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ヘーゲル哲学における「死」と「否定」と「絶望」の概念について (極私的ヘーゲル論考)

作者: 舜風人



ヘーゲル哲学に対する態度(対応)として二つの態度が可能であろう、

一つは構築化でありもう一つは脱構築化である。

さて、

よく知られているように、若いヘーゲルはヘルダーリンの親友であったという「事実」がこの際、重要であろう、ヘルダーリンは思想的な詩人であり、その詩は深い思想的背景に彩られている、

ざっくりと言うならば、ヘルダーリンの思想とは、汎ギリシャ主義。汎自然主義である。さらに、その両者を併合した、汎神論である。

汎神論とは、全ては神の知ろ示すままに、という絶対的な世界論です。


ここからヘーゲルも強い影響を受けていると思われるのである。

若いヘーゲルが自分の哲学を「意識の経験の学」として構想したのもヘルダーリンの影響なくしては考えられなかったのだろう。

たとえば、1794年7月のヘーゲルへあてた手紙にはこうある。


「愛する友よ、僕たちが「神の国」という合言葉でわかれて以来、この合言葉がある限りどんなに運命が遠ざけても、相手を見分けることができるだろう」ヘルダーリン


と、

述べているとおりである。


意識は経験の過程で自らを陶冶して、精神の現象としての、発展を遂げて絶対知に至る、

この構想はのちに「精神現象学」として結実することとなるだろう。

ここにおける絶対精神は、自己展開として体系を構築している運動体でもあるのだが。

この展開がすなわち学としての哲学ということになる。

展開はすなわち歴史であり、歴史と哲学は相関するだろう。

あらゆるものをカバーしている絶対精神とは、その外側はないのです。

もしも仮に外側があったとしても、絶対精神の外側には何もない世界つまり、「無」です。

絶対精神の外側ですからそれは「絶対無」かもしれません。

最新の宇宙論においても宇宙はビッグバンで始まったとされるわけですが

では、ビッグバンの前はどうだったのか?と問われれば

ビッグバンの前は無だった。無からビッグバンが始まりそこから一切が突然発生したということなのです。まさに無から有が生まれるのです、それがこの宇宙の真実なのです。

宇宙は突然に無からビッグバンで誕生した、そして10の44乗分の1秒後にはすべての原子が誕生したのである。

宇宙ができた後の世界と宇宙がなかった前の世界(無の世界)はこのように相同なのである。

というよりは、無は有をを含む。

生の世界には死がかならず伴う。

肯定には否定が必ず伴う。

そして絶望は希望の母?なのかもしれないのである。

かくして一切は循環してゆく、宇宙は始まり膨張し、そして収縮に転じて終滅する。

そしてその無から再びビッグバンが始まり宇宙が始まる、

メビウスの輪のようにそれは循環する。

かくして一切は循環してゆく、宇宙は始まり膨張し、そして収縮に転じて終滅する。

そしてその無から再びビッグバンが始まり宇宙が始まる、

メビウスの輪のようにそれは循環する。

我々のこの宇宙が正宇宙とすれば、反宇宙も存在するだろう。

それは物質に対して反物質が存在するようなものである。

あるいはタキオン宇宙も存在するだろうし、虚宇宙も存在するだろう。

宇宙はこの宇宙だけではないのである。

宇宙に絶対はない、すべてが相対的である、

相対性理論を待つまでもなく、宇宙では一切が相対的に存立しているのだ、

さてこのような多様な現在の宇宙論を統一的に説明できる法則はないのだろうか?

「自然は単純を好む」というアインシュタインの黄金法則がある。

確かに統一理論(万物の理論)はあるに違いないのである。


さてだいぶわき道にそれてしまったがヘーゲルの時代にこんなことは誰も知らなかった。

だからヘーゲルが絶対精神の絶対知にも落とし穴?があると感ずいていたことは特筆に値するだろう。


絶対精神は絶対じゃない

絶対知は絶対じゃない、

このように絶対精神の世界とはその体系化に反して、必ず、「死」と「否定」と「絶望」の概念を

対峙させざるを得なくなるというパラドクスを常にはらんでいるのです。

これがヘーゲル哲学のある意味、臨界点(沸点)なのです。

ハイデッガーは言う、

「すべての体系は挫折する」と。

ヘーゲル哲学の体系は「否定」による再構築である、

これすなわち弁証法なのであるが。

生の否定は死であるが、そもそも死は生の対極ではないのである。

むしろ死こそが生の淵源であり、生がそこから生まれ出る地点でもある、。

この時死は、アウフヘーベンされて克服されているのである。

絶対精神の王座には「否定」はない。

しかし、神の子にすらゴルゴタ(刑場での死)があったように、

もしも絶対精神に、ゴルゴタがないのならば、

絶対精神とは「生命無き孤独」であろう。

絶対精神は絶対であるがゆえに、一切であり、

正にこの我らの現宇宙である。

が、われらの宇宙にもそれ以前があった。

宇宙以前は無であったのだ、

その無からある日突然ビッグバンで現宇宙が誕生したのである。

絶対精神の対極はすなわち無である。

無であるがゆえにもはや否定し得ず、

その意味で絶対精神そのものも無であるの意である。

絶対精神には否定がないので、「生命無き孤独」であり、

その時点でヘーゲルの哲学体系は崩壊(の予兆)するのである。

これがハイデッガーが言うところの、

「すべての哲学体系は挫折する」という意味なのである。

絶対精神はその絶対性のゆえに無の深淵に侵食されて

絶対性の外郭で崩壊するのである。

ヘーゲルにおける絶対精神はそれ以上がない

その外側もない概念であるから

これはその究極性ゆえに自己崩壊せざるを得ないのである。


だが例えば大乗仏教の空の哲学においては

一切は空であり

しかもその空から一切が生まれてくると説く。

まさに最新宇宙論の世界である。

ビッグバンの前はどうなっていたのか?

