第一章/9話 「無事でよかった」
思考混乱の魔法について、それから役所であったことは今は考えないでおこうと役所のドアを開けるときに決めた。
役所の前でウェスタ―さん、颯真、日和さんがサンドイッチを食べながら俺を待っていた。階段に詰めて座って話す姿はなんだか微笑ましいものを感じる。
何もなかったかのように笑う日和さんの姿に少しだけほっとした。
これすごくおいしいですよ、と日和さんに手渡されたサンドイッチを受け取る。脇目もふらず自分の分を必死に頬張る颯真を見てウェスターさんが笑う。
俺に前世から持ち込んだ事情が何もなかったなら成仏するまでという不確かな時間の過ごし方にも色んな選択肢があったのだろうか。ふと、そんなことを考えた。
俺は、彼女を置いてはいけない。
この時間もそのうちに、終わる。
昼食を済ませてから、パンの配達があるというウェスタ―さんと一旦解散した俺たちは宿舎に戻った。結局、ウェスターさんとあの夜の話をする時間はなかった。宿舎の日和さんの部屋は俺たちの部屋の真上の部屋だった。
繋がってて嬉しいね、と日和さんと颯真は何度も言葉にしていた。
白の法典や病院で受け取ったらしい薬の入ったバスケットなど、いくつか手に持っていた荷物を置いた後、すぐに日和さんは俺たちの部屋にやってきた。
「ホントに無事でよかった」
「そうくん、注意してくれたのにごめんね」
「大丈夫! ひよちゃんが元気でよかった」
リビングにあの船の時のままの騒がしさが戻った、いい意味で。
「あきらさんも、ごめんなさい。迷惑かけちゃって」
「俺は気にしてないし、気にすることでもない。まぁ……ほら、知らないことしかない場所に来たんだ。戸惑っても仕方ないだろう」
「うぅん……もっと怒ってくれるのかなって」
「へ?」
驚いて情けない声が出る。
「お兄ちゃんみたいだから、あとあきらさんって背が高くてカッコいいから」
「確かに顔もいいし、しっかりしてるっていうか……もしかして、前世でもお兄ちゃんだったんじゃ?」
「あぁ。妹とはあまり仲が良くなかったけどな」
俺の言葉を聞いた日和さんが、大きくうんうんと頷く。
直後、何気なく長い髪を耳にかけた。露になった細く健康的な肌色の首筋にあったのは数字とアルファベットの羅列だった。8桁の数字とアルファベット、きっとIDだろう。
いや、リシュリューさんやウェスターさんの首元にそんなものはなかった。
IDが体に刻まれるとしてその場所を統一しないなんてことがあるだろうか。
「日和さん、その首筋のって」
「あぁ、これ病院で判子みたいなの押してもらって、でもなんだったっけなぁ」
「ひよちゃんもしかしてID? いいなぁ、なんか役員の人が言うには魔力指数がわかったり、IDが体に刻まれるのはもうちょっと先って話だったから」
魔力指数については初日にグリーズで数日後に右手の小指に浮かび上がると説明があったはずだ。人によって変わるとは言っていなかった、はずだ。
必要があるのならどこかで説明があるだろう。もしそれがIDだとしたら、リシュリューさんからさっき伝えられていてもおかしくはない。
「うーん、でも判子みたいなの押しただけで」
刻まれる、というのは体に浮かび上がってくるものをイメージする。判子を押すことを刻まれると言うだろうか。否定はしきれないが、なんだかおかしい気がする。そもそもリシュリューさんはIDが定まっていないからこそ、俺にヴェートで仮国民登録をするように勧めたはずだ……。
「たぶん、IDかなぁ。病院に来てくれたヴェートの役員の人に説明は聞いたの、でも、えっとそんなに覚えてなくって。でも、ウェスターさんもついて来てくれたし、病院の人たちも優しかったよ! だから、あきらさんそんなに考え込まなくても危ないことないって思うの」
「い、いや、そういうわけじゃ」
「迷惑かけちゃったから……?」
「違う。ほら、ウェスターさんの首筋には何もなかったから気になっただけだ」
病院で患者に印をつけている可能性もある。俺の気にしすぎかもしれない。
「でも、なんだろう。やっぱりIDなのかなぁ、今度ウェスターさんに聞いてみる?」
「うーん、IDかなぁって思うけど聞いてみる!」
何だかむしゃくしゃとし始めて、落ち着かせるように立ち上がる。
その直後、玄関からノック音が聞こえた。