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微睡みの中で、肩を数度揺すられて、氷室は目を覚ました。
この殺風景な部屋に連れ込まれて三日。既に何週間も経過した感覚だが、彼は青井の尋問を実質三時間程しか受けていない。顔は目に見えて、尋問を受ける当初よりもやつれ、疲れている。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「…………」
自分を起こした相手を見れば、たった三時間で人生最大のストレスを与えてきた、会いたくもない女が、出会ってから絶やさなかった笑みで、微睡みから覚醒した彼を迎える。
青井の尋問は容赦がなかった。氷室が少しでも反抗的な態度を取れば、宣言した通りに彼の妹は指先から痛め付けられる。何かと理由をつけては、女に危害を加える指示を出す青井は、常に笑顔を絶やさなかったし、それが余計に恐怖心を増長させる。女をいたぶる汚れ役に徹する者達も気の毒だ。善良で人の良い隊員だが、矢張どこか頭のネジが飛んでいる。彼は青井の要望に、一切の躊躇を見せなかった。何処までも機械的で、消化作業のように、無慈悲に実行する。
「貴方の情報の裏を取るのに二日もかかってしまいました。お待たせしてすいません。ですが、お陰で我々に有益な情報が手に入ったのも事実です。ご協力に感謝します」
ピシャリとスーツを着た青井は、矢張どこかキャリアウーマンらしさがあって様になっている。彼女は手ずから、氷室に水を飲ませ、少ないが食事も与えた。どことなく、入院患者を介抱する看護師の様な仕草と丁寧さは、青井の看護師免許が嘘の経歴ではない証明の様である。
氷室がもたらした情報は多くない。
旭真会が何故、敵対組織と手を組んだのかや、その経緯。彼女らが追う標的の男金泰愚とその部下への連絡手段や連絡先。知っている限りの敵の潜伏先や取引場所。知っている幹部構成員の名前。
これ等を聞き出すために、青井は氷室の妹の左手の指を三本切り落とした。利き手とは逆手から切り始めたのは、彼女曰く優しさらしい。しかし、氷室の妹の手から爪がなくなり指が曲がら無くなって、根元から三本切られたことで、彼等の仕事に進展が見られた。
「しかし、残念ながら真に私達が望む情報は有りませんでした」
手に入れた連絡先は、全て不通になっていた。入手した名簿も、全て偽名だ。取引場所や潜伏先も、既にレイスによって壊滅された跡地。
剱持大尉が非情の手段だとしつつも、優と青井にMrドラッグの娘である木村穂波の拉致を指示したのは、今からほんの一時間前だ。
進展は、彼等の望んだ方向へは進まない。
「妹さんは適切な治療を受けた後、今回の一件に関しては確実に他言しない旨を伝えて解放しました。切断した指についても、最新医療で問題なくくっ付くそうです」
これは事実だ。まあ多少の後遺症はあるかもしれないが、定期的にこの病院に通院が義務付けられ、治療と同時に、他言していないかの面談が行われる予定だ。仮に他言すれば、青井が行わせた行為が再び彼女を襲う。
「俺はどうなるんだ……?用済みで処分か……?」
絞り出すような氷室の声。昨日まで、朝鮮有数の巨大ヤクザ組織の若頭だったとは、誰が思うだろうか。
「それについては、私の管轄外ですから、分かりません。もしかしたら、妹さん同様に秘密に関する誓約をして解放かもしれませんね。改めて担当者が来ると思いますから、そちらに聞いてみてください」
これは嘘だ。彼の身柄はこのままSISを通じて、何処かの刑務所へ移送されるだろう。彼の社会復帰は絶望的に望み薄だ。SISは一度捕らえた標的は、絞れる限りは情報を絞り出す。使えなくなれば、臓器ドナーか衛生防疫本部の実験台送りだ。
彼は今後二度と、外界に触れることはないだろう。
「この度は、我々にご協力頂きありがとうございました。願わくば、もう二度と会うことがないよう」
「あんた、青井と言ったな」
「ええ」
「世の中因果応報だ。あんたも、じきに報いを受けるだろう」
「そうですね。だから貴方は私と出会ったんですね」
クスクスと笑って「因果応報とは、よく言ったものですね」と呟いた彼女は、何かスイッチが入ったかのように、普段からは豹変したサディスティックな表情をする。
「構いません。悪行の数だけ善行を積むのみですから。それと、私の行いは悪ではありませんよ」
項垂れるようにして、青井を睨む氷室に、彼女は去り際に言って残す。
「国がそれを望むのですから」
「ロシアで仕事をしていた時に、捕虜にとられた仲間の救出任務があった。シリア北部の辺鄙な場所だ」
廊下を歩いていると、不意に篠崎優2等軍曹が言う。
正面を見つめた碧眼が遠い目をしているのは、追憶の中のシリアを思ってだろう。
青井は口を挟まずに、無言で傾聴する。
「テロリストに捕まった仲間を見つけた時、彼は既に事切れていたが、体は酷い暴力を受けた痕があって、手足もなく、頭部も体から離れていた。そのすぐ後に、アルジャジーラで彼を処刑する映像を見たが…………──彼は良い友人だったが、その彼にくらべれば、氷室の待遇はとても悲観するものではないな。尋問を見ている時、そんな事を思った。彼も氷室のように、自らの無力を嘆いただろうか」
「兵隊は厳しい訓練と仲間の存在と銃後の家族を思うことにより、強靭な精神力を持っています。その彼は、きっと無力を嘆く事はなかったでしょう。誰もが、心折られる拷問にも、きっと耐え抜いたのだと思います」
「そうか……」
氷室の尋問は無関係な人間を巻き込んでいる。善人の剱持はいい顔をしなかったし、非難されて仕方ないやり方だったが、青井は確かに、情報を聞き出している。結果が出てしまえば、誰も過程を咎めはしなかった。対外作戦班はそういう組織なのだ。
二人の間に、それ以降、ブリーフィングが行われる作戦室に到着するまで、会話は生まれなかった。
SISの施設内の一角を間借りした場所に、今任務の作戦室が置かれている。作戦説明や成果報告や定期の情報共有会は、全てここで行われている。
部屋には、小林と一之瀬が暗い顔をして、剱持大尉もいささか思い詰めた様子だった。他の仲間達も一見普段通りだが、呆れた様にも見える。
「どうかした?」
小林の隣の席に座った優に、小林は「よくない話です」と前置きする。
「三角さんと西谷が京城府警に捕まりました」
「容疑は言わずもがな。SISが待ったかけて、まだマスコミには漏れてないが、京城府警は釈放には応じてない」
小林に続いて一之瀬が答える。
優の口から深いため息が漏れた。
「いつですか?」
青井が聞く。一之瀬が答えた。
「二時間前。三角が西谷を無理矢理連れ出して、スタバ行ったら、所轄の警察に職質されて、銃刀法違反の現行犯逮捕だ」
「その様子だと、抵抗はしてないんだな」
優の問に二人は首肯した。
「聞いた通りだ。木村穂波を確保したら、優は二人を迎えに行ってくれ。手は回しとく」
苛立たしげな様子でため息を漏らした剱持大尉に、優は申し訳ない気分になった。
「あの二人は任務から外しましょう」
「ああ、そのつもりだ」
「分かりました」
「すまん」
「構いません、剱持さん」
苦笑してた優に頭を下げた剱持大尉は、そのまま拉致作戦の説明を開始した。
優が派遣されてきて一月。事態はようやく動き出した。




