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松岡にSISへ出向の辞令が交付されたのは、昨日の事だった。SISの連絡員を名乗る男が、一連の暴力団関連事件の容疑者二人の非公式な交換取り引きに現れた翌日の昼には辞令が交付されるとは、まるで予定調和のよう。捜査本部長からの辞令交付と言う建前の警察庁からの命令は、効力が切れる期限無しの片道切符のようであった。
辞令が交付されたのは、松岡と京城府警察本部の公安警察官であり、元松岡の同僚だった岸警部補の二人。昔の同僚にして同期の岸と勤務できる喜びはあったが、松岡はその感情に一喜することは出来なかった。
岸と共に準備をしている時から、彼の顔には暗鬱とした表情が強く現れていたのだ。
松岡の私有車で、SISとの合流地点へと向かう今ですら、岸の雰囲気にのまれて、車内は重い沈黙が支配している。
場所と時間は、SISが指定してきた。
岸の纏う肌で感じる緊張と、不安から来る内面からおそう緊張とで、手に薄く浮かんだ汗を拭いとると、ドリンクホルダーのコーヒーで喉を湿らせる。
「松岡はSISの連絡員に会ったんだよな?どうだった?」
「女みたいな顔した線の細い男だったけど」
思い出すと、彼らは不思議な人物だ。連絡員の男も、工作員の男女も、一見しただけではそれと分からないよう、自然と一般市民に溶け込んでいたが、勾留や聴取に慣れた様子や、警察官に臆しない物言いは、一般市民には見られない。
言動と態度の不釣り合い。
違和感程ではないが、彼らに不思議な感覚にさせるのはそれなのだろう。
「それは多分、SISじゃないかもな」
私見に感想を述べてみると、岸は騙されたなと松岡を笑う。
「いや、SIS名乗って警察乗り込むバカは居ないだろ。それに、事実確認も取った上だぞ?」
「いや、確かにSISは絡んでたんだろうけどな。連絡員ってのは意外とSISの局員じゃない可能性があるって話」
「というと?」
「SISでこう言った現場に出てくるのは、情報工作官か軍事工作官だけど、それ以外だと軍人になるんだ。SISの場合は、SISとは名乗らないし、軍人の場合は特殊部隊の人間が多いから自分を軍属とも言わないから、SISって名乗るのは十中八九軍属なんだよ」
「じゃあ、連絡員って名乗った見た目は女のあいつは軍の特殊部隊員?それにしては弱そうだったけど、テロリストとかカルト教徒が普通の見た目してるのと一緒か……」
郊外を外れて港湾地域に出て、コンテナ群とクレーンの並ぶ貨物タンカーの埠頭を望みながら走っていた車は、海沿いに面した一棟のホテルのロータリーに侵入する。ビジネスホテル等の安宿ではないが、高級すぎない程度の会員制のホテルだ。
SISが指定してきた合流場所だが、本当にここで合っているのか不安になる。
ロータリーで待ち受けていた、ホテルの制服を着たドアマンの案内で、二人はロビーに通されるが、その際「内田と待ち合わせしている」と伝えると、ロビー脇のラウンジへと通された。
「本当に合ってるのか?」
「間違ってはない筈だけど……」
不安が口をつき、それに不安が返される。
案内されたラウンジのソファーには、先客が二名座っていた。背広を着て、コーヒーと紅茶を楽しむ二人組は、松岡達を認めると、笑顔を浮かべてソファーを立つ。
「初めまして、東亜陽光貿易企画部中央アジア営業事業拡張室室長代理の蒲原と申します。隣の彼は営業部中央アジア課の川崎です」
名刺と共に握手を求めてきた蒲原に、松岡達も名乗りながら右手を差し出す。固く結んだ互いの右手から、確かな信頼を感じるのは、どんな経緯があろうとも悪い気はしない。
