第4話 襲撃者
前にも何度か来た居酒屋。
安くてそれなりに美味しい海鮮居酒屋には、さっきまで会社にいた連中が五人ほどいて、聡子の到着を待っていた。
当然ながら俺のことは誰も待っていない。
人間の機微に無頓着な俺でも、お呼びでない上司のサプライズ登場に残念がっている空気を感じていた。
そんな微妙な空気にまるでお構いなしに、聡子は大物を釣り上げた釣り人のような無邪気さで俺の背中を押した。
「係長も参戦してくれました」
「お疲れえーっす」
なんだかこの娘、全く歓迎されていない俺を連れてきたのにちょっとやりました感がある。
あんまし空気読めない人なのか?
ピッタリ六人席の机の端に、愛想の無い店員がおまけの椅子を置いて行った。
通路の邪魔になりそうなところに居心地悪く座らされ、小さくなっている俺に、主任でちょっとカッコいい君島が、気を使ってか乾杯の音頭を頼んできた。
「係長。お願いします」
「あ、じゃ、手短に。お疲れ様、かんぱーい」
「かんぱーい」
やはり居心地の悪い席だった。
あんまし好きでもない生の魚を食べ、酔いもしないビールを飲む。
俺の体内には独特のサイクルを刻む時計がある。
それは天に浮かぶ地球の衛星の満ち欠けに関する時計だ。
月が見えている見えていないに拘わらず、俺の中の時計は正確に月齢を把握している。
そして今日は月が少し丸みを帯び始めた月齢十日の夜だ。
新月の時は殆どそこいらの人間と変わらない俺だが、この時期に差し掛かると、感覚がはっきりと分かるほど研ぎ澄まされていく。
今の俺はよほど強い酒を飲まない限り酔うことはない。
そして酔ってしまったとしてもすぐに素面に戻る。
肝臓の代謝が賦活化し、体内に入った毒を片っ端から無害化していくからだ。
そして月齢十二日を過ぎると俺は感覚だけでなく、肉体の外見的な部分でもちょっとした変貌をし始める。
とはいっても少し体毛が濃くなり、爪がやたらと伸びたり、わずかに犬歯が長くなる程度だ。
人狼としての生理現象なのだが、会社勤めをしていて人と会う機会の多い俺としては、あまり歓迎できない習慣だった。
そして恐らく、俺は満月の時は不死身になる。
試したことはないが、首を切っても死なないかもしれない。
今は厄介ごとは避けて通るようにしているが、若いときに何度かヤバイ奴らと渡り合ったことがある。
刺されて、銃弾を受けたが俺は死ななかった。
そして人間がか弱い存在であることを痛感したのだった。
飲み会の席で俺と積極的に絡もうとするのは三島聡子だけだった。
なんとなく気を使ってくれていた連中も、途中から話したい相手と話し出したので、座っている席と同じく最後はしっかり孤立したのだった。
そしてきっちり一時間で俺は席を立った。
「ごめん。そろそろ帰るわ。もう眠くって」
「そうっすよね。このところ係長頑張ってましたもんね」
ようやく席を立ったお邪魔な上司に、なかなかのモテ顔の君島は今日一番の笑顔を見せた。
前から勘づいてはいたが、この男は三島君に気がある。
やたらと俺とばかりと聡子が話していたので、早く出て行ってくれないかと焦れていたに違いない。
「悪いね」
苦手な社交辞令を口にして、君島に一万円を渡して席を立つ。
あとは若者だけで大いに盛り上がるだろう。
外に出ると、三島聡子が言っていたとおり小雨がパラついていた。
傘持ってきてないんだよな。
あまり濡れるのは好きではない。
俺は手にしていた薄っぺらい皮の鞄を傘替わりに走り出した。
五十メートルほど走ったところで俺は足を止めた。
右手に夜の十時まで開いている食料品店。
そうだな。家に帰って食い直すか。
肩の水滴を払い、店内に入ってまっすぐに精肉コーナーへと向かう。
生の魚をいくら食べても満たされない食欲。
一番大きな厚切りのステーキを買って食料品店を出てくると、思わず頬が緩んだ。
居酒屋に寄って高くついたけど、やっぱし、肉食いたいよな。
ずしりとしたレジ袋を鞄に入れようとしたその時だった。
「この匂い……」
