第14話 少女と青年
「私が中学二年生の時の話です。当時私が通っていた県立中学は凄く荒れていて、私は陰湿ないじめに耐えられず、一時学校に通うことができずに家に引きこもっていたんです……」
昔の身の上話が始まり、俺は聡子から不登校であったことを聞かされるも、ハンドルを握ったまま話を聞いていた。
聡子は女子グループの嫌がらせを受けていた。
それは聡子に交際を申し込んできた男子をフッたことから始まった。
その男子はそのあとすぐに別の女子と付き合い始めた。
本命の三島聡子が望み薄なのを分かっていて、フラれて早々に別の女子と付き合い始めたのだった。
だがそこにおかしな噂が流れた。
聡子にフラれた男子生徒が本命ではない今の彼女と妥協して付き合っていると、フッた聡子自身が流しているとデマが流れたのだ。
実際は男子生徒自身が、友達に軽い冗談で話したことが噂になったみたいだが、相手の女生徒はその噂を鵜呑みにして聡子に陰湿ないじめをし始めた。
聡子はノイローゼのような状態になり家に引きこもるようになった。
それでも相手の女生徒は誹謗中傷をネットで広め、聡子は自分の居場所を失っていった。
ある日学校から呼びだされて、皆が下校してから今後のことを先生と話し合った。その帰り際、聡子を三人の女生徒が待ち伏せていた。
あの陰湿ないじめを繰り返していた女生徒とその仲間だった。
逃げやがって、卑怯者と罵倒され、穿いてきた靴はどこかへ隠されてしまっていた。
聡子は来客用のスリッパをはいて、泣きながらもう暗くなった家路を辿った。
帰り道にある廃ビル。
もうすぐ取り壊されるこの六階建てのビルの屋上には、子供の時に親に何度も連れてきてもらったキッズコーナーがあった。
この時の聡子はまともな心理状態ではなかった。
この廃ビルを上がれば、今もそこにはあの楽しかった時間があるのではないか。携帯のライトで足元を照らしつつ、そんな妄想を抱きながら埃だらけの階段を上がった。
そして屋上には何もなかった。
暗い夜空に月が出ていて、冷たい空気に白い吐息が舞っただけだった。
聡子は泣いた。
みじめなスリッパに涙をたくさん落とした。
ふと満月に照らされた蒼い世界を屋上から覗いてみたくなった。
六階建てのビルの屋上からは遠くまでよく見渡せた。
聡子はスリッパを脱いだ。
靴下の裏に、硬くてひやりとした感覚を感じた。
聡子はもう涙を流してはいなかった。
「もういいや……」
そう呟いて真っ蒼な世界へと足を踏み出した。
無重力のあとに落下の感覚が襲ってきた。
それからすぐに鈍い衝撃と何かが砕ける音がした。
しかし痛みはやってこなかった。
そして聡子は何が起こったのかを知った。
飛び降りてすぐに感じた包み込まれるような感覚。
そんなことが可能なのかは分からない。しかし誰かが聡子を空中で捉え、庇いながら落下したのだ。
そして今まさに、聡子の体はその誰かの腕の中にいた。ピクリとも動かない見知らぬ誰かが自分を抱え込むように倒れ込んでた。
聡子は身を起こして、自分を庇って地面に激突したその人物を呆然と見下ろしていた。
あの何かが砕ける音はこの人の頭が砕ける音だったんだ。
完全に息絶えている血まみれの人物を前に、聡子は声を上げることすらできずにいた。
心臓がバクバクとなっている。自分のものかと疑わしいほどの荒い息遣いが口から漏れ出ている。
震える手でポケットからやっと携帯を取り出した。
取り出したはいいがどこにかけていいのかすら浮かんでこない。
必死にダイヤルしようとした時だった。
不意に手を掴まれた。
「ひっ!」
悲鳴は出なかった。ただ口から漏れ出た息が鋭く音を立てただけだった。
聡子の手を掴んだのは、まぎれもなく倒れ込んだままの人物の手だった。
「電話は掛けるな。ややこしくなる」
月明りの下、血まみれの顔でそう言った。
「ハンカチ、持ってるか?」
「は、はい」
ポケットのハンカチを手渡すと、身を起こした血まみれの人物は、顔にべっとりと付いていた血をゴシゴシ拭き始めた。
何とか顔の判別がつく程度になったので、どういった人物なのかと顔を覗き込んだ。
「悪いな汚しちまって」
「いえ、そんなことより平気なんですか?」
「ああ、何ともない」
「どうして?」
「説明しないといけないか? 助けてやっただけで十分だろ」
月明りの下で胡坐をかいたままニヒルに笑ったのは、二十代半ばくらいの男だった。ハンサムではないが、少し野性的で愛嬌のある顔立ちだった。
「あー痛かった。あんな高いとこから落ちるもんじゃないな」
男は首をボキボキ鳴らしてさっさと立ち上がった。
「もうあんなとこから跳ぶんじゃないぞ。じゃあな」
そう言って手を振って去ろうとする男を、聡子は咄嗟に引き留めた。
「ちょっと、ちょっと待ってください」
