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高機動車は砂漠を走る。
首都バグダードからシリア国境までまっすぐに繋ぐ国道沿いを、第201空挺連隊第1中隊は一列に車列を組んで快走する。目的地のラットバの町まではまだまだ時間がかかる。
ファルージャとラマディの中間近く。まだまだラットバへの道のりは遠い。
もともと薄い防弾性能しか持たない高機動車のドアを全て取り払って、風通しがいい巴の分隊を乗せた高機動車の前方を走る中隊本部の大型トラックの荷台を、車長としてドライバーの隣に座っている巴は睨みつける。
大型トラックが舞い上げた砂利をもろに受けないように、多少の距離を置いては居るのだが、それでも砂塵はドアがあるべき空間を通過して彼女らを襲う。首に巻いている防塵防寒対策のシュマグで顔を隠しESSのゴーグルで目を保護する巴は、取り分け不機嫌というわけではない。ただ、正面の大型トラックに乗っている友人の高城京子3等軍曹が、戦闘偵察連隊の狙撃手と笑顔を浮かべて話をしているのを見ると、ため息をつきたくはなった。
「あの人、感じ悪いっすね」
「戦闘偵察連隊のスナイパーの2曹のこと?」
ドライバーの飛田3曹は頷く。兵卒から小隊に所属する若手だが、下士官で軍に入隊した巴の目が届かない所──兵卒の心情や兵卒だからこそのモノのみえか見えかたなどをよく理解していて、巴を補佐している使える下士官だ。
痒いところに手がまわる、頼れる部下は巴の入隊同期でもある。
「目付きが悪いんですよね。周りを信用してないみたいで。そんな目で見られると、こっちも信用出来ないですよ」
「あれは無意識だとおもう。特務情報局とか中央情報局にはよく居るわよ」
大日本帝国の数少ない対外諜報機関である特務情報局(Secret military Intelligence Serviceの略)。ここでは敢えて触れないが、あえて簡単に説明すれば、日本のCIAと言ったところだろう。
「目を見て話してる筈なのに、視線が噛み合わないんですよ」
「そうでしょうね。合わせてないんだから」
「どういうことですか?」
「目を見てるんじゃなくて、漠然と全体を見てるのよ。相手とか周囲が何をしようとしてるのか観察して、脅威度を判断して、味方か敵か判別してるの。味方以外ならまず警戒して、明らかな敵なら無力化。不正規戦畑の人間に見られる特徴かしらね。まあ、あそこまで露骨だと逆に不審だけど」
体験談からそう話すが、学生時代の教官からの受け売りでもある。
早瀬巴は陸軍に入隊する以前は、特務情報局に所属する工作員だった。高等学校に一年間通った頃に、特務情報局のスカウターにアイドルの勧誘や読者モデルの勧誘をするがごとき気軽さで声を掛けられ、高等学校を中退して特務情報局に入局した。当時自分を勧誘したスカウターから後に知った話だが、元々はナンパついでのスカウトの練習だったらしい。それがまさかの棚から牡丹餅がふってくるとは思わなかったとか。ともかく、そう言った経緯で特務情報局については言うまでもなく、その中でも荒事──破壊工作や暗殺などを専門に扱う連中については良く見知っている。スパイ育成機関である陸軍小平学校(旧中野学校)で諜報員としての基礎を、帝国最南端の領土大宮島に駐屯する陸軍特殊作戦教導隊で破壊工作と不正規戦闘の基本基礎を叩きこまれ、幾ばくかの実地研修と実践試験を経て、特務情報局の工作員となった。入隊はそれからしばらく、二十歳になる頃だったが、それまでの数年間でいくつかの作戦に参加もしており、特務情報局での最後の作戦の折に、共に工作活動を行った陸軍特殊部隊の隊員からの勧めで、当時特務情報局での階級を無理やり陸軍の階級に当てはめた3等軍曹で入隊した。
以上の略歴の中で、巴は件の狙撃手──篠崎2等軍曹と同じ目をする人と三度ほどかかわった。一度目は大宮島の特殊作戦教導隊の当時の教官。二度目は初めて特務情報局で軍事工作に従事した時。三度目は休日の朝、鏡に映る自分を見たとき。
