第一章/1話 「一応、ここって天国ですよ?」
彼女と出会うまで、踏むしかない場所だけを踏むような瞬間を繰り返していた。
今の自分が立っている場所すらいつ崩れるか知れなかった。そんな感覚にずっと襲われていた。自分が選べる選択肢の狭さを、自分という存在の不自由さ窮屈さを息が詰まるほど感じていた。
道ですれ違う誰かさえ羨ましくて仕方がなかった。ただ、五体満足なのに満たされない自分に付き纏われて追いかけられてさえいた。足元を見るとそれがいつも掴まっていて、今でも引きずり回されて原型も留めない化け物がこっちを覗き見ているような気がしている。
ヴェートの都市にある役所の中は、洋風の美術館を思い浮かばせるような空間だった。温かみのある木製の床、中央には淵に細やかな刺繍が施された小豆色の絨毯が狂いなくまっすぐに敷かれている。奥に国会議事堂にあるような威圧感のある階段があり、壁にはヴェートの国旗らしき旗が下がっている。役所の中は何人もの役員らしき人が忙しなく行き交っていた。壁には優しい色合いの深い緑の旗が吊り下げられ、役所内の柱には自然な木目と彫刻が施されている。そのいくつもが、この建物がとても丁寧に造られていることを悟らせる。天井から役所内を暖かく照らす大きなシャンデリアで役所内を落ち着きのあるどこか柔らかい雰囲気に整えているように見えた。
それなのにこの空間がどうしても知らない場所で一瞬、すべてが夢のように感じる。実感というもの、すべてを見失いそうになった。
後から思えばこの時、すでに俺は冷静さを欠いていた。
「災難でしたね、お疲れ様。大事ないようでよかったです」
役所の中に入るとすぐに俺たちを先導していた女性が声をかけてくれた。ウェスターさんが話していた、あの女性だ。
船着き場から森を出るまではずっと暗かった。だから判別できなかったが、目の前の女性は桃色の瞳をしている。ちなみに日和さんと颯真の目の色は緑、ウェスターさんの瞳の色は深緑色だった。周囲の役員たちの目の色は大体、深緑・黄緑という具合だ。
ざっと見たところ、周囲の役員の中で魔力指数が一番高い。
「お、遅れてすみません」
颯真の緊張が声音にまで出ている。颯真は大人びた女性は苦手なのかと思いつつ、俺も軽く頭を下げた。
「構いません。彼女は?」
「えっと、その」
日和さんのことだろう。あたふたとする颯真の言葉を遮るように口を開いた。
「彼女のことはウェスタ―さんが病院まで連れて行くと仰っていました」
「わかりました。まぁ、彼なら大丈夫でしょう。それではお二人には……いや、颯真さんにはとりあえずあちらの受付でヴェートの国民登録を済ませていただきます」
颯真だけということは、グリーズでのあの交渉の件はすでに伝わっているのか。
「えっと、あきらさんは」
一瞬、困ったような顔をしたその女性が俺の方へ視線を投げる。
聞かれても問題ないのか、ということだろう。返事の代わりに俺は頷きを返した。
「……お話はすでにグリーズから聞いています。近いうちにグリーズからこちらに連絡が来るはずです。一先ずそれまで滞在を許可することになっています。特別処置を取ることにはなりますが、あまり扱いに変わりはありません。短い期間となるかもしれません、ですがよろしくお願いしますね」
「わかりました、ありがとうございます。よろしくお願いします。」
問題はない。颯真は横で困惑を顔に浮かべて、不安そうにこっちを見ている。柴犬が飼い主を見上げるような映像が脳裏を掠めた。
「遅くとも数週間以内にはグリーズから連絡があるとは思います。滞在期間はこの国の民と同じようにこの国のルールを守っていただきます。詳しい説明は明日、この役所で受けてください。役所に来ていただいて、誰でも構いませんので所内の役員にお声がけください。明日はできるだけ早く役所まで来ていただければ助かりますが、時間は問いません。」
「わかりました、ありがとうございます」
「それでは、次の指示まであちらのソファーでお待ちください」