「任務の進捗状況は実際に現地に行ってから説明します。お二人には今から別の場所、営業部が使用している事務所に行ってもらい、そこで指示を受けていただき、営業部と共に外回りをお願いします。では川崎さん、お願いします」
「細部は移動しながら話します。ついてきて下さい」
ラウンジのソファーに通されて、座る間もなく川崎に続いて、ホテルの地下駐車場に出る。既に黒のスーツ姿の長身な男が、黒いクラウンを用意して居た。ドアを開けて、車内へ。車両用の芳香剤の香りが強い車内は、男四人には手狭に感じる。
助手席の川崎がドアを閉めると、クラウンは動き出した。
「わざわざ来ていただいたのにすぐの移動で申し訳ありません。尾行対策と安全確保のためですので、ご容赦ください」
「構いません。自己紹介が遅れました。京城府警察本部から来ました岸です」
「同じく松岡です。よろしくお願いします」
「陸軍特殊戦闘作戦部の剱持です。運転手の彼は」
「小林です」
涼しげな印象の笑みを浮かべた糸目の川崎──もとい剱持は、矢張陸軍特殊部隊の人間だったようだ。と言うことは、先日の板東達も矢張陸軍なのだろう。
「本作戦の目的をお二人はご存知ですか?」
「概要は封緘書類で拝見しました」
「SISによる違法薬物の国内流入の規制強化と犯罪組織との調停だと……」
「柔らかい表現で言えば正確ですが、正しくは犯罪組織の傀儡化、又はそれが困難な場合の撲滅です」
剱持ははっきりと言い切った。
政府の暴力装置として、表現に柔軟さを含まないハッキリとした物言いは、度々ワイドショーにて物議を醸す。聞き手に対して言葉による抜け道を通らせない、軍人ならでわの強い言葉選びだ。
「作戦は現在七割以上が完了。第一段階として彼等の拠点や倉庫を襲撃、此方の存在を強調しつつ話し合いに誘導。第二段階は敵対組織にからの圧力。これは我々からのアプローチよりも先を越されて失敗しました。結果は先日のクラブでの一件を捜査していたあなた方の方が詳しいでしょう。第三段階は金龍の頭目である金泰愚の捕縛。作戦は既に第三段階に入り、件の犯罪組織は此方が用意したテーブルにつくか、徹底抗戦かで揺れているでしょう。金泰愚は我々の交渉に応じるでしょうから、彼さえ捕らえてしまえば、組織は内部分裂し、SISはその間に分裂した組織を吸収、傀儡化、出来なければ各個撃滅ずるだけです」
「矢張クラブでの一件はあなた方ですか……」
「公式の記録にはヤクザ同士の抗争として処理されます。我々としても民間に被害が出たのは心苦しくあります」
忌々しげな岸の呟きに、剱持は心底不本意だったと語るが、それが本心とは思いづらい。松岡としては、この件については、徹底的に真実を突き止めるべきだと思っているが、拳を握ってその感情をこらえる。今はまだ、その時ではないのだ。
「金泰愚が交渉すると言い切る根拠はなんです?我々警察もあらゆる手段を講じて接触を試みた事がありますが、応じたのは代理人を介した話し合だけです」
松岡が問う。
金龍は旭真会に並び警察にとって悩みの種の一つだった。当然警察が動かないわけもなく、過去幾度かのコンタクトを試みたが、ことごとく成果を挙げられずにいた。警察が出来ないことを、SISの力を借りても、なぜ陸軍が出来ようか。捜査や交渉事に関して、警察官の松岡には譲れないものがある。
「人間誰しも、弱味は有りますからね」
自分がやられて嫌なことは、積極的に敵にやれ。
陸軍は嫌がらせの天才だ。
昔、元陸軍特殊部隊員の著者が記した本を読んだ。その著者の所属部隊は秘されいたが、極めて機密性が高く戦闘に秀でた部隊で、そこに所属する隊員達は訓練により、徹底して嫌がらせの技術を磨き、嫌がらせには嫌がらせで返すと学ぶらしい。
陸軍特殊部隊の人間とは、皆一様にそうなのだろうか。
「チームは今何処に?」