月齢の上昇期にある俺の嗅覚は、そこいらの犬に負けないくらいに敏感だ。小雨で少しわかりにくくなってはいるものの、その匂いが何なのかすぐに分かった。
「三島君の匂いだ。でもどうして」
まだ飲み会は続いているはずだ。何か急用でもできて店を出たのだろうか。
俺は匂いのする方向を辿って行った。
どうやら駅の方に向かって行ったみたいだ。
「どういうことだ? まだまだお開きになりそうな感じはなかったはずだが」
人通りがまばらになってきだしたので、余計に匂いを辿りやすくなった。
なぜだか匂いはどんどん人通りのない裏通りに向かっている。
「おかしい。これはいったい……」
背中の毛が逆立つような感覚。
何か危険が迫っているときに感じる独特な感覚だった。
俺は一気に走り出した。
匂いを辿って人間のものとは思えない速さで薄暗い路地を駆け抜けていく。
普段はほとんど人の寄り付かない裏通り。誰もいない路地を走る俺の嗅覚がもうすぐそこだと告げていた。
そして走りこんだ細い路地に三島聡子はいた。
小便臭い暗くて狭い路地で聡子はおびえた表情でへたり込んでいた。
恐怖に震える視線の先には黒いトレーナーを着た男が二人立っていた。
二人はちょうど俺に背を向けるような感じになっていた。
「三島君!」
声に反応した男が振り向いた。
暗がりで、しかもフードをかぶっているので、顔ははっきりと分からない。
「係長!」
この緊迫した場面で役職を呼ばれたのに、妙なミスマッチを感じながら、俺は二人の男にゆっくりと近づいた。
トレーナーの下の体つきは容易に想像できた。
筋肉質な体系だ。腕が太く胸板が厚い。締まったウエストにぴっちりとしたズボン。太ももの筋肉がそれと分かるほど発達していた。
二人ともただの暴漢では無さそうだった。
実践的な格闘の場数を踏んでいる。そんな印象だ。
恐らくトレーナー姿の二人は、俺の実力を測りかねている。
この手の手荒なことに慣れていそうな奴らは、相手の力量を推し量る感覚が鋭い。
それは自然界で当たり前のように動物が身につけたものだ。
絶対に自分より強いものと闘ってはならない。それが生存競争を生きていくルールなのだ。
この二人は自然体で間合いを詰めてくる中年男の不気味さに、どうしていいのか迷っている。
俺の体重は65キロそこそこ。それに比べ、相手は90キロ以上はありそうな大柄な二人だった。
そして男たちは、ひょろりとした俺の体躯と、自分たちが二人であることで判断を誤った。
男の一人が一気に間合いを詰めて仕掛けた。
俺は殴りかかって来た腕を簡単に捌いた。
連続してもう一人も俺に蹴りを飛ばして来た。
何の恨みもない見ず知らずの相手に仕掛けて来た容赦のない突きと蹴りだった。俺はその陰惨な人間性に嫌悪感を滲ませた。
敢えて間合いの中に入り、相手の喉元に当て身を入れる。
実は俺はあんまり殴ったり蹴ったりが好きではない。
今はまだ半分程度の力しか出せないが、満月期に人狼であるその力を解放して人間に打撃を加えれば、肉がへしゃげ血しぶきが飛び散る。
それは圧倒的な怪力を有する者が弱者を踏みにじる残虐な行為そのものだ。
その血生臭さにかつての俺は嫌気がさし、こんな相手を前にしてもなるべくそうならないよう、ある武道を習得した。
それが合気道だった。
俺は一応合気道の有段者だった。
力のコントロールと同時に相手を崩す。対象の破壊で戦いを終わらせるのではなく、動けない状態にすることで決着をつける方法を身につけていた。
男達の突きと蹴りは鋭く正確で、俺が普通のおじさんなら、今頃この小便臭い路上でおねんねしていただろう。
しかし相手はしょせん人間だった。
攻撃を捌きながらパンチの流れた男の腕をとって投げ技に入った。
肘関節を極めた状態で螺旋状に体を回し一気に反転する。
男の体が宙を舞い、もう一人の男の体と重なった。
二人とも奇妙にもつれ合いながら路上に倒れ込む。
俺は男たちと間合いを保ちながら回り込んで、聡子と暴漢二人の間に割り込んだ。
「立てるかい?」
視線は男たちに向けたままそう訊いた。
「は、はい……」
下敷きになった男が上に重なった男をどかして身を起こした。
