第一章/33話 「今も世界で一番綺麗な音をしてるよ」
「へぇ? 大事にされてるんだねアキラ君。暗転ってほら、信頼関係が気づけてないと無理なんじゃなかったっけ? あれ? ふふ、悲しい? 嬉しい?」
安眠の呪文とも呼ばれるこの呪文は、薄汚い女の言う通り使用者に対し心を開いている者にしか効果がない魔法だ。
意識を失った日和さんは、俺のことを信頼していた。
「お前、グリーズの役員か」
「ご名答! お初にお目にかかります、私はナナ・グリーゼン。お姉さまが挨拶は大事って言ってたもん! できてえらい、私ほめられるかも。この私は君たちの宿の隣に泊まってるの。今日で終わりだけど、よろしくねぇお隣さん」
「終わるのはお前の方だけどな」
「一般魔法程度で勝てると思ってるの? あまいなぁ、お姉さまに笑われちゃう。うふふ、全部知ってるの」
微々たる光だけが差し込む、絶望に沈んだ森。俺がギリギリと歯を鳴らす音、目の前の女の子吸音さえ聞こえる。
こんなに調子がいい日は、母さんも一発殴るくらいだったな。
ここでの生活は、楽しかった。
「姉様、貴方の邪魔になるものなら、グリーズのためなら姉様のためなら、必ず必ず絶対に、絶対、排除する」
その声が耳に届いたとき、その女ナナ・グリーゼンの姿は消えていた。
「アキラが命ずる! 感情感知!」
「白の法典より命ず、感情拘束」
斜め前、振りかぶり殴りかかる。
だが、体が動かない。どうして、俺はこいつを殴ったはずなのに。
「グリーズの役員ってね、強化型一般魔法は基礎として使えないとだめなの。ねぇ、ねぇ? 私は才能がお前よりなくっても、愛があるの愛されているの愛があるの。お姉さまへの愛があるの。その差なの。お前は感情感知を使って、私は感情拘束をしたの。わかった? もう今度からはその呪文さえ教えてやらない」
木の細い枝の上に立ち、俺を見下ろしながら女が嗤う。次の瞬間、拘束が溶けて前のめりに倒れる俺の体の鳩尾に、拳が入る。
「ぁがっ」
間髪入れず、蹴りが顔面に来る。なんとか避けて後ろに下がるが、すでに姿は見えない。
「悪戯に囁け、理を秘めよ、我は」
「詠唱長くない? それ、はじめてっ聞いたよっ!」
左側で声がしたはずが、後ろの幹が揺れる音に振り向く。反応できない速さでパンチが飛んでくる。
「それでも意識が飛ばないの、ある意味可哀そうかも。かなり強化されてるはずなんだけどなぁ……それともなに? やっぱり、才能?」
「愛だよ」
「愛? 哂っちゃう。嗤える。嘲笑える。それで何に愛されてるっていうの? 今更、神様に見初められましたって? ふふっ」
明らかに曲がっていた自分の鼻をぐいっと元に戻す。聞きたくもない鈍い音が脳内に響いた。気持ちよさそうに戯言を宣っていたその女は満足したのかすっと姿を消す。
相手は俺が使う魔法よりも上級の魔法が出せる。俺の魔法は常人には出せない威力や範囲で発動するが、それが強化版を確実に上回れるかはわからない。
「悪戯に囁け、理を秘めよ、我は惑わしの王に感情を運ぶもの」
すぐに唱えて、耳を潜める。これは俺が前世、嫌というほど叩き込まれた技術。
「――――より命ず、―――――アナライズ」
聞こえた。秘匿の魔法で俺の呪文は発動まで相手に伝わらない。先手が打てるはずだ。そして、この呪文……アナライズは分析。何かが来るわけではないと断定する。強化した脚力をそのままに、走りながら集中をし続ける。次の攻撃に合わせて、無理くり変形を使う。効くか効かないかは博打だ。
「――――より命ず、リターンイット――――プリビィウス」
