居眠りの間に
「……おじゃましま~す」
美帆は抑えた声で断りを入れ、人の気配を辿りつつ廊下を進む。時おり家の前を通り過ぎる車の音のほかはなにも聞こえない。夜の住宅地は静まり返っていて、その静けさはこの家の中まで浸している。
「トシく~ん? 俊哉さんったら~。ねぇ、いないの~?」
静かな夜だからだろうか。一階のどの部屋にも明かりがついていないからだろうか。まだ新しい一戸建てなのに疲れ切った廃屋のような湿り気を感じる。廊下の壁に設置されたフットライトだけがあたたかみのある明かりをそっと落としている。
美帆は階段の下から二階を見上げ、一段一段丁寧にのぼっていく。目の高さに廊下が現れると、一つのドアから帯状の光が漏れていた。のぼってすぐ右側の部屋。俊哉の部屋のドアの下の隙間からの部屋の明かりだ。
「なによ、ちゃんといるじゃないの」
美帆は心ゆるび、ほうと小さく息を吐いた。
ノックはしないでそっと部屋を覗く。こたつに突っ伏して居眠りをする俊哉の姿があった。美帆は溜め息まじりに「もうっ」とぼやきながら室内へするりと身体を滑り込ませた。
こたつを挟んだ正面に立ち、俊哉を見下ろす。
「なによ、ひとのこと呼びつけておいて居眠りとはいい度胸じゃないの。ちょっと、ほら、起きなさいよ。わたしに会いたかったんじゃないの?」
美帆の声に目を閉じたままの俊哉の顔がにやりと笑う。しかし寝息は途切れない。垂れかかった涎をすすり、軽く口元を拭うとそのまま再び眠りに落ちていく。俊哉は自身の腕に頬を乗せ気持ちよさそうに眠っている。
一連の様子を眺めていた美帆はふっと顔を綻ばせた。
「まったくもう。しょうがないなぁ」
美帆は俊哉の隣に座り込み、横向きになっている俊哉の顔と向き合うように頬をこたつの天板につけた。
俊哉の深い息遣いに合わせてあたたかな空気が寄せては返す。吐いた息は天板をかすかに曇らせ、その曇りが消える直前にまた新たな息で曇らせていく。
その単調に続く静かな営みを美帆は飽きずに見つめ続ける。
「ねぇ、トシくんったら。こんなところで居眠りしたら風邪ひくよ。脱水症状を起こすこともあるんだからね。ほんと、気を付けてよね」
言葉とは裏腹にやわらかな口調になってしまうことがちょっと悔しい。
一緒に暮らしていた時からそうだった。どうしたって俊哉には甘くなってしまう。だってこの人が目の前に存在しているというだけで満たされてしまうから。
いいところも悪いところもそんなものはなかった。なにがよくてなにが悪いかなんてなかった。すべてひっくるめて俊哉という人物で、わたしはもう、そのすべてがいいと思えるのだった。
「おい、こら。俊哉。聞いてんのかぁ?」
頬を指でつつくと、俊哉は腕の中に顔をうずめてしまった。
「あ……ごめん。指、冷たかった?」
春とはいえ、まだこたつをしまえないくらい夜は冷える。
俊哉が体勢を変えたことで腕と天板に挟まったスマートフォンが見えた。スリープの設定をしていないのか、ディスプレイは明るいままだ。
美帆は身体を乗り出して、でも俊哉を起こさないようにスマートフォンには触れずに覗き込む。
画像フォルダが開かれていた。小さな画像が並ぶ一覧表示。すべて美帆を映したものだった。どの美帆も満面の笑みだ。それもそのはず。カメラの向こうにはいつも俊哉がいたのだから。
「ばかね。なんでこんなの眺めてるのよ」
美帆は俊哉の後頭部に話しかけ、それからぺたんと座り直す。丸めた背中に寄り添うと、俊哉がもぞもぞ動いた。
「寒いの?」
尋ねるが返事はない。おだやかな寝息が続く。
その呼吸に合わせたら心も重なり合える気がして、なんとか真似てみようと思うのにうまくいかない。
一緒にいた頃ならば改めて意識しなくても自然にできていたはずなのに。もう離れてしまった。もう重ならなくなってしまった。
わかっていたのに。
それなのに呼ばれたからってほいほいやってくるなんてばかみたい。
俊哉だっていったいどういうつもりで呼んだのだろう。ばかみたい。いつまでも広い家にひとり。いつまでも写真を残して。
俊哉が起きるまで待とうと思ったけれど、会わずに帰ろう。
でもその前に。もう一度だけ顔を見せて。目を閉じたままでいいから。寝顔でいいから。
「トシくん……」
耳元で囁いてみる。ううん、と返事とも寝言ともつかない声が漏れる。それさえも忘れずにいようと思う。
顔は見せてくれない。
そっと頭を撫でる。白髪が混じっていた。泣きたくなった。泣けなかった。
こたつの上に煙草があった。潰れたソフトケース。安物のライター。どこまで溜め込めるか試しているかのように溢れている灰皿。
「禁煙、したんじゃなかったっけ?」
一緒に暮らしている時、気を遣って煙草はいつも外で吸っていた。そのうちそれさえやめていたというのに。
ああそうか。わたしがやめてって言ったからか。無理、してたのかな。うるさく言ってごめんね。煙草隠したり、いろいろ無駄な妨害もしたよね。でもね、ほんとうに心配だったの。
「あまり吸い過ぎないでね」
美帆は立ち上がる。
「こたつで居眠りもしないようにね」
やっぱり俊哉は顔を上げない。
それでいいのかもしれない。会えなくてよかったのかもしれない。会わない方がいい。
でも。出会えたことはよかった。ほんとうによかった。
「ありがとう。トシくん。元気でね──」
「……さむっ」
俊哉はのそりと上体を起こした。足だけはこたつであたたまっているものの、背中が冷えていて、ぶるりと震えた。
横になってもぞもぞとこたつに肩まで潜り込む。手だけでこたつの上を探り、スマートフォンを手に取る。画像ページが開いたままになっていた。
「──美帆」
写真に向かって呼びかけてみる。もちろん答えなどない。
ああ、わかっているさ。俊哉は自嘲気味に笑う。
なんだか妙な夢を見た気がする。そのせいかなんとも気持ちが落ち着かない。
気分を変えようとあたたまった身体を起き上がらせ、煙草に手を伸ばす。
そういえば美帆に煙草を隠されたりもしたな。それとか煙草のケースに──
手に取ったソフトケースをじっと見る。サインペンで文字が書かれていた。
吸いすぎ注意!!
そうだ。そう書かれていた。美帆はよくこうやって書いていた。
でもまさか。
たしかに言ったこともある。たまには会いに来いよって写真に向かって言ったこともある。だが、ほんとうに来るなんてありえない。
でも。おまえが吸うなって言うなら煙草はやめよう。こたつで居眠りするのも怒られるよな。気を付けるよ。
「心配してくれてありがとな」
俊哉は部屋の片隅を見つめて呟いた。それから煙草のソフトケースをくしゃりと握りつぶす。
「さあて。ちゃんとしなきゃな……ま、そのうちな」
美帆の遺影が「もうっ。しょうがないなぁ」と笑った気がした。
* fin *