第1話 はぐれ狼
おぼろげな頭で目を覚ました俺は、少し開いた頭上の窓から見える空に目を向けて、ようやくいつの間にやら晴天になっていることに気がついた。
乗り慣れた商用車の後部座席。
膝を曲げて眠るにはちょうどいい空間で、体を伸ばすわけでもなく伸びをした。
このところ残業続きだった金曜日の午後。
たいした用でもなかったが、誰でもできる配達役を買って出た。
俺は時々、こうして時間を見つけては、しばしの睡眠を愉しむ。
木枯らしが舞う十二月、冬の装いが日毎に濃密になるこの時期でも、晴れている時の車の中は快適そのものだった。
ガソリンを炊いて空調に頼らなくとも車内は暑いくらいだ。適当に窓を開けておけば居心地の良いプライベートスペースになる。
時計を見ると午後二時を回っていた。
俺はここで、かれこれ一時間以上眠りこけていたことを知った。
「さて、そろそろ帰りますか」
ボソリとつぶやいて身を起こす。
フロントガラスが運転に支障をきたすほど白く曇っている。
人間一人の発する水分というものは、なかなか大したものだ。
呼気や汗、人体を構成するものの中で一番多いのが水だ。子供で約70パーセント、成人は約60〜65パーセント。人間はほぼ水でできていると言ってもいい。
せっかく見晴らしの良いこの場所で昼寝をしていたのに、すりガラスのようになった視界では台無しだった。
俺は後部座席のドアを開けて外に出ると、ウーンと伸び上がってから、なかなかの眺望に目を向けた。
ここを気に入っているのは、今見ている高台の眺望があるからと、車を停め易いからだ。
そして会社に戻るのにもそれほど遠くない距離。
しばらく景色を眺め満喫した俺は、車の運転席に乗り込んでエンジンをスタートさせた。
戻ったらまたやりかけの仕事をして残業だ。
大して大きくもない文具メーカーで微妙な役職をさせられている身なので、会社の、というよりかは上司の意向には逆らえない。
別に世間で騒がれている人間を奴隷のように扱う黒い企業ではないので、その分給料はもらえるわけだ。
文句をいう筋合いもないし、上司も文句を言われる筋合いはない。
それを望んで社会に馴染み、誰にもうしろ指さされることもなく、今のところ生きている。
こういう生き方というのが、この社会の大多数を占める人間たちの生き方なのだろう。
人間たちという表現をしたのは、俺がそういった類のものではないからだ。
俺の名は大上琉偉。
実は俺は普通の人間ではない。
こうして人間社会の中に溶け込んではいるが、大昔に現れた眷族の末裔だ。
伝承の類で聞き及んだこともあるのではないだろうか。俺は狼人間という希少種なのだ。
昔は神のように崇拝されたり、悪魔だと畏れられたり、信仰の対象と恐怖の権化の間を行ったり来たりしていたらしい。
実際、俺のご先祖様はろくなものでは無かった。
人間の上に君臨し、犯し、喰らい、好き放題やっていたみたいだ。
嫌われてこの世から一掃されても文句は言えまい。
そういった古の子孫、今では絶滅危惧種となった獣人の残党、それが俺だった。
しかしそんな古くてかび臭い、ご先祖様が行っていた凄惨な風習を、俺は全くするつもりはない。
人間社会に紛れて、仕事をして報酬をもらい、普通の人々がそうしているであろう生活をする。
こうしていれば理不尽な略奪もする必要がないし、凄惨な場面には滅多とお目にかかることはない。
そう、俺はそれでいいのだ。
だが、時折この世界には予測できないことが起こる。
ただ機嫌よく歩いているだけなのに、鳩が頭の上にフンを落としてくるみたいに。それはなんの前触れも、予感さえも感じさせずに突然起こる。
そしてこの日、また会社に帰って残業かと車を走らせる俺にかかってきた課長からの電話。
それは遠く高い空から何者かが落としたフンが、俺に向かって落ちてくるはじまりの電話だった。
「おい、今どこだ?」
運転中なので携帯をスピーカーに切り替えて俺は応対する。
「ああ、今、北田辺の橋の近くです。後三十分くらいで戻れそうです」
前方に連なる信号待ちの車の列に目を向けて、俺は余裕を見てそう応えた。