「なんだ? まだなんかあるのか?」
ちょっとぶっきらぼうだが、悪い人では無さそうだった。命を助けてくれたのだから、たいそうな善人に違いないのだろうが、その時はそこまで頭が回らなかった。
「えっと、その、あなた誰なんですか?」
「は? 名乗り合っても仕方ないだろ。俺はまずい所を見られたわけだし、君は変な所を見られたわけだし」
「そうですよね。お互いにちょっと人には言えない所を見てしまってますもんね」
「そういうこと。じゃあな」
あっさり去って行こうとする男を、聡子は再び呼び止めた。
「ちょっと待って!」
「なんだよ。まだ何かあるのか」
「えっと、じゃあ、名乗り合うのはやめといて、ちょっとお話でも……」
「なんだ? 暇なのか? まあ俺も暇と言えば暇だけど」
「じゃあちょっとだけ話しましょうよ。ささ、こちらにどうぞ」
「じゃあちょっとだけな」
工事の人たちが設置した椅子に並んで腰かけ、聡子は死なない不思議な男と話をしたのだった。
「とりあえず、ありがとうございました」
「ああ、まあ良かったよ」
それだけでピタッと話が途切れた。しばらく引きこもっていたせいもあってあまり会話は得意でないのだ。
何も口にしなくなった少女に待っていられなくなったのか、男の方から質問してきた。
「いくつだ?」
「あ、十四歳です」
「中二か?」
「はい」
「そうか、中学生が夜中にウロウロしてたら駄目だろ」
「あ、はい。すみません」
何だか説教臭い。若そうだけど考え方は老けているみたいだ。
「お兄さんはお幾つなんですか?」
「おれ? 二十五だけど」
「へー」
「へーってどっちの意味なんだ?」
なんとなく話しやすい青年につられて、聡子は久しぶりに笑みを浮かべてしまっていた。
「そんでまあ、言いたくないなら言わなくっていいけど、なんであんなとこから飛び降りたんだ?」
ズバリ聞かれて、躊躇いもあったものの、聡子は今までのことを青年に全て話した。まるで知らない青年だからこそ、かえってそんな話ができたのかも知れない。青年は相槌を打ちながら少女の話に耳を傾けていた。
「そうか、そりゃ災難だったな」
「はい……」
「そんでどうするんだ?」
「それは……」
いい解決法など持ち合わせていなかった。こうして助けてもらっても、あの陰湿な毎日が消えてしまうわけではなかった。
言葉が何も出なくなったとき、青年が口を開いた。
「逃げるが勝ちっていうぜ」
「え? 逃げたら負けでしょ」
「いいや違う。逃げても勝つ場合だってある」
何を言いたいのかと青年の横顔を窺っていると、またおかしなことを言い始めた。
「嫌いな生き物ってなんだ?」
「え? 蛇は苦手ですけど」
「そうか俺もだ。じゃあ蛇のいっぱいいるちっさい部屋に君が入れられたとしよう。そいつらを叩きのめしてそこに居たいって思うかい?」
「いいえ、そんな部屋に入れられたらすぐに逃げ出すわ」
「だろうな、俺もそれに賛成だ。今君が置かれてる環境がまさにそうなんじゃないのか?」
「そういえば……」
「だろ。周りの蛇と闘って生き残るより、さっさとそこから退散する方法を考えたほうがいい。それと君は十四歳だろ、じゃあ今がチャンスじゃないか。自分でこれからを変えられるだろ」
「これからって?」
「受験さ。勉強さえすればいいだけさ。今いる周りのやつらはそのままごみ溜めに移っていくだけだろ。その点君はちがう。あいつらの絶対届かない場所に行けるし、その環境の中で新しい生活を送っていける。もう終わりだって嘆いていた君は今ここで俺と地面に激突して終わったんだ。明日からは俺に出会ったあとの新しい君がスタートするんだ」
妙に説得力のある青年の言葉を、聡子は黙って聞いていた。
「殺してもくたばらない俺に君は出会ったんだ。これから先もきっと不思議なことが待ってる。それを楽しみにしておいたらいい」
「楽しみ……か……」
「ああ、これから君が走り始めたら目まぐるしく景色は変わっていくさ。その中には今まで味わったことのない喜びだってあるだろう。君は可愛い顔してるし、恋人だってすぐにできるさ」
ハッキリと可愛いと言われて聡子は赤面してしまった。
そして青年はスッと腰を上げた。
「そろそろ行くよ。なかなか楽しかったよ」
「あの、お礼も何も出来ないですみません」
「じゃあ、このハンカチ貰っとくよ。どうせもう使えないだろ」
「あ、はい。そんなもので良ければ差し上げます」
青年は血に染まったハンカチをポケットにねじ込んだ。
「じゃあな」
「待って」
思わず聡子は青年を引き止めていた。
ほんの少し話をしただけの青年だった。
それでもどうしても彼が去って行くことに耐えられなかったのだった。
「また会える?」
思わず口にしてしまった言葉に聡子自身が戸惑っていた。
