明日死にたい男の話。
ありがとう
人が死にたいと思う時はどういうときだろう。学校や仕事が上手くいかないとき人間関係に疲れたときと様々ある。だが、そういったことが起きた時、本気で自分は死ねると思うだろうか…私は死ねない。恐怖なんてものはないのに。人生で楽しい瞬間を思い出した時何が楽しかっただろうか。何を求めただろうか。楽しいは本当に楽しかっただろうか。問いかけに問いかけたところでなんにもならない。ならなくていいのだ。自分自身が分かっていなくても心のどこかにははっきりしているところがある。人生の内に出会わなくても死んだときにはわかるだろう。もしも人生の内に知ってしまったものは愚かだ。それに翻弄され闇の道をさまよう事になる。はじまりは悪、終わりは光。今更ながらこの文書を閲覧して酔ってきたものは今すぐブラウザバックをオススメする。あたしは何も知らない何も感じない。そう思ってた。だが現実は残酷だ。負の感情が爆発したとき人は別人格が現れる。本物と偽物とかいう甘っちょろい関係性ではない。融合された一つの生命になりゆるものなのだ。心が弱ければ即死だろう。自分自身とは似て非なりな生命が自分を自傷しているのだ。滑稽だろう。そう感じた私は手遅れなのだ。感情は持っている。だか使うことは一切ないのだ。未来予想図が描けないなら塗り潰せばいい。塗り潰した色で未来は決まる。ちなみに私の色はラピスラズリダークだ。この意味が分かりし者はいずれ世界を変える賢者となるだろう。理解不能と感じるならば正常だ。なにも考えなくていい。いや、考えるな。心には4つの部屋がある。それを聞いて生物の授業を思い浮かんだものはこれ以降の文章を読むのをやめて欲しい。それを思い浮かばなかったやつの頭には正解が浮かんでいる。それか本当の無能だ。後者である場合は今すぐ死ぬことをオススメする。と言いたいが感情が邪魔するのでこれ以上はなにも言わない。私は私のままでいたい。本当にそう思うだろうか、思わない人が実は大半だということは私には分かる。それはそうだ。でも本気で変わりたいと願って何をする?これは闇と光のどちらに適した媒体なのかはっきりさせるための質問だ。私はどうやら蝕まれてしまったらしい。変わりたくなくても変わり戻れなくても後悔しない。愚かと断言するには生ぬるい温度だ。リア充はそこらへんどうなんだろうか。本当に奴らは陽なのか?答えは部分的にそうとなる。闇に適していると操れる。だか、適してもいないのに無理にでもてを伸ばすやつがいる。そんなやつは決まって呑み込まれるのだ。陽というはっきりとした。概念などはない。だか、陰ははっきり概念としてあるのだ。どうしてか。陽は嘘つきに対し陰は正直それだけだ。愛されたいより愛したいと口にするやつはいっぱいいる。それはいい心がけだと思う。しかし本能に逆らう覚悟がないと迷宮に囚われてしまう。その迷宮から脱出できたものなどいないし、今後も絶対に現れない。囚われしものは闇の下僕となり死ぬまで働く。私はその呪縛から解き放たれし数少ない生還者だ。だがしかし、私は完全ではなかった。
私は私を見失った。私は今退化している。そんなことなら、外から君たちを見守ろう。勘違いしないで欲しい。この世は美しい。私はこの世を全面否定しているわけではない。だか、私はこの世の住人にはふさわしくなかったというだけだ。
さよなら。
そしてありがとう。
さよなら