そう言うと会釈して、先導していたその女性は役所の奥へと歩いて行った。
「僕はとりあえず登録に行ってきますけど、えっと、あきらさんって悪いことでもしたんですか」
「いや、違う。少し交渉をしてるんだ」
前例がないとはいえこの交渉は通るだろう。俺には成仏とは別の目的があるが、この世界を旅したいと思った人間はいないのだろうか。グリーズでは属する国を選ぶかグリーズに残るという選択肢だけしかないような説明がされていた。
右も左も前も後ろも分からない状況だ、冒険をしようとはならないのかもしれない。
「でも、本当によかったです! びっくりしたぁ、もう何かやったのかなって」
「もうってなんだよ、もうって……何か騒ぎを起こすほど時間は経ってないだろ?」
俺はこいつにとってそんなにも野蛮に見えているのか、もしかして。
「そんなことないと思ってましたけどね! うまくいくといいですね!」
悪気はなし、か。
「あぁ」
「とりあえず僕は受付行ってきます!」
颯真がぺこっと軽く頭を下げる。部活の先輩に後輩がやるような、アレと似たものを感じる。
「……颯真、そんなに畏まらなくてもいい」
なんとなくそう言った。
「え……」
尻尾があったなら振り切れんばかりに荒ぶっていただろうな、と思うくらいに颯真の顔が明るくなる。
「この世界には年齢もない、俺達には何の差もないだろ。ほら、呼ばれてるぞ。早く行ってこい」
それに、もう警戒する必要もないだろう。
「はい!」
颯真はあまりにいい返事をして、まるで散歩に出た子犬のようなテンションで受付へと向かっていった。今も相槌を大げさなほどに打ちながら役員の話を聞いている。遠目でもよくわかった。
よく沈むソファーに腰掛ける。
目の色だけで偉そうにして敬われたって何の意味もない。
颯真の手続きを待つ途中で、俺たちを先導した女性と似たデザインの服を着た役員らしき男性が、薄い冊子を俺に届けてくれた。緑色の紐で丁寧に閉じられた冊子にはヴェートの詳しい地図と地域の特徴や注意点などが細やかに書き込まれていた。挟み込まれていた紙にはこれから三日間、貸し出してもらえる宿についての注意書きと明日の説明のことが走り書きで書いてあった。なんとなく白の法典に挟む。
その瞬間、白の法典が小さな光を発した。慌てて開く。
ゆっくりと光が収まると白の法典に“ヴェート発行公式書類として認識しました、直ちにアップデートします”と文字が浮かび上がった。気づけば、挟んだはずの紙がどこにもない。
唖然としていると、頭上から声が降ってきた。
「それ、僕もすごくびっくりしました! えっと、国の公的なものとかだったら白の法典がその国に合わせる、とかみたいで……さっきみたいにアップデートされるって話で」
「もう、受付は終わったのか」
「早かったですか?」
「まぁ、思ったより」
「っていうかそれ! 死後の世界っていうのに、進歩した現代技術って感じがすごくって、全然時間がかからなくて!」
目の前でぎこちない言葉遣いの颯真が嬉しそうに身振り手振り騒ぐ。
死後の世界という感覚は確かに少ない。進歩した技術に当たり前にある魔法や魔術、何か出来すぎているような気がしていた。成仏のためだと言ってしまえばそこまでだが。
今の時点で不可解な点を挙げればキリがない。
「白の法典をヴェート用にアップデートしてもらえて、追加のページがあるんですよ僕の! 2ページに増えたのがなんだか嬉しくて! ひよちゃんもこれ見たらびっくりするだろうなあ」
「あ、あぁ」
立ち上がり、颯真の持っている白の法典を覗き込む。
「真っ白だな、このページも」
「ほとんどのことは、最初からある白の法典のページ? 最初のページで聞けばよくて、でも例えばどんどん変わっているヴェートの街の情報とか、例えば魔獣の出現情報とかがアップデートされることがあるそうです! 白の法典の内容はグリーズが管理してて、グリーズに行くか都市の役所と一部の宿屋さんでしかアップデートできないけど、ヴェートについての内容は街灯の近くとかで勝手にアップデートされていくって聞きました」