無であった

何もなかった

というのが最新の宇宙論なのだから。

ではこの現宇宙はこれからどうなるのか?

膨張宇宙は

やがて収縮が始まり、ついには、一点にすべてが集約して

超高圧になりさらに集約して

無となるという。

宇宙が始まったとき無だったように、

無から突然ビッグバンが起こったようにそれ以前に戻るのである。

正にこれって

色即是空(物質世界は空無から生まれる)

空即是色(空無と物質世界はイコールである)

の世界そのものですよね?

改めてナーガルジュナ(竜樹)の空の哲学のすごさを思い知るのです。

彼はわかっていたのだ。、

この世界は無そのものであり

無そのものはこの世界そのものであるのだと。

ヘーゲルの絶対精神からいささか脱線してしまったが、

ヘーゲル哲学がのちに来る

キルケゴールや

二―チェによって

ニヒリズムの洗礼を受けるのも

その絶対性ゆえに当然の結果だったといえるのであろう。

なぜなら絶対のものはその絶対性ゆえに、すなわち無だからである。


そして絶対知とは


絶対無知と同義語だということである。


このパラドクスを救済?する方法は、

神の子が肉の子らによって

辱めを受けた末に処刑されたという

究極のパラドクスを、

絶対精神にも適用するしかないのであろう。

つまり絶対精神を恥ずかしめ、肉の子らによってゴルゴタの丘で処刑するしかないのであろう。

もしこれができたならば

絶対精神は死んでそして復活することによって、「救済」されるのであろう。

だがヘーゲルはそこまで考えつかなかったことは言うまでもない。

ヘーゲルは絶対精神の孤独を、、生の孤独を説くところで「精神現象学」の筆をおいているからである。


さて、

最後に同時代のドイツの中心的思想家のフリードリッヒシュレーゲルの「反ヘーゲル論」を見ておこう。

シュレーゲルといっても今では完全に忘れさられた思想家だが当時は絶大な影響力を持った論客であったのであり、いわば万能人であった。

シュレーゲルの哲学とは一言でいえば

「内面的共同哲学」である。

彼はいわゆる体系哲学にはいつも否定的であり、

体系なるものを信じてはいなかった人である。

彼にとっては哲学とは行動形式でありあくまでも個的の内面性追求であった。


「体系哲学は破たんする、といって非体系的哲学もそもそも存在し得ない、」

それがシュレーゲルの主張だった。

非体系哲学?というのはそもそも、パラドクスです。

そもそもが哲学は順路建てた思想の体系のことですから

非体系哲学なんて自己矛盾です。

シュレーゲルの考えた哲学とは

開かれたた体系哲学というべきもので、

個々人の個人的な精神の歴史、発展。進歩であり、

その時々の形成段階が哲学だというのである。

それはすなわち内面化の道であり、

それは思弁的方法や啓示ではなくて源生命への回帰によるしかないと考えたのである。

そういう「絶対生命」への至る道こそがシュレーゲルにとっての哲学なのである。

この「絶対生命」がヘーゲルの「絶対精神」と対抗するものであろう、。

シュレーゲルのヘーゲル批判とは

「空虚で思弁的な言辞を弄して、絶対精神なる空虚な神を追求するだけの虚妄の理論」


と、、、切り捨てている。


そして「絶対精神とは、生命否定の悪魔思想、」であると断じている、


そしてさらに「絶対精神とは絶対悪である」とさえ断じているのである。


まあ今現在シュレーゲルは完全に忘れ去られた思想家だが

私にとってはシュレーゲルのこういう反駁も一理あると思うのである。

なぜならヘーゲルの思想には絶対精神はあるが。個人の生命の躍動は皆無だからである。

こういう反駁がやがて

ニーチェや

キルケゴールを生み出すこととなるのである。





まとめ




ドイツ観念論哲学とは

総括するならば

形而上学の思弁的な難解な用語を操り、空疎な思弁哲学の壮麗な宮殿を建立したということである。

ドイツ観念論哲学とは、体系哲学の壮麗な大宮殿でありながら、あまりにも浮世離れしすぎた空論に近い形而上学体系哲学であり、

現実的な「ふるえる魂の」叫びからはあまりにも隔絶しすぎた非現実のまったくの空理空論とさえいえるものだったのだ。


「思弁哲学の壮麗な大神殿がそこにはある、しかしそこには生暖かい心を持った人間がいない」キルケゴール


現実の人間の喜怒哀楽からは全くかけ離れすぎた、まさに現実離れした空論哲学の典型例とされるものとなったのだ。


だが、この観念遊戯ともいえるような虚構体系哲学は別の意味では、「壮大なる知的遊戯」の空理空論体系として精密な観念遊戯の理論体系でもあった。


そしてその副産物として後世に与えた影響としては


観念遊戯体系の精密さからの知的刺激としての論理学的な応用、

現実分析への応用が部分的に可能であるという副産物?

あるいはのちの実存主義への反面教師として教材を提供したという副産物

以上のように大きな示唆と暗示を当てているのである。










参考文献

ヘルダーリン全集 河出書房、全4巻


精神現象学  樫山金四郎訳  河出書房


ヘーゲル精神現象学の生成と構造  イッポリット著  岩波書店 上下2巻


シュレーゲル   ロロロモノグラフィー叢書  理想社 刊

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