第一章/3話 「極端な考え方だな、それにしても」
母さんは幼い俺を殴って蹴って引きずり回して、そして何度もピアノの前に座らせた。その音がなにかわかるまで、食事はおろか水すらも飲めなかった。そのうち、目隠しをして生活させられるようになった。音だけ聞ければ人間は生活できると、俺を怒鳴った。
何度も壁にぶつかって、何度も転げた。何度も喚いたけれど誰も助けてはくれなかった。
もちろん父さんもそれを止めなかった。俺にとっての視界は、父さんが研究したかった物質の話をするときだけあるものだった。理解するまで話を聞かされた。痛みがあればすぐに人間は物を覚えると言って、鳩尾を何度も殴られた。何度も、殴られた。
そのうち、声もあげなくなった。
やがて、俺は特殊な教育施設に入れられた。IQを伸ばすとか、感受性を高めるとか、そういうことを話していたのを聞いた。俺がどう思うかは何も話していなかった。
俺の両親は俺に、正しさでも個性でもなく理想を求めていた。2人が叶えられなかった夢を、両親が俺のために捨てたというその夢を叶えるだけの機械でしかなくて、それ以外には必要がなかった。
彼女に俺という個人を求められていなかったなら、両親にネジを巻かれるおかしな人形になっていたかもしれない。そう本気で思った。それ程に俺にとって彼女の存在は何者にも代えがたく、ひたすらに大きなものだった。
それなのに。
懐かしい夢から覚めると、体に微妙な痛みが走った。暖かい色の天井と浮いているシーリングファンが視界に飛び込んでくる。ゆっくりと横を向くとソファーで気持ちよさそうに颯真が寝ていた。
「お! 気が付いたか」
「あの……」
「おっと、まだ動くなよ。思ったより重傷だ」
ウェスタ―さんがブランケット(らしきもの)が入った紙袋を抱えて寄ってくる。ドアの閉まる音がした。
「前世、体は強い方だったか?」
「……強くはなかったですね」
思考に靄が掛かって頭が回らない。まるで低気圧の日の朝のような鈍痛もある。
「前世のそういうのは多少影響するからな。特に、魔法に向きすぎていると魔法に対する耐性が変に高かったり、順応しないでいいところまで順応したりする。一部の効力の強い魔法が効かなくなることもあるそうだ……。その様子だと、ラズトはその体質を利用したんだろう。ヴェートでよく使われる、魔獣に使われるような強い昏倒の魔法をかけた。まぁ、無理やり魔法の影響を与えたって感じだろうな」
「昏倒の、魔法?」
「あぁ。ヴェートで生活していると、魔獣に襲われることがある。昏倒の魔法は魔獣に悪影響を与えず、意識をシャットアウトさせる用途で使われる。その間に逃げるって算段だ。昏倒の魔法を受けた魔獣は数時間まともに意識を保てなくなる。その状態で俺と会話ができるのも、あきらとラズトの魔力指数に大きな差があったからかもしれないな。まぁ、そもそも昏倒の魔法が効いたのは、元々の体質かそれともラズトが追加でなにか仕掛けたか、そのどちらかだろう。だが、魔力指数が大幅に上回っている相手に効果的な魔法は、こうして実害のないものばかりだ……。ラズトがどこまで知っているかはわからないが。とにかく、数時間もすればよくなるだろう」
じゃあラズトは俺を倒すことはできなかったのだろうか。
本当にそうだろうか。あの瞬間、背筋に走った悪寒は気のせいだったのか。
「この世界には魔法と言っても、いろいろな種類がある。まず、魔法の中に魔術に分類されるものがある。魔法と魔術の2つには大きな違いがある、らしい。どういう差があるかはよく知らないんだ。俺は学がないからなぁ……生憎、聞いたことくらいしか頭に入っていない。」
ウェスターさんは持ってきたブランケットを俺にかけた。なんとなく会釈をするが、伝わっているかはわからない。ウェスターさんは、表情を変えず話を続けていった。
「この世界にある魔法は、白の法典を媒介とする書の魔法、その国でしか使えない独自の魔術である国家魔術、代償を用意して儀式的に行うとされている錬金術や召喚魔法、魔法を用いて作られた道具を使用して行う魔術や、ヴィオレットの学校が開発している紫法、この世界にいる人々なら魔力の才に恵まれなくても使える基礎魔法……これは基本魔法とも言われるなあ。とにかくいろんな種類がある。難易度も効果も幅広い、人に対して行使する魔法に絞っても覚えきれないほどあるだろうな。もちろんこの他にもきっと俺の知らない魔法もたくさんあるだろう、それかセカンドヘヴンだ。セカンドヘヴンには魔法以外にも魔力や魔法を発する道具や動物や植物さえある。きっと、俺は全部を知らないまま成仏するんだろうなあ」
「みんなが知識として平等に学べるわけではないってことですか」
「あぁ、もちろんさ。俺が使えない魔法もきっとあきらなら使えるだろう。差はあるよ。俺が説明できるほど知っているのは、ただ人にいい顔をしてその辺の誰かに聞いただけさ。使えるわけじゃない、なんでだろうな世渡りだけはうまくなってなぁ」
すっと天井を見上げ、ウェスターさんは呟いた。
「この世界の全貌を掴もうとするなんてな、きっと底なしの沼に自分から沈むようなものなんだろう。そうして藻掻いてもそれで何かがわかっても、手からすぐに滑り落ちていくのかもしれないな」
何も言えなかった。ただ彼は、人が良いから知っている、それだけではないような気がしていた。何か言おうと口を開く前に、ウェスターさんが話し始める。
「まぁ奥が深いってことだ。魔法に関してはなんとなくわかったか?あまりに長く話過ぎたからな、何かあれば補足するぞ」