三度目に見たときなど、つくづく自分はこの仕事に染まっているのだと自覚した。同時に先達たちと同じ目つきになったことで、ようやく自分がスタートラインに立ったのだと、達成感と向上心も抱いたものだ。
「うげ~、そんな事考えながら生活しているんですか………。気が張って息するのも大変じゃないですか」
「ようは慣れよ。慣れちゃえば息をするのと同じ感覚で出来るようになるわ」
道路脇の標識に、ラマディまでの距離が表示されているのを認めると、彼女は飛田に車輌を砂漠に向けさせた。出発以前に示された休憩地点が、距離にして丁度標識が有った地点だった。前を行く車列に続いて道路脇の砂漠で、二列の縦隊で駐車する。
分隊に現在までの異常の有無を確認すると、小隊長にそれを報告する。小隊長はさらに中隊長へ、中隊長は連隊へ、連隊は作戦指揮所へと、報告は順を追って上へと送られる。手順を踏んだ報告は、何時でも厳格に守られている。
中隊長から下達された出発時刻や事後の細部指示を、伝言ゲームの如く小隊長から下達された巴は、枯れた土に足を取られながら、デザートタンの自車に戻る。
車輌に戻れば、兵卒が昼食の用意をしているだろう。ただし、温かい食事は期待できない。携帯口糧を温めるヒートパックなる便利グッズが口糧と共に支給されてはいるが、加熱剤と呼ばれる酸化カルシウムとアルミ粉末からなる袋に水を含ませる事で化学反応を起こし、熱を生じさせるものだが、砂漠で水は貴重品である。個人の趣向品に近いヒートパックに使うような余裕は無いのだ。
待っているのは、常温保存のレトルトパックの口糧と、巴がこだわって口煩く兵卒に指導した引き立ての味を出すドリップコーヒー。もしかしたら、大豆のスティックバーくらいはあるかもしれない。
携帯口糧としては美味な部類に含まれる『チキントマト煮』や『肉団子』である事を期待しつつも、現実は矢張残酷だった。
「今日は早瀬2曹の好きな『鰹カレー』ですよ」
「最高にモチベーション下がるメニューだわ。増加食は?」
「無し!」
思わず操縦席で食事を取る飛田3曹を蹴り倒したい衝動が沸いたが、彼女の自制心は自分で思っているよりも強いらしい。深いため息をついて分隊最下級の兵卒から口糧を受け取り、後程コーヒーを持ってくるように言い付けると、常に共に食事をしている京子を探す。
彼女は中隊本部の大型が作る日陰に入って昼食のカレーを至福の表情で食べていた。京子とは常々味覚が合わないと、思っていたが、今日ようやく確信した。
「あなたの味覚、やっぱりおかしいわ」
京子の隣に腰かけてため息を漏らしながら携帯口糧の封を切る。コンバットタイヤに寄りかかりながら口に運んだ『鰹カレー』の生臭さの不快なこと。
「いきなりそれって酷くない?」
「こんな食事うまいって言うのあなたくらいよ」
「好き好んでドクペ愛飲してるような女に言われたくないわ」
「コーヒーに砂糖とミルク入れなきゃ飲めないようなお子ちゃまな舌だからかしら。カレーってつけば何でも美味しく感じるんでしょうね」
「ふん。海老原2曹は『鰹カレー』不味くないって言ってたわよ」
「誰よ?」
「ほら、戦闘偵察連隊の篠崎2曹の観測手の」
「ああ、背が高いあの人ね。バディーが有名過ぎて影薄いよね」
言われなければ思い出せない上に、思い出しても顔まではっきり出てこない。つまりその程度の印象しか抱かない男で、巴が意識するボーダーラインを下回る存在ということだ。
そもそも、その海老原なる男は『鰹カレー』が好きとは言っていないのだから、京子に妙な親近感を抱かれても迷惑だろう。
分隊最下級の兵卒が巴専用のマグカップに淹れて持って来たドリップコーヒーを啜り、吐息を吐く。
束の間の休息を友人と他愛もない会話で浪費する贅沢。若き日の時間と言う有限の資源は、わりと誰もが無駄に費やすもので、しかしそれを勿体無いと判断して、限られた時を如何に使うかは、個人の裁量いかんである。若き日の貴重な資源を友人との良好な関係の再確認に費やす巴は、しかし楽しい時間とは裏腹に遅々として糧の減らない食事に嫌気が指し、食事すら贅沢にも砂漠にそれを埋めた。