さっきよりも間合いを取っているのを見る限り、投げ技を見て迂闊に飛び込んでは危険だと判断したようだ。
男は遠い間合いで構えを作ると、今は軽くステップを踏みながらこちらに仕掛けるタイミングを計っている。
俺は半身に構えてスッと腰を落としたまま相手の仕掛けてくるのをじっと待つ。
しばらく男は攻めあぐねているようでこちらの様子を窺っていた。
やがて突然きっかけは訪れた。
「誰か! 誰か来て!」
聡子の必死の叫びが路地裏に響いた。
怯えきっていて出せていなかった声が、ようやく口から発せられた。
男は聡子の叫び声に突き動かされたかのように一気に間合いを詰めて来た。猛烈な左フックがこめかみに向かって疾ってきた。
まともに食らえばただでは済まなさそうな、そんな凶悪さを秘めたパンチだった。
だが相手が予想していなかった動きを俺はしていた。
避けもせず、受けもせず、俺は前に出ていた。
相手が間合いを詰めたのに合わせてこちらも間合いを一気に詰めたのだった。
男の放ったフックの的になるはずの俺の顔は、男のすぐ近くまで接近していた。きっと何が起こったのか分からなかっただろう。
俺は相手の顎に掌底を入れてのけ反らせると、そのままフックを放ったままの状態で間延びした腕を取った。
腰を切って反転すると相手の腕がグルンと回った。
肩と肘関節が極まった。俺はそのまま腕を切り下ろして相手を固いコンクリートに背中から落とした。
「げええ」
苦痛にうめき声を上げた男は、息ができないらしく、水槽から飛び出してしまった金魚のように大きな口を開けて顔を真っ赤にしていた。
先に投げられた男が立ち上がって近づいてきた。
恐らくさっきの投げ技で肘関節を痛めたのだろう。男は片腕をだらりとさせながら、俺に怒りの形相を向けていた。
俺はその血走った目よりも、片手に握られた鈍く冷たい光沢に嫌悪感を覚えた。握りしめた刃渡り二十センチほどのナイフが俺の方を向いた。
「やめとけ。そいつを使ったら俺も今までの様に済ますわけにいかなくなる」
「うるせえ」
緊張からくるものか、男の声はひどくしゃがれていた。
喉に貼りついているものを無理やり引っぺがして、やっとそう言ったのだろう。
流石に今の俺は不死身ではない。もしナイフが深く刺されば致命傷になりかねない。相手の出方にもよるが、一撃で急所に手加減なしで打撃を加えるしかなさそうだった。
男はナイフを俺に向けながら間合いを取り攻めあぐねている。たとえ刃物を持っていたとしても、先ほどの技を目にすれば警戒するのも当然だろう。
しばらく睨み合っていると、思いがけず路地の向こうから声が聴こえて来た。
さっき聡子が叫んだからか、それともたまたまそうなったのか、流石にまずいと思ったのか男はナイフを胸元に収めた。
先にナイフを持っていた男が踵を返して走り出すと、もう一人の男も肘を押さえながら立ちあがり、先に逃げ出した男の後を追うように路地の奥へと消えた。
先ほど聴こえて来た声はいつの間にか聞こえなくなっていた。恐らくこの路地のどこかにある店に入って行ったのだろう。
俺は振り返り、脚をブルブル震わせている聡子に向かって、できるだけ普段の口調を意識しつつ話しかけた。
「大丈夫かい?」
「はい……」
何度か頷いた聡子は、路上に落ちていた傘を拾った。
自分の傘ともう一つ、コンビニで売っていそうなビニール傘だった。
その傘をまだ震えている手で俺に差し出した。
それを見てどうして三島聡子が居酒屋を出て来たのか理解した。
俺が店を出た後、雨に降られていないか心配して追いかけてきてくれたのだろう。
「山崎さんが折り畳み傘を持っていて、この傘を貸してくれたんです」
「そうか、助かったよ」
三島聡子の髪は少し乱れて、濡れてしまった頬におかしな感じで張り付いていた。俺はポケットにあった清潔なハンカチを彼女に渡した。
「少し拭いた方がいい」
「ありがとうございます」
二人ともしっかり濡れてしまっていたが、そのあと傘はありがたく貸してもらった。
見上げた狭い夜空には雲はあるものの、もう雨は殆ど止んでしまっていた。