「第二セーフハウスにて次の仕事の準備中です。次の仕事にはお二人にも参加していただきますが、武器装具はありますか?」
「拳銃ならありますが」
松岡と岸が腰の自動拳銃に意識を向けると、剱持はそれだけで二人の武器の位置を察したようだった。
「チョッキとヘルメットは貸し出しましょう。確か予備がありましたね?」
「SISが使っている物でよければ、確か向こうにありました。主武装はM4かMP5があったと思います」
運転手の小林が、少し考えてから答えた。
岸も松岡も拳銃以外の武器などろくに使った事がない。一般の警察が保有する銃器は治安維持に必要な最低限に限る。自動小銃や短機関銃は制圧部隊たる警察の特殊部隊でない限り保有していない。
それを理解してか、剣持は「銃は拳銃だけでいいでしょう」と言って、二人に同意を求める。
「戦闘になった際は、ご自身の身を守ることだけを考えていただければ結構です。隊員達にも、そのように徹底しておきますので」
「あ、はい。正直貸与されている拳銃以外使ったことがありませんから、お借りしても使えるかどうか」
「警察官の方はそうでしょうね。どうしても必要になったらお貸しします」
できればそんな事態は願い下げだ。危ない橋は極力渡らず、安全にしかし確実な手段でもって、犯人逮捕に邁進するのが警察官だ。
「到着です。足元が悪いので置きおつけて」
京城府からおよそ十キロと少し。海側というよりは内陸にある、もう倒産して廃棄されたコンクリート工場の跡地に、彼らは降り立った。周りに住宅は少なく、隔絶された陸の孤島のような場所だ。昭和の中頃では、よく行方不明になった在日外国人の死体がいきされていたことで有名になった地域で、今は危険のために立ち入りが制限されて居る筈だが、どうやらそんなことはSISも陸軍もお構いなしのようだ。
剣持に案内されて廃工場に入っていく。つい最近できたばかりであろう車両のタイヤ痕や足跡が、積もった埃に残っている。松岡たちは、足跡の続く地下へと歩む。地下に降りると、足元は比較的に清掃された様子だった。足跡の類がわかり辛い。
薄暗い廊下。電気は通っているのだろうが、蛍光灯の類は一切点灯されておらず、あるのは足元のに二十メートル間隔で置かれた薄暗い電気カンテラだけだ。
「なぜこんなに暗くしているんですか?」
「侵入者対策ですね。人間の暗順応は意外と時間がかかりますから、目が慣れないうちに制圧してしまうのが狙いです。それに、暗いと道がわかり辛いので、自己位置をわからなくさせるのです。疑似的に簡単な迷路を作るのが狙いですね」
「私もここへは始めてきたので詳しくはわかりませんが」。暗くてわかり辛いが、おそらく剣持は苦笑しているだろう。しかし、作戦の執行責任者という人が、来たことがない施設とはそれ如何に。いや、それだけ部下を信用して任せているということの表れなのだろうか。
「――――誰か……!?」
不意に暗がりの先で声がした。低く、力強い声。
唐突な誰何には、当然のように剣持が答えた。
「剣持だ」
「お待ちしてました。そちらの二人が警察の?」
「そうです。松岡さんと岸さんです。他の人たちは部屋ですか?」
「待ちくたびれてますよ」
暗がりから溶け出るようにして現れたのは、大柄な体躯の男だった。短機関銃を携えて笑みを浮かべる男だが、目だけが笑っていないのが異常なほどに不気味だ。
だが、その笑顔は彼らの標準装備だと気づくと、そういうものとして認識しなければいけないように感じて、あまり意識しないよう努めた。というのも、案内された部屋の中に居た隊員たちは、一様に目だけは笑っていない笑みを浮かべているか、まったくの無表情で居るかだったのだ。その中には、先日京城府警察本部に来たSISの連絡員を名乗っていた男も居たが、その時に浮かべていた人当たりの良さそうな愛想笑いは、その面から剥がれ落ちたかのように、能面のごとき面で松岡達を出迎える。