さすがに重ねがけくらいはやってくるか。これはウェスタ―さんも使っていた魔法。地点転送の魔法に似ている。ただ、これは詠唱が長すぎる。それに以前、過去を意味する単語も聞こえた。
一体何を。
とにかく移動し続けなければならない、足に力を入れて踏み出し続ける。この森の中にできた自然の隙間を回り続けるのは体力が底をつきそうだ。こっちも魔法で誤魔化すしかない。
脚力強化を両足に重ね掛けする。もう一歩足に力を入れたその瞬間、目の前に黒いあのゲートが開く。見覚えのある、いや数分前の俺があの女に殴りかかった自分の拳が頬にぶつかる。
「アキラが、命ずるっ! 瞬間身体透過!」
俺の一発の方が、この女の一発の数十倍痛かった。顔面が吹き飛んでもいいと思って殴ったからな、こんなもんだよな。鈍痛を訴える頬、痛みにもっていかれそうな脳、目の前に新しく出来上がろうとしているゲート。そんな中、酷い活舌で叫んだ。
女が白の法典の上に浮かばせていた火の玉が俺に向かって飛んでくる。タイミングを合わせ自分の体に透過の魔法をかけ、無効化に成功する。だが、防戦一方だ。どこかで打開しないと。
「え? え? 奇跡みたいなタイミング。それとも、なになに? もしかして」
一歩踏み出した先に先回りした女は耳元で、酷く残酷な響きでそう言った。
「耳がいいのかな?」
息が止まる。バクバクと鳴って心臓が危機を主張する、視界の先で女の姿が消える。
その瞬間、右耳から爆音が鳴った。
「あ“」
変な声が出て、足元から崩れる。
「あはは、びっくりしちゃった? 急だったしわかんなかったでしょ? ねぇ、魔法どこで習ったの?」
肩を大きく動かして耐えようとするが、右耳の感覚は戻るどころか酷くなるばかりだ。右耳の奥でだけずっと爆音が鳴り続ける。
「練習したのって1日だけじゃないの? 内容までは読めなかったけど、才能ってすごいねぇ。ふふ、もっとやりがいないかと思ってた……嫉妬しちゃう」
脳みそをそのまま揺らされているような爆音にやはり耐えきれず、俺は咄嗟に口を抑える。手から半透明な液体が零れる。まずい。
「セカンドヘヴンで初めて人の吐いてるところ見た、ふふっ面白いね」
頭まで地面に付けてしまえば、この今を取り返せなくなる。
「ねぇ、愛って言ったよね。その程度の愛なんて愛じゃない。愛なんて言わない汚い。汚い汚い。グリーズみたい。私、絶対に、私だけがお姉さまを愛してるよ。アキラ君、君の愛なんて、そこらの石ころとおんなじサイズなの。それで、すっごく汚れてる」
愛。愛ってなんだろう。
彼女がくれた心臓は、彼女が無理やりに俺に押し付けたものだ。命の延命と引き換えに受け取った孤独は受け入れがたいもので、俺はずっと苦しみ続けた。安息の日はどこにもなかった。聞きたくなくなっても、何度も心臓は彼女のことを訴えた。彼女の愛を毎分毎秒訴え続けた。指折り数えて、彼女と過ごした日は遠ざかって行った。
理解できない理解できなかった。何度どんなに考えても、理解できなかった。理解したい、理解したい。彼女のことを知りたい。彼女とわかりあいたい。彼女のことを知らない他人のように、あの大人共と同じように、拒絶したりしない。名も知らぬ同級生のように気持ち悪いと罵ったりしない。
この世界で彼女と出会った時、俺は問い詰めたいわけじゃないんだ。
彼女のくれた愛情は何時だって、そう最初から、何よりも尊い物だった。側面が誰にどう見えても、どんな矛盾を孕んでいても、俺にとってそれは紛れもない愛だったから。
「俺がもらった愛情は、今も世界で一番綺麗な音をしてるよ」
そして俺はそれを、今もここに持ってる。