「魔法は白の法典を介さなくても使えるものがあって、俺はグリーズの国家魔術を行使された可能性があるんですか」
ウェスターさんがなんとも言えない表情を浮かべる。朧気な意識では気のせいだったかと思うほどにすぐ元に戻った。
「はっは……極端な考え方だな、それにしても。それじゃあどこかで足を掬われるぞ?」
足を掬われるか、その通りだと思う。
「もちろん白の法典を媒介しなくても使える魔法はたくさんあるが、グリーズはそもそも国家ではないんだ。ヴェートには何度かグリーズから派遣された役員が来ているが、そんなものを俺は見たことがない。そうだなぁ、それにあったとしても知らない方がいいだろう。それに今のあきらの症状は昏倒の魔法によるものでしかない、心配しなくてもいいさ」
これ以上の追及はしてはいけない、そんな緊張感のある声色だった。
「そう、ですね」
知らない方がいい、か。そう忠告するということは、ウェスターさんにも思うところがあるのだろう。
自分の疑問に蓋をし、話題を変えようと口を開く。
「例えば、ヴェートの国家魔術ってどういうものがあるんですか?」
「そうだなぁ、魔獣と契約を結んで使用する魔法がほとんどだな。ヴェートが国家で契約を結んでいる魔獣もいて、必要な時にヴェートの国民が正しい呼び出しをすれば味方に付いてくれる。守ってくれるってことだな、便利だろう?」
ヴェートの国民ならそのうち教えてもらえるし俺が見せてやることもできるぞ、とウェスターさんが付け足して言った。さっきまでの緊張感はどこかに消えていて、第一印象そのままの明るい声色が戻っている。
さっきのことは聞かない方がいいのだろう。
「まぁとにかく昏倒の魔法は一般的な魔法だ。ヴェート国民なら誰でも使えるような対魔獣魔法で、言ったが後に残る障害もない。一晩眠れば朝には必ず落ち着くだろう」
「颯真は」
「ん? 眠り実って呼ばれる木の実があってな。その木の実にくっつくように咲く花の鱗粉を吸ったんだろう。ヴェートのカサウエっていう地域で月に1度咲く珍しいものだが、基本的には何の害もない。鱗粉はセカンドヘヴンに来たばかりのヤツに稀に見られる不眠症への対応として使われる薬品として扱われる。その元になる鱗粉を一気に大量に吸うとあぁなる。ちなみに実の方も似たような使い方をされている。まぁあれなら鱗粉だろうが……眠り実の鱗粉を吸って眠ると多少の不調はすべて改善される、と言われている。颯真は起きると逆に調子がよくなってるだろうな」
「ウェスターさん、俺の勘違いかもしれないですがラズトが颯真に何かを吸わせたようには見えませんでした」
「体感時間を狂わせる魔法か、昏倒の魔法が効き始めていたか、もしくは元々簡単に吸わせられるように準備していたか、そんなところだろう。とにかく颯真のほうも心配はないさ。それにな、ラズトは一応ヴェートの役員だ。国民に危害は加えられない。何かグリーズの事情があるとしても、それこそアイツの立場を悪くするだけだ。言い訳ができるやり方がこのくらいだったんだろう。本当に心配ないさ、俺が保証する」
そこまで言われると、何も返せなくなる。それに、先に手を出したのは俺だ。
「今回のことは俺に免じて忘れてやってほしい。攻撃はされているんだ、あきらも気分はよくないだろうが……」
ウェスタ―さんが頭を下げることではない。この人は俺がラズトの白の法典に手を出そうとしていたことを知っているはずだ。
「自業自得です」
「気にしないでいい」
「ありがとうござます」
ラズトが俺に何をしていようが、この人のおかげで助かったことに変わりはない。本当に心から感謝していた。
「なぁあきら、グリーズには気をつけろ。目をつけられると面倒だ」
「それって」
ウェスターさんが溢した言葉につい抑えきれなくなった疑問を解消しようと口を開いたところで、颯真がもぞもぞとたじろぐ。
「そろそろ起きそうだな。詳しい話は、また今度にしたほうが良さそうだ」
この人は一体何者なのだろうか。敵意は感じない。何か目的があるようにも見えないが、きっと只者ではない。
知ってはいけないような事情は、本当に聞いただけなのだろうか。
真相がどうであったとしても颯真の前では話せない。タイミングが悪い。
俺もこの間ずっと鈍痛に思考を妨げられている。起き上がろうとしたが手先や足先に痺れが走るばかりで、力は入らない。
ラズトはグリーズから派遣されてきたらしいヴェートの役員。推測だが、ラズトとウェスターさんの話からして、ラズトがヴェートに派遣されたのは最近のことだろう。何か目的があるのかもしれない。
ラズトの師であり、グリーズの事情を一部知っていてヴェートの役員とも繋がりがあるように見える人の良いウェスターさん。パン屋だと言っていたが何か事情があるかもしれない。
いや、ウェスターさんについては勘繰りすぎかもしれない。
イメージしていた天国とはかけ離れた異世界セカンドヘヴン、あの霧、グリーズ、それに特例処置……。気になることは多い。
ただ俺は知り合ったばかりの人間に尻を拭いてもらう羽目にまでなっている。疑念をいくら膨らませても、行動は起こせない。
この状況を飲み込めないとしても、口に含むくらいはしなければならないだろう。
冷静になろう、でなければ彼女を探すことすらできなくなるかもしれない。冷静にならなければ、グリーズに目を付けられないうちに。
俺は颯真に都合のいい説明をするウェスターさんを見た後、ゆっくりと目を閉じた。