「作戦説明をする前に、二人を紹介します。京城府警察から岸さんと松岡さんです。彼らについては、基本的に我々の作戦行動に同行していただきます」
「何で?」
「SISは国内での作戦行動に公安委員会の立ち合いが要るからな」
「まるで停戦監視団だな」
「まだ話の途中だぞ」
私語は一瞬で静寂に支配された。最初に出迎えた大男の一言に、その場にいた男女は黙して剣持に傾聴する。
その中の一人、女性隊員と目が合った。二十代前半からまだ十代にすら見える彼女は、ニコニコと笑みを浮かべていて、異質な眼差しの集団の中で、終始目ですら笑っている。ある意味この中では、彼女が最も異質かもしれない。
「作戦についてはSISの護衛任務です。SISと金龍の穏健派による会合を護衛します」
「強硬派が乗り込んでくる?」
「そう見積もって間違いありません。金龍にとって、この会合は事実上の降伏調停となってしまいますから、それを良しとしない強硬派はなんとしてもこれを阻止するでしょう。会合の場所も場所です」
隊員の質問の答えた剣持は、部屋の壁際に寄せられた白板に、ブリーフケースから地図を取り出して貼り付ける。白板にはすでに金龍の幹部の写真や、何処の物とも分からない地図に印が無数につけられたものが張られていたが、お構いなしに地図を貼る。
テーブルや床に座っていた部屋の一同が、白板の周りにパイプ椅子を広げて座りだす。
「どうぞ」
部屋の中でも数少ない女性であるボブカットの彼女が、松岡と岸にもパイプ椅子を用意してくれた。ボロボロで、歪んでいたりクッションが破れていたりするが、それは気にしないでおく。
「場所は平安北道の海岸線沿い、中国との国境線付近の村で、村民の半数以上が大麻栽培で生計を立てているのですが、残念なことに金龍の息がかかっています。想定されるケースとして、村民がゲリラ化して我々と交戦、なんてこともありえますね」
「確か中国の隣接地域の国境軍って、金龍と通じてなかったか?」
「そんな資料もありましたね」
「つまり、想定される敵としては金龍の強硬派とゲリラと中国軍か?」
「部隊を集めた方がよくないですか?」
「特殊作戦群を呼ぼうとしたのですが、SISの方が参謀本部に掛け合ったところ却下されました。代わりに国境警備隊が応援に駆けつけてくれています。我々の一個班と国境警備隊一個班とSISの軍事工作官が少しのチームになります。現場指揮権は軍事工作官にありますから、あっまり迷惑はかけないでくださいね」
「礼儀正しく客人をおもてなししますよ」
彼らの作戦説明の様子を傍目に見て、特殊部隊とは映画で見るよりもずっと適当な連中なのだと、妙な関心を抱いてしまう。松岡には理解できないような専門的な話まで始まる始末だ。岸は公安に居る間に特殊な訓練も受けていたようで、必死に話についていこうと努めている様子だ。
「災難ですね」
「はい?」
「警察の方が私たちの任務に付き合わされるのって、結構大変だと思います」
隣に座っていた女性隊員が話しかけてきたが、松岡はしばしば言葉に詰まった。まさか話しかけられるとは思っていなかったために、言葉が咄嗟に出てこなかったのだ。
「まあ、完全に畑違いですからね。いいんですか?話に参加しなくても」
「ああ、私は行きませんからね。けど、一応聞いてはいますよ」
「なぜ行かないんです?」
「私には別の仕事がありますから」
曖昧に笑って濁す。深く聞くなと言っているのだろう。
「どうやら、松岡さんは向こうに行くみたいですよ」
そう言われて、松岡は岸を見ると、彼は覚悟を決めた表情をしていた。