青年はほんの少し言葉を選んでからこう言ったのだった。
「ああ、いつかまた君に助けが必要な時に駆け付けるよ」
青年は最後に眩しい月光を浴びながら笑顔を見せた。
「また会おう」
そして青年は高い塀をしなやかに跳躍して消えていった。
聡子の話を聞き終えて俺は言葉を失っていた。
口の中の渇きをましにしようと、まだ少しだけ残っていた苦い缶コーヒーに口をつけた。
「三島君、君は……」
「はい。係長が不死身なのを前から知っていました」
これでつじつまが合った。俺の血まみれの姿に動じなかったことも、今回の騒動の全貌をすんなり受け容れたことも。
目まぐるしく信じられないようなことが起こったが、死んだはずの人間が生き返るという奇跡を、かつて目撃している聡子にとっては、許容の範囲だったということだ。
「君って娘は、本当に人が悪いな……」
「人が悪いのは私だけじゃありませんよ。係長だって酷いじゃないですか」
「俺が? どうして?」
拗ねたように俺を睨む聡子に、ちょっと可愛いなと思いながら聞き返した。
「だってそうじゃないですか。入社してから二年半も私のこと、気が付かなかったでしょ」
「あ、そういうことか。確かにそうだ」
「失礼しちゃうわ」
俺が長い間気付かないものだから相当鬱積していたのだろう。聡子は分かり易くそっぽを向いた。
「しかし偶然だね、うちの会社にたまたま入るなんて」
そのひと言で聡子の機嫌がますます悪くなった。
ブスッとした顔で更なる不満を口にした。
「なに言ってるんですか。偶然なわけないじゃないですか」
「え? 違うの?」
「合同就職説明会のブースに係長を見つけた時に、私はそれはもう嬉しくて嬉しくて、予定していなかった磯島文具のブースに駆け込みましたよ」
「あ、そうだったの?」
「その時、親切丁寧に私に会社説明をしてくれたのって係長でしたよね。憶えてないんですか?」
「いや、憶えてるよ。やっと興味を持ってくれた学生さんに熱弁をふるった気がする」
「会社の説明を延々とするだけで、まるで私に気付いてくれないし、かといってあの場ではプライベートな話を出来そうもなかったし」
俺の知らない所で色々とジレンマを抱えていたということか。しかしよく俺の顔を憶えていたもんだ。
「どうしても話をしたくって、他社の内定を蹴って係長を追いかけて来たのに、入社しても全然気付いてくれないし、おまけに態度もよそよそしいし、いつ気付いてくれるんだって、もどかしくってもどかしくって」
「いや、そんな理由で? 文房具に対する熱い情熱を面接のときに語っていたのは何だったの?」
「あれは方便です。どうしてもこの会社で係長と一緒に仕事がしたくて、つい熱くなってしまっただけです」
「なんてこった。そんな理由であれだけの高学歴を無駄にしてしまうなんて……」
「無駄なんかじゃありませんよ。仕事も結構楽しいし、係長と一緒にいられるし」
「はあーーー」
俺は大きなため息をついた。優秀で気の利く我が課の可愛い女子社員は、まあまあなストーカーだったわけだ。
今なら、聡子がやたらと俺に愛想が良かったことも合点がいった。
「あの時の少女が君だったとは……」
「はい。私あれから係長のおっしゃってたとおり頑張ったんですよ。別の中学に移って、とにかく必死で勉強しました。おかげさまで有名私大を首席で卒業出来ました」
「それは俺のお陰でも何でもないよ。君がそれだけ頑張ったからさ。しかしその才能をこんな会社に捧げるなんて勿体ない」
「そんなこと言ったら係長だってそうじゃないですか。不死身の超人なのにこんな普通の生活してるなんて」
「俺はこれでいいの。気楽なのが好きなんだ」
「その割には上からと下からに挟まれて大変そうですよね」
「まあ、そうだけど……」
その辺りは聡子の言うとおりだった。この娘、俺のことを良く分かっているようだ。
「でもいいんです。今の私のことも、係長が私のこと忘れてしまっていたことも、そんなことはどうでもいいんです」
俺はドキッとした。それは俺のシフトレバーを握る手に聡子の手が触れたからだった。
「あなたは約束を守ってくれた。私はそれが嬉しいんです」
「約束って……」
「あなたは言いましたよね。いつかまた私に助けが必要な時に駆け付けると」
俺の記憶には無かったが、聡子はその言葉をちゃんと憶えていたのだ。
遠い昔にちょっとした気まぐれで少女にかけた、気の利いたひと言を彼女は大切にしてきたのだった。
俺は自分でも忘れ去っていたその約束が、実際に起こった彼女の危機を救うべく果たされたことを、不思議な気持ちで受け止めていた。
「ありがとうございました……」
重ねられた聡子の手のぬくもりが心地いい。
俺はあの日の少女に再びもらったお礼の言葉を、感慨深く聞いていた。