課長は俺がどこかで一息入れていたのを察しているみたいだが、そのことには触れずに、ちょっとした頼み事をしてきた。
「そこから橋本文具店に寄って、三島くんを乗せてやってくれないか? 今ちょうど打ち合わせが終わったと連絡があった」
「ええ、分かりました。拾って帰ります」
「悪いけど、そのまま彼女と島村さんのところに行ってくれ。途中で手土産を買ってな」
課長がなぜ電話してきたのかこれで分かった。
島村というのはうちの文具を取り扱ってくれている、雑貨店の店主だ。
昨日、電話連絡があって、うちの課の新入社員が対応していた。
俺は別件ですぐに席を立ったので、その後のことを知らなかったが、電話の感じではどうやらクレームに違いなかった。
新入社員の彼では対応がままならず、入社3年目の三島聡子が対応したのだろう。
だが女性社員だけでは心許ないと思い、俺にこんな電話をかけてきたに違いなかった。
「わかりました。和菓子の方がいいですか?」
「そうだな。まあ、お前に任せるよ」
俺は指示器を出して右に曲がると、三島聡子がいる橋本文具店に向かった。
十分もかからずに到着した俺を、店先で待っていた三島聡子は申し訳なさげな微妙な笑顔で迎えてくれた。
「すみません係長。外出中だったのに」
「いや、いいんだよ。それより島村さんのことだけど」
「はい。実は……」
運転しながら、ことの詳細を聡子から聞かされた。
どうやら納品したボールペンのインクが何本か漏れたらしい。
製造工程でなんらかの不具合があって出てしまったエラー品だったが、購入したお客様の服を汚してしまったらしい。
こうなると回収して新しいものと入れ替えるだけでは済みそうに無かった。
先方が相当腹を立てているみたいだと、聞きたくもない情報を聡子は細かく説明してくれた。
「何か手土産をって課長が言ってたよ」
「あ、この先に和菓子店がありますよ。島村さんの好きなやつ、私知ってます」
なかなかよく気が付いて、頼りになる部下だ。
三島聡子。大学を卒業してすぐにうちの会社に入った優秀な女子社員で今年で3年目になる。
そこまで背は高くないが、その容姿は高校時代から女子バスケをやっていたためか背筋がスッと伸びたしなやかな体型だった。
肩まである癖のない髪。目元が涼しげで、鼻はそこまで高くないものの、口元に愛嬌がある。
男性社員から人気があるのは当たり前だろう。
新入社員で入りたての頃はどうにも使えない娘だったのだが、一生懸命育てた甲斐あって、というよりも彼女の生真面目な性格のせいか覚えが早かった。学校の成績も相当良かったらしい。そして今は頼り甲斐のある我が課の戦力になっている。
会社以外の日常ではどうなのか知らないが、彼女の仕事での判断力や行動力には時々拍手をしたくなるような特筆すべきものが見られた。
俺の中で三島聡子は課の中でキラッと光る存在。いや会社でというべきかな。
そのまま大いに羽ばたいていってくれと、普段誰も応援なんてしたことのない俺も手放しで応援しているそんな存在だった。
和菓子店に寄り、聡子に手土産を選んでもらい、問題の島村の所に向かった。
「わざわざすみませんね」
手土産を見せてしっかりと二人で頭を下げると、カンカンに怒っていると前評判だった店主は、意外と大人しく対応してくれた。
店主はあんまし俺のことを見ていない。どうやら聡子のことを気に入っているようだ。
さっきから聡子の顔ばかり見ている。いや、それしか見ていない。
俺がここに来る必要あったのか?
移動手段に必要だっただけで、実際それ以外は全く役に立っていなかった。
それでもこの女性社員が頼りがいのある存在に育ったのに立ち会えて、俺は大いに満足していた。
不良品を回収し、新品と入れ替えた後、俺たちはあるところに向かっていた。
不良品を購入したお客様、インクで服を汚してしまった女性の自宅だった。
当然メーカーの人間が直接行って、謝罪と何らかの補償をしなければいけない。
取り敢えずはもう一度、和菓子店に寄って菓子折りを購入した後、俺たちは店主から聞いたお客様の住所へと向かったのだった。