第6話 打算と計画
休みが明けて月曜日、俺は三島聡子に声を掛けて、夫人のドレスの一件を終わらせるべく早速動き出した。
課長は仕事のことよりもそのクレームの対処を優先してくれと頼むように言って来た。下手をすれば多額の賠償をさせられる。打算的な考えだったが、賢明な判断だといえた。
俺と聡子は取り敢えず会社の車でクリーニング店を目指した。市内にある大手のクリーニング店。他では手に負えない汚れを落としきるノウハウがあった。
車に乗ってすぐ、三島聡子はあの暴漢たちから救ってくれた件でお礼を言ってくれた。
そしてお礼と一緒に、たまに差し入れてくれている甘い栄養ドリンク六本入りをくれた。
もっと仕事しろっていうことかな?
この娘、もしかしてこの甘いやつを俺が気にいっていると思っている?
くれるものだから、我慢してグイと飲んでいるだけなのだが、グイと行き過ぎて、その飲みっぷりに勘違いしているのかも知れない。
ここいらで訂正しておいた方がいいのかも知れないが、聡子は俺が喜ぶと信じているようで、その明るい笑顔と期待に応えなければとまた思ってしまった。
「うん。やっぱ、これが無いと駄目だよね」
「そうですよね。速攻で効いてきますよね。係長もそう思います?」
「ああ、まあね。ハハハハ」
なにがハハハハだよ。こんなとこで尻尾振ってどうすんだ。
はっきりしない自分に自己嫌悪を覚えつつ、やはりどういうわけかこの娘を特別扱いしてしまっていた。
俺も歳をくって角が取れて来たってことなのかな。
そんなことを思いつつ車を走らせる。
「係長って何かやってらしたんですか?」
唐突に言った聡子の言葉が、何を指しているのかは分かっていた。
あまりに鮮やかに暴漢を追い払ったあの技のことだろう。
不審に思われないよう、二、三発殴られておいた方が良かったのかも知れないが、無駄に殴られるのは歓迎できなかった。
「ああ、あれね、たまたまだよ。昔取った杵柄ってやつさ」
「何かの武道ですよね」
「合気道だよ。聞いたことない?」
「ありますあります。手を触れずに投げちゃったりとかするアレですよね」
まあそうだろうとは思っていたが、特に武道に関する知識は持ち合わせていないようだ。
下手に武道を齧ってトラブルに自分から巻き込まれていくよりも、そうなったときは逃げの一手をお勧めする。
特に女性の場合、多少腕に覚えがあったとしても、男相手では体重差や筋力差で技術差を覆されることの方が多い。
余程の鍛錬を積んでいるか、武器を持っていない限り、その差を越えることは難しいだろう。
「まあ、手を触れずにってのは、流石に無理だけどね。それにこのあいだのはたまたま運が良かっただけだよ」
「そうは見えませんでしたよ。係長は余裕って感じでした」
意外とよく観察している。流石、俺の見込んだ娘だけはある。
そうこうしている間に車はクリーニング店に着いた。
「緊張の瞬間ですね」
「早く緊張から解放されたいよ」
あくまでも前向きで明るい聡子とは対照的に、俺はやや暗い感じで応えた。
中に入るとすぐに、この間応対してくれた係員がビニールに入ったドレスを持ってきてくれた。
「どうです? 落とせましたか?」
「はい。それはもう。当社では他社で落とせない汚れもきれいさっぱり落として見せます」
貼ってあるポスターと一言一句同じセリフを口にした四十代くらいの男性店員は、自慢げにその仕上がりを披露した。
俺と聡子はインクの染みがあったであろう場所を、顔を近づけてジーッと見た。
「うん、完璧だ。謳い文句に違わぬ仕上がりだ」
「本当に完璧ですね。これでお客様も納得してくれそうですね」
恐らくクリーニング代は高くついただろうが、それでも弁償させられることを考えれば大した出費ではないだろう。
「あのー」
喜ぶ俺たちに、店員がやや申し訳なさげに何やら言って来た。
「染み抜きとは別に、ちょっと他の部分も綺麗にした箇所がありまして……」
「ええ、綺麗な状態にしてくださいってお願いしてましたから、勿論そちらもお支払い致しますよ」
「そうですか、じゃあ、その分も清算させていただきます」
店員はほっとした顔で、レジに向かって指を動かした。
請求額を見てたまげたが、このくらいで済んで正直ほっとしていた。
支払いを済ませて出て行こうとした時、聡子はなにげに店員に声を掛けた。
「他の汚れって酷かったんですか?」
「いえ、汚れ自身はそうでもなかったんですけど……」
店員はその後、あまり聞きたくなっかったことを教えてくれた。
「血が付いていたんです。丁度胸の辺りの裏地と、スカートの裾辺りに」
その言葉を聞いて、俺は眉をひそめた。
血が付着していたのなら何故気が付かなかったのだろう。あの屋敷に行った日は月齢九日だった。嗅覚も鋭敏になってきている時期でもあるし、ましてや血の匂いなら気付いていてもおかしくないはずなのだが……。
不意に襲ってきた不吉な感覚に、余計にこれから向かわなければいけないあの屋敷への足どりが重くなった。
俺はあの不気味な屋敷へと車を走らせながら、昨日、如月紫吹と話した内容を反芻していた。
如月の話では、あの屋敷に住む住人は、監視の対象になっている要注意人物らしかった。
と言っても警察のというわけではなく、眷属の間での話だ。
眷属は今でも人間を食べてその英気を養っている。
しかし眷属の食事は新鮮な死体が入るルートを通しており、例えば病院や葬儀屋からすでに死んでしまっている人間のみを調達しては食べているため、人殺しをしているわけでは無かった。
