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特殊戦闘作戦部対外作戦班とは、便宜上必要なための名称にすぎず、知る人は皆が幽霊と呼ぶ。存在が曖昧で実態が掴めない組織だからだ。部隊が非公式に作ったシンボルにも、デフォルメした幽霊と『4th-Wraith』の文字が印字されている。
世界中の紛争地域から平和な街の商店街まで。彼らの活動地域は広大であり、同時に活動内容は多岐にわたる。過酷な訓練と実任務によってふるいにかけられ、揉まれ鍛えられた彼らの中にあって、早瀬巴は昨年春に転属してきたまだ日の浅い隊員ながら、かつてはSISで特殊工作員として複数の任務を経験し、対外作戦班に置いても特殊工作活動でその知識と技能の高さから、既に古参の隊員からも一目置かれる存在となっていた。
そんな頼れる下士官も、時には些細な過ちを犯す。
左腕に巻いた腕時計を一瞥し、定刻の八時まで残り二分を切ったのを確認した英次は、机の数に比して少人数しか居ない事務室を見回して、ため息を漏らす。部屋の仲間たちが任務で不在なため、半分以下しか居ない事務室の最先任の南条光希中尉は、憮然とした表情で腕時計を睨み、あからさまにため息を漏らした。
「早瀬は遅刻だな」
「いや、たった今到着したみたいですよ」
無情にも、定刻の一分前に朝礼を始めようとした南条中尉に待ったをかけたのは、鷲見伍長だった。CBR600rrの水冷4ストロークの高回転が、隊舎の舎後に乱暴に進入し、タイヤを擦りながら停車したのを感じて、何度目かのため息が事務室を包む。バタバタと廊下を駆けてきた勢いのまま事務室のドアを体当たりするように開け放った早瀬巴の第一声は、「アウト!?」。
「時間的にはセーフ」
「常識的にはアウトだな」
英次と南条の言にばつの悪そうな渋面を浮かべる彼女は、私服姿──黒いライダースジャケットと白いパンツとブーツで、英次の向の席に付く。黒にピンクの和柄が入ったヘルメットを無造作に机に置き、同じく黒のオークリーのパイロットグローブを投げ捨てた巴が落ち着いたのを見計らい、南条は朝礼を始めた。
連絡事項や各人に認識させておくべき達し事項をつらつらと読み上げた後に、本日の訓練内容が言い渡される。部屋の住人達がわらわらと達せられた訓練の準備に移るなか、英次は自身の机の上に無造作に置いてあるマックブックを開く。
今日は1日中事務仕事を片付けなければ、彼は満足に訓練に励めなくなる。明日から始まる閉所戦闘訓練に名指しで参加するように言われている手前、明日以降には仕事を残したくはないし、訓練準備もしておきたい。
自身が教官として実施する訓練計画や、頼まれてしまった雑務の数々は、夕方までに片付けるにはいささか多い。
「英次。訓練計画まだ出して無いだろ」
「今作ってます」
「昼までに出せよ」
南条光希大尉が期限の二日前に書類を催促するのはいつもの事で、英次がそれに答えて言われた通りに作成出来てしまうのもいつもの事だ。彼が訓練計画を作成し終えて、南条に提出したのはきっかり十二時だった。
時報のラッパが昼飯時を報せる。
「飯行きまーす」
「私も昼休み入ります」
マックブックを待機状態に切り替えてから席を立つと、朝礼直後に仕事着に着替えた早瀬巴も同時に立った。
「今日は弁当じゃないんだな」
「朝時間なくて作れなかったのよ」
毎日欠かさず手ずから昼食を作って持ってくる巴は、今日に限っては駐屯地の売店へ向かう英次の後を付いてきた。左手には仕事用の小銭入れを携帯し、戦闘帽を浅く被った巴は、苦し気な表情を浮かべる。着替えて仕事にかかる前に、南条からありがたくも当たり前なお言葉を頂戴した事が恥ずかしいのだろう。
確かに、彼女らしからぬミスだった。
「寝坊?」
「ち、違うわよ!いや、確かに今朝は何時もより起きるの遅かったけど…………。朝から事故渋滞に捕まったのよ。それもトラックの横転で道塞いでるし、回り道も渋滞だったしバイクですり抜けしようにも道狭いから出来ないしで散々。イラついたからアクセル前回ですごい遠回りして来たんだから。途中で変なバイクにケンカ売られるし」
話ながらその時の事を思い出して、憤るように舌打ちしてぶつぶつと呟を漏らす。英次は意識的に、彼女の呟を気にしないよう努めた。たとえその中に、言葉にするのも憚られるようなNGワードが含まれていても、巴のような美人か口にするにはあまりにも下品なFワードが含まれていても、英次は聞いていないのだ。
