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狼はそこにいる  作者: ひなたひより
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第2話 不吉な家

 俺と三島聡子が問題の家に着いたのは、夕方五時を少し過ぎた頃だった。

 昔からありそうな住宅街。

 古い家が多いが、余裕のある広い土地に大きな家が立ち並ぶ高級住宅地だった。

 その中でもとりわけ広い敷地に連なる高い塀を眺めて、俺は大きなため息を吐いた。

 堅牢な黒鉄の門。そのわきの石柱には深田と表札が上がっていた。

 たかが二百円程度のボールペンの液漏れが、どのような服にインク跡を付けたのかが問題だった。

 量販店で購入したシャツであることを祈っていたが、あまり期待はできそうになかった。

 俺と三島聡子は車を降りて、取り敢えずインターフォンを押した。

 高い塀に囲まれたその敷地の中が、どうなっているのかは見当もつかない。

 ただ聡子が手に提げている三千円程度の菓子折りが、いかにも頼りなさげに見えてしまう圧迫感は払拭しがたかった。

 流石に優秀な聡子でもこの場面は心細いだろう。

 ここは頼りがいのある上司として、クレーム対応の手本を示してやらねばと少しは頭の隅で思っていた。


「はい」


 インターフォンから返答があった。女の声だ。

 俺は緊張していそうな聡子より先に対応した。


「磯嶋文具の大上と申します。島村雑貨店で購入して頂いた弊社の商品のことで謝罪に伺わせて頂きました」

「お待ちください」


 あまり感情を感じさせない声だった。

 あまりに腹立たしくて、感情を押さえているのだろうか。

 こうしてクレーム対応に直接お客様の自宅に謝罪しに行ったことは、今までも何度かあった。大概は誠心誠意謝れば相手も怒りを収めてくれるものだが、今回は一筋縄ではいかない予感があった。

 それはインターフォン越しに声を聴く前にそう感じていた。

 高い塀の向こうに見える建物の二階部分、くすんだ白壁に赤茶色の洋風屋根瓦。殺伐として、どこかしら生活している人のイメージの湧かないその屋敷に、俺は言い知れぬ違和感を感じていた。

 俺は自分で言うのもなんだが、常人には無い鋭い感覚を持っていた。

 嗅覚、聴覚、そう言ったものも超人的だと自負していたが、それとは違う何かを察知する感覚、いわゆる第六感というものが自然と備わっていた。

 それは自分の身に危険が迫っている時に、その感覚が特に強くなる。

 今すぐここに菓子折りを置いて、車に乗ったほうがいい。

 俺の感覚はそう告げていた。


「お待たせしました」


 黒鉄の鉄門が開いて、姿を見せたのは四十代後半くらいの眼鏡をかけた大人しそうな夫人だった。

 肌の白さが際立っている。あまり外に出たりしないのだろう。

 瘦せ型の身にベージュのスカートと薄い紫のカーディガンを羽織っている。

 屋敷の中は暖かいのだろうが、夕方になって冷え込んできた今の感じで、この格好で話をしていたらさぞかし寒いだろう。

 夫人はチラと俺を一瞥した後、聡子に目を向けた。

 気のせいだろうか、無表情な夫人の顔に一瞬だけ何かを見たような気がした。

 俺は手短に用件を済ませることにした。


「すみません、いきなり押しかけまして。この度は弊社の商品の不具合でご迷惑をおかけし大変申し訳ありませんでした」


 先に名刺を渡した後、俺は聡子から菓子折りを受け取り、そのまま差し出した。


「これは、謝罪の気持ちとしてお持ちしました。どうぞお納めになってください」

「ご丁寧にどうも……」

「それで、汚してしまった服のことなんですが……」


 そこまで話した時に夫人はブルっと身を震わせた。


「ここではなんですので、どうぞ家の中にお上がりください。インクの付いた服をお見せしますわ」

「はあ。ではお邪魔させて頂きます」


 屋敷の中に通された俺たちは、その敷地の広さと屋敷の大きさに圧倒されていた。

 高級住宅街で区画整理された環境で、この屋敷だけは異彩を放っていた。

 恐らくこの住宅地ができるずっと前からある土地だったのだろう。

 一番はずれにあるこの敷地は奥行きがあり、大きな洋風の屋敷はその敷地の一角に建っていた。

 敷地の中は恐らく庭師の手によって管理されているのだろう。

 冬場も葉を落とさない刈り揃えられた木々の枝と、見事に清掃の行き届いた落ち葉の少ない通路に、そのこだわりと徹底ぶりが見て取れた。

 重厚で重たそうな木製の扉を開けて屋敷の中に招かれ、いわゆる客間という部屋に通された。

 夫人があれほど薄着だったのも頷ける。

 空調は俺には少し熱いくらいにコントロールされており、緊張のせいもあってか、なんだか喉も乾いてきた。


「どうぞ」


 湯気の立つカップを二つ運んできたのは婦人ではなかった。

 なかなか今時、家政婦を雇う家も少なかろうが、どうやらこのおおよそ五十歳くらいのやや中年太りの小柄な女は、この家の雑事を任されているらしい。ぎょろりとした両方の目が、あまり可愛げのない小型犬を連想させた。

