第一章/8話 「やっぱりお前が嫌いだ」
手続きをするだけにしては、広い部屋だった。濃い茶色の大きなテーブルに六つの椅子に前世の日本家屋にあるような普通の窓。薄暗い部屋、深い木目の床、葡萄酒色の壁。紺色のカーテンの隙間から些少な光が漏れる。
「……そこにお掛けになってください。それから書類に目を通し、署名を」
最初に声をかけてきたときに比べて、明らかにやる気のない声だった。
「何をぼぅっとしてんだよクソ。俺は忙しいから、さっさと済ませろ」
あの事を何とも思っていないことはないだろう、な。それを裏付ける鋭い目つき、昨晩のことがあったが故の飾られていない言葉。
とりあえず席についた。木製の椅子が小さく鳴る。
「勘違いしてた」
ラズトは聞き逃してしまいそうな声でそう言った。
「一体さ、お前は何が目的なの」
直感が、半ば思考を裏切るように口を開かせた。
「前世、大事にしていた人を探してる」
「……成仏してないって言いきれんの」
「確信してる」
俺の返答を聞いたラズトは押し黙った。
「可能性の話でも無視できないくらい俺にとって大事なんだ」
ラズトは小さくため息を吐いた。
「とりあえずそれ、署名して。お前に損なことはないと思う。ヴェートはお前に対してきちんと対応しようとしてるよ。グリーズに関してはまぁ、注意しときなよ」
あのパン屋が注意するより現実味があるだろ、とラズトは付け加えた。
「なんで」
「別に。昨日の借りを返しただけ」
「昨日は……」
ラズトの行動はいいとは言えないのだろう。だが、俺だってラズトに危害を加えようと動いたことに違いはない。
俺にも非がある。
「黙れ、俺が惨めなんだよ」
昨晩のラズトの言葉を思い出す。態度が変わっていてもラズトの表情は昨日と同じままだった。
「あの事は口外しないでおけよ。俺の為にもお前の為にも、それから俺の口から聞いたことも忘れとけ」
リセット、特例処置などの単語はグリーズの人間のみが知る特別な事情なのだろう。
忠告通り簡単に口外するのは身を危険に曝すのだろう。
これ以上、踏み入るべきではない。
長い沈黙が流れた。書類に目を通していく。グリーズとヴェートの判(だと推測される印鑑のようなもの)が押された部分に、これまで感じ続けてきた違和感や疑念が歪んでいく。セカンドヘヴンはは角度を変えて見さえしなければ人の魂を成仏させ未練を断ち切る世界、それに偽りはないのだろう。
「署名が終わったら、さっさと出て行け」
署名をしてペンを置くと、そう急かされた。
席を立ち部屋を出る。扉の締まるその瞬間に、やっぱりお前が嫌いだとラズトは俺に言った。
署名を済ませた部屋から出た後、役所の出口へと向かっているとあの背の高いオーベロンの部下に呼び止められた。
「問題なく済んだの?」
先ほどよりなんだか言葉遣いが、雑だ。
「まぁ、はい」
「ふぅん……そうだ、これ」
前世のスマホよりも小さいサイズの包みを渡される。
「な、なんですかこれ。俺にですか?」
訳も分からず、変な返しをしてしまった。
「そう。アンタ、どっかで思考混乱の魔法をかけられてる。これを飲めばマシにはなるんじゃない? まぁ元々あんまり良い性格してないみたいだけど」
「思考混乱の魔法?」
「そう、思考混乱の魔法をかけられると正常な思考ができなくなる。魔法の詳細な効果は人によって違うんだけど、過去には自分が今どこに居るかすらわかんなくなって病院送りって人もいたって怖い魔法」
今の俺はそこまで酷くはないが、到底笑い話で済みそうにはない。
「誰にかけられたもんか知らないけどさ。どうせ、グリーズか……。まぁ、害のあるもんじゃないし1週間くらいで効力はなくなるけど、その薬きっちり飲めばグリーズ役員に喧嘩吹っ掛けなくはなるんじゃない? あと、それに関することはそれ飲んだら忘れた方がいい、厄介なことになるから」
少し早口でそう言うと彼女は低く深いため息をついた。これ以上、俺に説明をするのは面倒というような目線を向けてくる。
「あ、ありがとうございます」
「別に……じゃあね」
ミサさんに頂いた包みをそっとローブにしまう。メモのようなものが挟んであったのが気になるが、帰って読むことにした。会釈し、役所の大きなドアを引く。
「せいぜい、気を付けなよ」
そんな忠告を聞きながら、外に出た。