「そうだ。今日の午後時間ある?」
不意に巴が言った。
表情は不機嫌さがまだ残っているが、声音は何処と無く妙案を思い付いた時のそれに近い。
こういう顔で話を振るのは、大抵は録でもない内容だ。今はこの場に居ない優がそう言う顔で、録でもない話をよくしてくる。
「いや、まあ無いこともないけど……デスクワークさえ片せば」
「なら、片付けたらヤらない?」
ああ、本当に録でもない。
「いや、多分今日は残業だぜ?」
「いいわよ。待つから」
やんわりと、暗にやりたくないと言っても、彼女はそれを良しとはしない。
これが酒の誘いなら英次も嫌な顔はしないのだが、彼女の誘いは酒でもなければ逢い引きでもない。格闘指導官の巴は、同じく指導官の英次を度々組み手に無理やり誘うのだ。それも、ルールは最低限急所攻撃無しプロテクター無しのフルコンタクト。毎度お互いに翌日に響かない程度にボロボロになり、巴が満足するまで続く、英次にとって最悪な不定期開催の行事だ。
「いや、他にも格闘指導官なら居るだろ。そっち当たれよ」
「適度なストレス発散にはあんたが丁度いいのよ」
「俺はお前のサンドバッグでも打ち込み人形でも無いから」
「いいじゃない。少しだけ、ほんのちょっとよ。気持ち良くなりましょうよ」
「その言い方…………痴女みたいだな」
「あ?」
口の中だけで呟くように言った一言は、しかし地獄耳が聞き逃さなかったようで、他部隊の隊員から羨望の眼差しを向けられる女性下士官が見せてはいけない表情で英次を睨む。凄んだ美人とは案外怖いものだ。眉間にシワを寄せて眉を歪めて、今にも鋭いリバーブローを突き刺しそうな巴の眼差しに、英次はひきつった笑みを浮かべて「何でもないです……」と、思わず謝罪してしまう。
巴は怒らせない方がいい。実際は知らないが、口より先に手が出そうな女だ。
話題を変えて誤魔化そう。
駐屯部隊の半数近くが訓練で不在のため、何時も昼時は行列が出来る売店をがらんとさせていた。目についた商品を急いで確保せず、ゆっくり吟味できるのはありがたい。
「お前野菜ばっかだな」
彼女が手に下げる全国チェーンの大手コンビニエンスストアが入る厚生隊舎(売店や散髪店など、隊員の生活基盤を支えるサービスが集約した隊舎)の売店の、オレンジ色の買い物カゴには、サラダや野菜ジュースなど、緑黄色野菜が中心の商品ばかり。たんぱく質や炭水化物が極端に少ない。
「たんぱく質と炭水化物も無いと倒れるぞ?」
体重でも気にしてるのだろうか。いや、気にするほど彼女は太ってはないし、寧ろ特定の女性的な特徴を除けば筋肉質に引き締まった健康体だ。そんな菜食で一般的成人女性以上の消費カロリーが補えるのだろうか。そしてその細身からは考えがたい不自然な天然の胸部装甲はどうやって生成維持しているのだ。
「炭水化物ならサラダパスタがあるし、たんぱく質だってほら」
何言ってんのよと言わんばかりに、カゴの中から、薄味の鶏むね肉を取り上げて見せる。それも三つ。どれも味が違うのがこだわりらしい。
確かに、一見三色がしっかり取れているように見える。だがしかし、それは女性が食べる食事量にしては些か多くはないだろうか。サラダパック二つと冷製サラダパスタとペットボトルの野菜ジュース一本とチキン三つと豆腐一斤。普通の男性でも、それなりに腹にたまる量があるし、英二なら満腹になる。普段の彼女の昼食は女性的なコンパクトな弁当箱だった気がするのだが。いや、意識して普段見て居ないから気が付かなかっただけで、実は結構食べているのかもしれない。
「い、意外と食べるんだな……」
「そう?まあ、何時もより量は多いかもね。珍しくたんぱく質中心だし」
「そうなのか?」
いやいや、俺には野菜中心にしか見えないからな。
「午前中は体育館でマシーントレーニングしてたからたんぱく質取らないと。美空に怒られるのよ。ちゃんと筋肉に負荷掛けたらその分労れって」
「あ、そう……」
うちの部隊の女共は美人の皮を被ったゴリラばっかりか──。
英次は自分の買い物カゴの中身が、彼女より少なく栄養価が偏っていることを若干ながら気にしながら、会計の列に進んだ。
因みに余談ながら、残業で十八時まで仕事をした英次は、通勤に着ているスーツに着替えず、こっそり戦闘服のまま独り暮らしのアパートに帰宅しようとして、確り巴に捕まって、ボロボロになってから、ようやく二十時に駐屯地を抜け出せたのだった。




