろう。
夫人は俺ではなく聡子に向かって口を開いた。
「それでお洋服の染みは取れましたか?」
「はい。なんとか。ご確認ください」
聡子は持参したドレスを、書棚の近くのガラステーブルの上で広げてみせた。
聡子が夫人に確認してもらっている間、俺はさりげなく胸ポケットの携帯を取り出した。
「失礼、会社から連絡が入ったみたいです」
俺は小声で携帯で通話している振りをしつつ、夫人から見えないように背を向けた。
こうすれば、相手に気遣いをしているように見えるだろう。
実はこの時、こちらから如月にリアルタイムで動画を送れるように操作していた。
こうしておけば携帯のカメラを通して、今現在の状況を確認できるわけだ。
電話を切ったふりをした俺は、カメラのレンズ部分が露出するよう携帯を浅い胸ポケットに入れて、そのままドレスの様子を見に戻った。
「いかがですか?」
「ええ、見事に綺麗になっておりますわ。感心いたしました」
「そう言って頂けて良かったです」
夫人はそう言ったが、このドレスに関してさほど執着も無かったように感じられた。恐らく夫人のクローゼットにはいくらでもドレスの替えぐらいはあるのだろう。
「せっかく来て頂いたんだし、もう少しお話しません? わたくし暇を持て余していますの」
「ええ、では少しだけ……」
夫人は恐らく聡子の情報を掴む気だろう。そうしておけば、つけ回さなくとも聡子を待ち伏せて拉致できる。
銀色の縁取眼鏡の奥にある目に、隠しきれない執着の色が窺えた。
「会社はお忙しいのかしら」
「はい。まあ、小さな会社ですので年中忙しくさせていただいてます」
「そちらの女性の方、先日名刺を頂いたわね、三島聡子さんでしたっけ」
聡子と話したそうな雰囲気を察して、そうはいくかと俺はペラペラ関係のない話をし始めた。
「ええ、そうなんです。うちの期待の若手です。他にもうちの課には若手が六人ほど人がいまして、結構賑やかなんですよ」
「そうですか、楽しそうで羨ましいですわ」
「ええ、仕事は楽しくやるっていうのが我が課のモットーなんです。辛い時こそ笑えって、今時流行らないかも知れませんけど」
「いいえ、活気があってよろしいですわね。それで三島さんは、東京の人なのかしら? 訛りもないし、とても感じのいい話し方をされてますわね」
「新人教育で、お客様の前ではきちんとした標準語で話すという研修もするんですよ。とにかく外に出たら社員一人一人が会社の顔ですからね」
「徹底されてますのね。それで三島さんは……」
「あ、すみません」
そう言ってまた胸ポケットから携帯を取り出した。
如月からだった。動画で確認しながら、いいタイミングで電話を掛けて来たのだ。これも打ち合わせどおりだった。
「また上司からです。出ても構いませんか?」
「ええ勿論。お出になって」
いい加減俺との会話に嫌気がさしていただろう。俺が電話をしている間に聡子から色々聞き出そうとしている感じだった。
そうはいかないんだよ。
俺は動画のアプリを終了させて如月からの電話に出た。
「それで三島さんは……」
「あの、すみません」
俺は計画通りここで電話を夫人に差し出した。
「上司がこの度ご迷惑をかけてしまったのに、お伺い出来なくて申し訳ないと、せめてお電話で不始末をお詫びしたいと言ってるんですけれど」
「そうですか、では……」
夫人はやや苛立ちを顔に出して、俺の携帯を手に取って話し始めた。
「すみません、お手洗いお借りしてよろしいですか?」
夫人は一度会話をやめて廊下の突き当りだと教えてくれた。
俺は予定通りこの状況が作り出せたのに安堵していた。
如月からの電話は、俺を屋敷内でしばらく動き回らせるための工作だった。話を長引かせて時間を稼ぐと、あらかじめ打ち合わせしていた。
俺は廊下に出て、音もなく屋敷内を移動し始めた。
広い屋敷内には夫人と家政婦以外誰もいないのか、ひっそりとしていた。
俺は音もなく階段を上がると、いくつかある部屋の前で中の気配を窺った。
今の俺の感覚をもってすれば、ばったり誰かと遭遇してしまうことはまず皆無だろう。