役員からの説明をしっかり覚えて帰ってきたらしい颯真はすごいとか、面白いとか、感嘆を溢れさせながら楽しそうにそんなことを言う。
基本の情報はやはりグリーズが管理しているのか。ならば俺たちに伝えられる情報を操作することも容易だ。だが、そもそも“成仏”に必要なものだけ伝えているだけなのだろうか。
規制された情報、それを意識させない天国という固定概念。いや、考えすぎか。
白の法典は辞書にも地図にもなる、法に記事に、情報のほとんどになる。今の時点では白の法典は確実で唯一のソースだ。その白の法典はグリーズが管理している。国が管理している情報に関しては予測だが、グリーズと各国の中にも事情があるからかもしれない。もしくは元々、国内の一定の情報の更新に関しては一任されているのだろうか。
グリーズの詳しい情報が知りたい。途轍もない闇に足をとられることは避けたい。何かを誤解することも、無駄に恐怖することも避けたい。
ふとあのカフェの店員のメモが気になり、ポケットに手を突っ込んで唖然とした。ない。あのメモがどこにもない。消えた。落としたというのは考え難い。あのメモを消す必要があるということか。不可解すぎる。何もかも疑う俺の悪癖が足元を大きくぐらつかせる。
何も信じられないのはあまりにも酷く、すべてを疑ってかかることが悪いことだと分かっているはずだ。彼女に出会ってからは無かっただろ。俺は何をやっているんだ、普通に考えろ。ここにいる人だっておかしい様子はない。あのメモだって単純に元々、消えるものだったのかもしれない。そういう性質だったかもしれない。この世界に前世の常識は通じないんだ。ここには前世の何もかもが通じない、落ち着けこんなことはもはや何の意味もない。
「話、聞いてますか?」
少し不満げな顔をした颯真がそう言う。
「……わかったわかった、詳しいことは後でゆっくり聞くよ。ここから宿に移動するんだろう?」
「もしかしてあきらさんも説明、聞いたんですか?」
「さっきもらった資料をちょっと見たんだ」
「でもあきらさんの白の法典、ページ増えないままですね」
「俺はヴェートの国民じゃないからな。それに国民にしか教えてない情報もあるのかもしれないだろ」
「一応、ここって天国ですよ? そんな隠し事みたいな」
「わからないだろ」
「でも……」
危機感がまるでない。あっても無駄なのか、死んだ後の人間を動かすと多少は無頓着になるのか。これが普通の感覚なのか。
「お話は終わりましたか」
すぐ後ろで聞こえた声に体が勝手に反応する。無意識に、半歩距離を開けていた。気配がなかった。音すらしなかった。
俺は施設で充分に訓練されてきた。死んだ後だとしても五感が、特に俺の聴覚が鈍るとは思えない。
「驚かせました? ヴェート役員のラズトです、宿まで案内します」
「ああ! すいません! 大丈夫です、気が付かなくてほんとにすみません!」
おしゃべりに夢中になっちゃって、と颯真は笑って付け加えた。
それは屈託のない子供っぽい表情だった。
「構いません、ではついてきてください」
不信感に足が動かない。俺は途端、この世界の何もかもが信頼できなくなっていた。
どうしても、何もかも嘘のように見える。見せかけで、誰かが俺を陥れようとしているような気がする。
「行きますよ」
颯真に言われて、無理やりに足を動かした。
疑問に頓着するべきではない。しないほうがいい。何にも捉われることができない。普通だと受け入れることがきっと当たり前だ。この世界について何も知らないから疑ってはいけない。この世界について深く知ることはできない。
前世のイメージに苛まれてできた言葉にできないこの違和感を、きっとほとんどの人間が感じない。感じない方がいい、遮断しておくべきだ。いくら思考を巡らせても納得のいく政界にはたどり着けない。
そもそも考えないでいるべきなのかもしれない。
だって俺は、死んでいるのだから。