 家政婦は俺たちみたいにクレームの対処に来た者でも、客を扱うように香り高い紅茶を置いて部屋を出て行った。


「いい香り」


 聡子は上品な陶器のカップから立ち上る湯気をすうっと吸いこんで、感想を述べた。


「確かに」


 そのうちにあの夫人が洋服を手に持って部屋に入って来た。

 その後にさっきの家政婦が夫人のためのカップを運んでくる。

 俺たちはもう一度深く一礼し、夫人が席に着くまで待った。


「お座りになって。まあお茶でも召し上がって下さいな」

「すみません。では頂きます」


 席について紅茶を飲むと深い味わいが口の中に広がった。

 紅茶の茶葉に関心はないし、それほど詳しいわけでは無いが、俺はすべての感覚が人間に比べて鋭い。

 味覚もその例外ではなく、舌の上に載せた琥珀色の液体が、そこいらで簡単に手に入れられる代物ではないことにはすぐに気付いた。


「おいしい」


 素直にそう口にした聡子に夫人は目を向けた。

 その視線にはなんというか絡みついていくような独特の雰囲気があった。

 ひょっとするとこの婦人、女性に関心のあるタイプの人なのかも知れない。

 俺はその世界にはまるで疎かったが、そういった人は近年増え続けているらしい。そういう性癖の人にどんなに熱を上げて男が関係を迫っても全く相手にされないのだろう。

 俺はそんなくだらないことを、この緊張する場面で考えてしまっていた。


「あの、汚してしまったお洋服というのはその洋服ですか?」

「ええ、見て下さる?」

「失礼します」


 席を立って洋服についている青いインクの染みを観察した。

 間違いなくインクの染みだった。しかし染みよりも洋服の方が問題だった。

 こんなの何時どんな場面で着るんだというくらいのドレスだった。

 量販店のシャツではないだろうと覚悟はしていたが、まさかこんなに高そうな代物だとは思いもしなかった。

 弁償したとしたら幾らぐらいするのだろう。

 考えても埒が開かないのは明白で、俺はそのドレスの価値をおずおずと尋ねた。

 敢えてその価値をおおよその金額にしてくれた夫人の言葉に、紅茶の香りも味わいも吹っ飛ばされた。

 それは俺の年収をさらに超える額だった。


「あの、申し上げにくいのですが、そのドレスお預かりして、わたくしどもで染み抜きに出させてもらえないでしょうか」


 可能性はどうあれ、それ以外手はない。

 何を考えているのか分からない夫人の目を俺は伺った。

 眼鏡の奥に何を潜めているのか伺い知れないものの、夫人はあっさりと了承してくれた。


「よろしいですよ」


 意外とあっさりした返答に、俺もそうだが隣の聡子も安堵の表情を浮かべた。

 そしてドレスを預かると、またこちらから連絡させていただきますと残して俺たちは客間を出た。

 部屋を出た俺たちの前に一人の男が立っていた。

 痩せ型で顔色の悪い男だった。少し眼球が飛び出した面長の顔は馬面と呼ぶにはピッタリだった。

 今帰宅したのだろう。黒いコートを着て無言でこちらを見ている。

 いや、男の目は明らかに聡子に向けられていた。


「あなた、おかえりなさい」


 夫人は夫であろうその男の鞄を手に取った。

 男は夫人に黒い皮製の鞄を手渡すとボソリと何かを夫人に囁いた。

 ゾワリ。おれの背中の体毛はその時逆立った。

 俺は男に今回の粗相を丁寧に詫びた後、聡子を連れて急いで屋敷を後にした。



 帰りの車の中、もうすっかり日の落ちた県道を俺の運転する車は疾走していた。


「どうしたんですか?」


 俺が何もしゃべらないからだろう、怪訝な顔で助手席の聡子はそう聞いてきた。


「なんだか疲れてさ」


 そう応えながら俺は屋敷を出る前に聞いたあの言葉を反芻していた。

 俺には人間の及ばない超感覚があり、聴覚も特別製だ。

 そう、俺には聞こえたのだ。

 最後にあの男が呟いた一言を。

 男はこう言ったのだ。うまそうだと。

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