嗅覚と聴覚、そしてわずかな空気の揺らぎさえも感じ取る肌の感覚を俺は駆使して、邸内を素早く探索して回った。
やはり誰もいる気配がない。
人間が住んでいる屋敷にしてはあまりに生活感がない。
人間の姿をした生き物が徘徊しているだけの屋敷。そんな不気味さが邸内には広がっていた。
俺はある部屋の前で立ち止まった。ドアが開いていて中の様子が伺える。
寝室のようだ。中央に大きなベッドが置かれてある。
家政婦がベッドメイクした後なのだろう。新品のようなシーツが掛けられており、まだ客の入っていないホテルの部屋を連想させた。
掃き出しの窓のカーテンが揺れている。
風で揺らいでいるだけだろうが、一応確認してみた。勿論誰もいなかった。
窓からはそのままベランダに出られて、そこからは屋敷の広い敷地が見渡せる。
俺はその広い敷地の一角に、不自然に建つ白いコンクリート造りの建物を見つけた。
外からでは高い塀で見えなかった場所で、庭からでは屋敷の陰に隠れていて見えない場所だった。
怪しい匂いしかしないな。
そう感じながら俺は急いで引き返した。
如月はきっちり三分引き留めておくと言っていたからだった。
もうすぐ電話が終わる。それまでに客間に戻らなければならなかった。
廊下に出た時、俺は階段を上がってくるわずかな足音に気付いた。
あの家政婦だ。
姿を見られるわけにはいかないが、早急に戻らなければ怪しまれる恐れがある。
俺は一旦寝室に戻って靴下を脱ぐと、掃き出しの窓からベランダに出て跳躍した。
音もなく芝生の上に着地した俺は、どこか一階の窓が開いていないか探す。
開いている窓はすぐに見つかった。小さな窓だったが、軽く助走して音もなく跳び込んだ。
普通の人がやったなら大拍手だろうが、俺にとってはこのぐらいの芸当は朝飯前だった。
俺が部屋に戻ったタイミングで、夫人は丁度最後の挨拶をしていた。
「ご丁寧にどうも。では失礼します。え、はい、では大上さんに代わりますね」
俺は手はずどおり、このタイミングで夫人から携帯を受け取った。
「あ、はい。えっ、またですか? ええ、分かりました。ではそちらに向かいます」
俺は電話を切って、ようやく三島聡子と話そうとしていた夫人に割って入った。
「三島君」
「はい」
「急用だ。島岡さんのとこでまたなんかあったみたいだ」
「またですか?」
流石に聡子も一瞬しぶい顔をした。
俺はまだ何か言いたそうにしている夫人に向かって、慌ただしく頭を下げた。
「すみません。我々はこの辺でおいとま致します」
「そ、そうですか、残念ですわ」
「この度は色々ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。これに懲りず今後とも弊社の商品をご愛顧下されば幸いです。それでは失礼いたします」
くそ丁寧な挨拶を残して、俺たちはそそくさと玄関を出た。家政婦に見送られて黒鉄の門を通って外に出ると、俺は大きく息を吐いた。
外の空気を吸い込んだ瞬間に、屋敷の中の空気が重く淀んでいたことにあらためて気付かされた。
「さあ行こうか」
「はい。島岡さんですよね」
「まあ取り敢えず車を出そう」
俺は車の中で島岡さんの件は方便だと打ち明けた。
聡子はなんとなく彼女なりに察してくれたみたいで、ほっとしたような表情を見せた。
その何気ないしぐさを見て、こうして無事に聡子をあの屋敷から連れ出せたことに俺は心底安堵していた。
聡子は狭い車内でグーっと伸びをして見せた。
「なんだか、息が詰まる感じでしたね」
「そうなんだ。あんまり長居したくなくってさ」
聡子は助手席でクスクスと笑い声をあげた。
「どうしたんだい?」
「いえ、係長も意外と器用なんだなって、新しい発見です」
「見直したかい? なあ三島君、ちょっと早いけど昼飯にしないか? なんだか腹減っちゃって」
「私もです。気が合いますね」
「食べたいものあるかい?」
「係長にお任せします」
「よおし。じゃあ肉を食いに行こう。今日は俺が奢るよ」
「やった。ではお言葉に甘えさせていただきます」
一仕事終えてほっとした反動だろうか。
今は可愛い部下と思い切り飯を食べたい気分だった。