ラマディに到着したのはすっかり冷え込んだ夜だった。
ラマディの郊外からしばしば離れた地域にヘスコ防壁とコンクリートの壁で整形された陸軍宿営地の一角を間借りして一晩を過ごすことになり、巴は車輌の助手席を限界まで下げて、明かにサイズが大きすぎる戦闘外被を着て仮眠をとることにした。流石に夜は宿営地ということもあり、温めた携行口糧の『肉団子』に舌鼓をが打ったが、矢張温かい食事は細やかではあるものの、緊張を和らげる。
改めて、食と文明の偉大さに感謝である。
「まだ起きてる?」
不意に、京子が暗がりの中から現れ、巴の顔を控えめに伺った。年の近しい同期入隊の彼女は、赤色灯火のヘッドライトで足元を照らしながら、背後に人影をひとり連れていた。
「起きてるよ。どうかした?」
高機動車の車内の分隊員は、周辺監視の歩哨を除いて、ほぼ全員が寝静まっている。巴は横たえた身を起こしながら、声を潜めて、京子の背後に立つ人影を伺った。
日中の会話に上がった戦闘偵察連隊の狙撃組の観測手の相方、つまりイラク派遣部隊の有名人である狙撃手──名前はたしか篠崎2曹だったはずだが、京子の背後に居たのはその人だった。
ドライバーの飛田3曹が愛想がないと低評価を下した眼差しで、巴を見ている彼は、しばしば視線が重なっていても気にした素振りは見せず、平然と彼女を観察している。そんな視線に、遠慮は要らないだろうと見つめ返すが、それも長くは続かなかった。巴は意識だけは残しつつ、視線を京子にシフトさせる。
「コーヒーを淹れてもらいたくて。巴の分隊がコーヒーに凄く拘ってるって話したら、篠崎2曹が是非飲んでみたいって」
「まあ、いいけど。皆寝てるから私が淹れるコーヒーになるわよ?」
「寧ろ巴が淹れるなら安心して薦められるわ。お願いね。私は今から駐留部隊から医療品分けて貰いに行かなきゃだから」
彼を残してそそくさと闇に消えた京子を見送ると、しばし二人に無言の間が訪れた。去り際に京子に礼を言っていたあたり、彼は最低限礼儀は知っているようだ。
「コーヒーでしたね。今からお湯沸かすんで待ってて下さい」
「仮眠中に申し訳ない」
「いいえ、私も飲みたいと思っていましたから」
そんな筈はない。先程飲んだばかりで、これから仮眠しようと言うのにコーヒーなど飲むものか。社交辞令で言いはしたが、果たして彼に伝わっただろうか。この男が察しのいい人間であることを期待しつつ、巴は湯沸かしの用意をする。ガスバーナーで二人分の湯を沸かす。
車輌の陰で膝を抱えてバーナーの青い炎を眺める。鍋の中に気泡が沸き立つのを認めた巴は、彼が差し出した官給品のコップにコーヒーをおとす。
「砂糖とミルクはいれますか?」
「そのままでいい。ありがとう」
コップを受け取り、口を付けた彼は、小さく呟いく。
それがロシア語だと気付くのに、彼女は幾ばくか時間を要した。そう言えば小平学校でさわり程度に習ったロシア語の講義で聞いた覚えがある。確か意味は────
「美味しいコーヒーだ。ありがとう」
表情も声色も変えずに、僅かばかり目元の緊張を緩めて、巴の顔を真っ直ぐに捉えた彼に、彼女は微笑みを浮かべる。愛想がいい、万人が惚れるような微笑みだ。
「私の少ない趣味ですから」
「洒落た趣味だ。味もいい」
「インスタントの粉だと満足できないので、定期便で本国から買い求めています。駐屯地なら豆から挽くんですが」
「拘りがあっていいじゃないか。こっちに来てから趣味らしい趣味もないから羨ましい」
ポツリポツリとしたぎこちない会話は、互いのコーヒーが無くなるまで続いた。飲み終えた彼は礼を言い、立ち去る。当たり障りない距離感のある会話しかしなかった巴は、彼が見えなくなると、ため息をついて道具をかたす。
「コーヒー飲んだら寝れないじゃん…………」