世間的に知られることの無い場所で上手く秘密裏になされている眷族の食事は、吐き気を催すくらい凄惨ではあるものの、生きた人間を襲っていないだけまだましだった。
だが、そのようなルールを無視して殺人を犯し、人肉を屠る輩が突然現れたと如月は言っていた。
どうやら我々眷族とは違う異形の種で、相手の情報が未だ殆ど掴めていない状態らしい。そして手をこまねいているうちに、じわじわと勢力を広げつつあるのだという。
かなりわかりにくい方法で人間を拉致し喰らっているみたいだが、そのうちに足がつきかねない。眷属にとっては殺人という倫理よりも、人間にそういった異形種が存在することを知られるのは、相当まずいことだった。
小さな火種が飛び火して自分たちの足元に火が点きかねない。
幹部同士の話し合いの結果、何とかしようと調査し始めていた時に俺と会ったことで、奴は渡りに船と関心を持ったのだった。
そんな危険な連中だと聞かされ、それでも逃げ出さないのはこの助手席に座る娘のせいだった。
如月の話と照らし合わせると、奴等はあの晩、三島聡子に狙いを付けたに違いない。
あの近辺で若い女が失踪する事件が何件も起こっているのだと、如月から聞かされた。恐らくそれらは全てあの家の住人がさらって料理したに違いない。
相当な金持ちみたいだから、金を使い様々な方法で拉致したのだろう。
トレーナーの二人組も、ただ聡子を連れてくるように命じられたに過ぎないのだと想像できた。
実は如月にはあのトレーナーの二人組について、すでに特定してもらっていた。
あいつらはそう言った手荒なことを専門に行っているプロで、暴力団の息のかかった格闘技団体のメンバーだった。
何度かあの屋敷に出入りしていたのを、屋敷を監視していた如月の部下が確認していた。
乗り込んでいって引きずり出し、二度と手出しできないように痛めつけることもできたが、如月に止められた。
あいつらに対して目立った行動をとれば、我々眷族が動き出したと警戒されて近づきにくくなる。
如月は俺にこのまま、あの不気味な屋敷に行って探りを入れて来て欲しいと持ちかけてきた。
そして最も俺が気にくわなかったのが聡子を同行させて屋敷に行って欲しいという頼みだった。
わざわざ危険なところに美味しい餌を持って行くってどういうことなんだと抗議したのだが、簡単に如月に論破された。
つまり、月齢が満ちて来た俺の体には生理的な変化が起こる。
人間は気付かないかも知れないが、我々獣人は鼻が利く。当然相手も我々同様に鼻が利くと想定できる。
もし匂いで俺が眷属の末裔であることを知られたら、そこで計画は破綻する。
金持ちの眷族が開発した狼人間の臭いを消す特製の中和消臭薬の錠剤を手渡され、朝から気味が悪いと思いつつ飲み込んでおいた。
その上で、三島聡子の体から溢れ出す魅力的な餌の匂いで嗅覚と思考を鈍らせておけば、気付かれることなく奴等の内情を探れると如月は判断したのだった。
如月の言うことを聞くのは気にくわなかったが、こうして協力しなければ奴らには対抗できないかも知れない。
奴等は俺のことは特に歯牙にもかけていなさそうだったが、一度目をつけた聡子を執拗に狙い続けるだろう。
実は奴らが三島聡子にこだわる理由を俺は知っていた。
俺は人間を食べたことは一度もないが、本能的な感覚だけでいうと、三島聡子は相当な上玉だった。
外見で可愛いとかそう言った見方ではない、純粋に肉や血として味わったとしたらそうだろうと想像できた。
人間を牛のように等級で評価するとしたら、この現代では平均点以下の人間が殆どだ。それは俺の優れた嗅覚で嗅ぎ分けられる。
肉は一様ではなく、個体ごとに生まれながらにして持っている資質というものがある。
味に関しては、もともとの資質がそれらの殆どを決定し、あとは若さ、運動量、生活習慣などに影響される。
若すぎる肉は水分が多すぎて味が薄い。歳をとった肉はぱさぱさしていてあまり美味くない。
軟かで程よく脂がのっていて、健康的に体が締まっていて、新陳代謝がいい極上の肉。それが聡子だった。
とはいっても俺は聡子の肉には興味はない。客観的な見地からそうだと言っているだけだ。
勿論、彼女自身、自分が美味しそうだなどとは気付いていないだろうが、聡子は眷属や、あの不気味な奴等にとっては誘惑に抗いがたいほどの魅力的な人間だった。
そして、どういう訳だか知らないが、貴族気取りの眷属たちは処女を好む。
なんでも性行為を一度でも行うことで、ホルモンのせいか肉質が変化してしまうらしい。
そして、俺の嗅覚の知らせる限りは三島聡子は処女だった。
誤解のないように言っておくと、クンクン匂いを嗅いで確認したわけでは無い。満月の日、たまたま近くに書類を渡しに来た彼女の匂いを、このいけない鼻が捉えてしまっただけのことなのだ。
察するに女子校、女子大へと進み、男子諸君とあまりそう言った経験をしてこなかったのだろう。
当然社会人になってからは言い寄ってくる奴もいただろうが、今のところはそういった噂は聞いたことが無い。
年頃の女の子だし、なかなか可愛いし、性格もいいのにな……。
誰かとそういう関係になってくれて、肉質が変化したらあの連中も諦めてくれるのだろうか。
俺は素直で明るく可愛げのある部下にチラリと目をやって、いよいよ来たる対面の時にゾッとしていた。