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「六時起床、七時通学、八時登校。今日もいつも通り。毎朝決まった時間で過ごせるなんて、学生っていいなー」
学生服姿の少年少女が学舎の門を跨ぐ様子を見守る彼女の眼差しは、経験しなかった普通の学生への羨望の色が強かった。自ら進んだ人生だが、矢張もしもを思うことは常々ある。
京城府内の私立高校の校門が視認できるコンビニの駐車場に停めた、マニュアル仕様のセダン車のハンドルに体重を預けて、"もしも"を思う青井は、高等学校を知らずに大人になった。中等教育も半ばで陸軍幼年学校への進路を定めた青井は、青春を全て軍のために捧げている。学友との時間や恋人とのロマンスも無く、規律と訓練と勉強に費やした過去に後悔はないが、しかし穢れを知らぬ若々しい彼ら彼女らに憧れるのは、若くして軍服に袖を通した若人の必然だろう。
換気のために僅かに開けていたウィンドウを誰かが叩いた。
「羨ましいか?」
大手珈琲チェーンのドリップコーヒーを両手に持った、スーツ姿の篠崎優が助手に乗り込んで、ドリンクホルダーに置く。まだ春先の肌寒さが残る季節だが、晴天の空から差し込む日差しで車の中は暖かい。ジャケットを脱いで後部座席に投げた彼は、買ってきたドリップコーヒーに口を付けて、青井が眺めていた学生達を、無感動な眼差しで見やる。
「ありがとうございます。まあ、羨ましくないと言えば嘘になりますね」
彼の好意で買ってきてくれたドリップコーヒーは、彼女に合わせてミルクと砂糖を入れた甘めに仕立ててある。後輩に意外な気配りが出来るのは、社交性が希薄に見受けられやすい彼が、幽霊部隊の仲間に可愛がられる理由の一端なのだろう。
「私は中学三年に上がる年に幼年学校に入りましたから、高校を知らないので、やはり高校生活の青春は憧れます」
「英次と同じ口か」
陸軍幼年学校は、言ってしまえば大日本帝国陸軍の下士官育成及び士官適正保有者選別のための教育機関だ。中学卒程度の学力と極端に軍に不適正な人格がなく日本国籍があれば、入隊可能最高年齢に達していない限り、誰でも入ることが出来る。例え義務教育を修めていなくてもだ。学校と銘打たれているが、当然管轄は国防省のため、一般に高等教育に分類されるが高等学校卒業資格は文科省が認めていない。陸軍の陸軍による陸軍のための学校だ。因みに余談ながら、責任能力に難がある十八歳未満の若者の場合、保護者の同意書が一筆必要なのだが、青井の両親は同意せず、当時反抗期真っ盛りであった彼女は同意書を偽造し、勝手に受験して勝手に入隊した行動力のある不良少女だった。
「そうですね。えい──千葉さんは私の二年先輩でした」
「いつも英次って呼んでるのか?」
「い、いえ……まあ……。実は実家が近所なんです。兄が英次くんと同級生で、親どうしも仲が良かったので、幼い頃からよく私の面倒を見てくれていたので……」
台湾島の台南市の生まれである青井は、物心ついた頃から千葉英次を見知っていた。血縁がない兄と言ってもよい程に、幼き青井は実の兄が英次と遊ぶ時、後について歩いていた。中学を辞めて陸軍幼年学校への進路を定めたのも、半ば英次が入隊した後を追ったこともあるし、彼女の初恋も彼だった。
彼女の行動の中心には、常に彼が居たと言っても過言ではない。
しかし、それも過去の事だ。
今となっては、幼き自分の行動ながら、恥ずかしさしかないし、初恋も幻想や気の迷いだったのだろう。英次には相愛で溺愛している恋人がいるし、青井も子供ではないのだから人並みに恋愛もしている。
しかし、前任部隊以来の先輩に知られるのは、過去の黒歴史が綴られた見られたくない心のメモを見せているようで、羞恥心しかない。
「青井なら楽しめるかもな」
羞恥心にうちひしがれ、耳まで紅潮させて黙りコクった青井に、優は呟くように言った。もしかしたら聞き漏らすかもしれないような呟きだった。
「な、何がですか?」
「高等学校だよ。青井みたいな性格ならきっと楽しいだろう、社交的でおおらかだからな」
「そうでしょうか……って、まるで高校行ってたみたいですね」
「一年だけ行ったからな」
「ええっ!?いつ頃ですか?対外情報庁退職してから入隊までとかくらいですか?」
自分のことを話さない優の過去は、意外と知られていない。少年工作員としてロシア対外情報庁の秘密部隊ザスローンに所属する工作員であったことと概略の軍歴以外は、多くが謎な人だ。特に、ザスローンに入庁する経緯やそれ以前については出身地や家族構成などの個人的な一切合切、ザスローンを退職してから入隊まで等、知っている者は本当に一部の人間以外に居ないのではないだろうか。
「ああ。あんまり楽しくはなかったけど」
「そんな!毎日友達とドラマとか好きな子の話して盛り上がったり、クラス一丸になって優勝目指す体育祭とか、文化祭で出店やって狭まる男女の距離とそこから更に後夜祭でカップル成立とか、一時の気の迷いで始めちゃうバンドとか、好きな子と行動するためにあの手この手を尽くす修学旅行とか、高校なんて毎日がイベント盛りだくさんじゃないですか!」
「少女マンガの読みすぎだ。そもそも高校は三年からの編入扱いだったんだ。受験生に恋愛ごっこに費やす時間なんか無いし、体育祭なんか運動部の独壇場だし、文化祭で出店なんか出したら菌検査だったり衛生管理だったり資金面でも調整と申請で目が回らなくなるし、後夜祭なんかやってるん学校じゃなかった。修学旅行だって受験で忙しくなる前の遊び納めで二年生で行くもんだ。バンドだって、俺はああいう騒々しい音楽は好きじゃないからやらない。そもそも三年にもなればそれなりに仲のいいグループは固まってるし、外国暮らしが長すぎる異邦人で英語とロシア語を自由に使うような編入生は腫れ物扱いだ。一年生から通っていれば或いは別だろう」
「それでも、やっぱり羨ましいです。陸軍しか知ら無い私のが普通の学生してれば、もっと視野が広がったかもしれないですから」
「確かに、俺も一年だけでも行った価値はあった。民間の学生の思考過程を学べたのはいい経験だった」
「高校行っても多分、結果的にはこの仕事やってるんでしょうね」
「そうか?青井はこんな仕事よりも、別の進路を進んでいると思う」
「そうですか?例えばどんな仕事です?」
「教師とか保育士とか。青井は教育者が向いているんじゃないか?人当たりもいいし、他人に愛される性格だし、青井自身人に尽くせる性格だと思うし。青井ならいい先生になれるさ」
「まるで退職を進められてるみたいです」
「まさか。青井が居なくなったら困る」
「えっ!?」
「お前以外に俺達の怪我を誰が治すんだ?」
至極真面目にそう言った優に、思わず青井は声を出して笑っていた。優が何か変なことを言ったかと一瞬眉をひそめたが、直ぐにつられたように微笑む。
まだ転属してから日が浅い自分が、部隊でも頼られる存在である彼に求められる人材と称されると、矢張嬉しいものだ。一人の女として、一瞬トキメキそうになるような殺し文句を意図せず吐く彼は、しかし女性関係では以前の部隊から要注意人物と名高かったが、なるほど確かに心臓に悪い。自分はけっして軽い女では無いはずだが、今の彼なら一夜を共にしてもいい気さえする。
まあ、流石に篠崎2曹も後輩には手は出さないでしょう。
「因みに、高校では彼女居たんですか?」
「居たな」
「同級生ですよね?」
「いや、二年生だから後輩」
前言撤回。彼は矢張、女性関係では油断ならないようだ。
「Mr.ドラッグの居場所がわからないって、剱持さんが愚痴ってた」
京城府内のビジネスホテルの一室でノートパソコンの画面を睨む一之瀬の言葉に、三角は無言で答えた。日中確りと睡眠をとった彼女の仕事時間は、夜の景色が街に馴染んだこれからだ。
真新しい、新調したてのグレーのスーツに袖を通し、黒いシャツの襟元を大胆に開いて胸元のタトゥーを見せる。真っ赤な石のついたピアスとチョーカーを付けて、腕にはハイブランドのレディース時計。髪を少々整えれば、危険な香りを漂わせた色気立つ女がそこには居た。
「相変わらず派手すぎだ……。工作員が目立ってどうする」
「ちょっと派手なくらいが丁度良んだって。それに、これから会うのは嘗められると不味い手合いでしょ?相手を圧倒するならまず見かけからってね」
呆れ顔の一之瀬に、ウィンクを投げた三角は、ハンドバッグを片手に部屋を出る。部屋の前では、今夜のためだけに特別に呼びつけた小林と西谷が、スーツを確りと着こんで控えていた。
「お待たせー」
「また派手な格好して……」
「似合うでしょ?」
「そりゃ似合うけど……」
三角を認めた小林は分かりやすい表情で、西谷は苦笑混じりだった。二人とも、言いたいことは一之瀬と同じだろう。三角も自覚がないわけではないのだ。
「細かい事はいいでしょ。それより、車のほうは準備してあるわけ?」
「スモーク入れた黒のクラウンでいい?」
「オッケー」
ホテルの地下駐車場に停められた、存在感を過剰に主張するクラウンは、ワックスと撥水加工によりボディーもウィンドウも輝いている。状態が良く、追加で内外装を加工してある高級車の入手経路はあえて問うことはしないが、正規に購入してはいないだろう。
「目的地はわかってる?」
「クラブ愛。少し調べましたけど、高級クラブ指定してするって、流石は朝鮮有数の指定暴力団っすね」
「穏便に話せればいいけど……」
西谷と二人揃って顔を見合わせ、三角を一瞥してため息をつく。
「何よ」
「だって三角、口悪いからさー。交渉とか出来るのかって」
「元情報部なめんな!」




